39話
部屋に戻った陽毬がいち早く取り掛かったこと、それは歯磨き。いつも以上に念入りに磨き、マウスウォッシュで口を濯いだ。時間をかけすぎたせいか、車を停めに行っていた朔夜がやって来たのは焦った。
慌てて洗面所から出て、時間が時間なのでコーヒーは辞めてペットボトルのお茶を出す。コートをハンガーにかけた朔夜に客用のクッションに座ってもらう。陽毬もいつも使ってるクッションに座る。
何かする、と言っていた割に朔夜の様子はいつもと同じに見える。反対に陽毬は緊張していた。キスが嫌じゃなかった理由を話さないといけないからだ。今更やっぱりなしで、は通用しない。
引き留めたのは陽毬だ、自分から切り出さなければ。よし、と朔夜に向き直った。
「…さっきの話の続きだけど」
「うん」
朔夜は優しい顔で相槌を打っている。
「朔夜にキスされて、めちゃくちゃ驚いたし頭真っ白になった。ラーメン食べてるの知ってるのに何してくれてるんだ、って怒ったよ」
終盤、低い声で言うと朔夜は気まずそうに頬を掻いた。
「けど、キス自体が嫌だったわけではなくて」
「うん」
覚悟を決める時が来た。
「私、朔夜のこと、好き…多分」
余計な一言に朔夜の眉間に皺が寄る。ズイ、と彼が身を乗り出してきた。
「多分て、なんだよ」
「だって、絆されて好きになったかもしれないのが不安なの」
「は?何が不安なんだ?」
「裏切られて傷ついてる時に優しくされたからって好きになるの、何かちょろい気がして。本当に好きになったのか分からないの」
何度も心の中で自問自答をした。自分なりに結論を出せたけど、それでも引っかかるものがあった。そんな陽毬に朔夜はぶっきらぼうな話し方の中に、優しさを含ませた声音で諭すように言い聞かせる。
「俺としては頑な過ぎるよりずっと良いけどな。それに傷心のお前につけ込んだのは俺の方だ。絆されるのを期待してたんだから、気に病む必要はない」
「でも」
この期に及んでウダウダしている陽毬に朔夜は大きく溜息を吐いた。
「めんどくせぇな」
低い呟きが耳に届くのと、彼の顔が近付いてくるのは同時だった。再び、唇に温かいものが押し付けられる。今度はすぐに離れていく。温もりが離れていって寂しいと思い、指先で唇に触れる。朔夜は陽毬の唇に視線を落としたまま言った。
「…お前さ、幼馴染としか思ってない奴と何度もキス出来るのか」
ちゃんと考えろ、と彼の目が訴えている。陽毬は突然された時と違い、今は冷静にものを考えることが出来ていた。
付き合いの長い、家族同然の朔夜。その認識のままで同じことをされたら…。恐らく拒絶していたと思う。陽毬が朔夜にキスをされても、嫌がるどころか寧ろ…。
「…出来ない、と思う」
至近距離で見つめ合っていた朔夜が嬉しそうに、仏頂面を綻ばせた。
「陽毬は俺のこと、ちゃんと好きだよ」
「…」
「おい、何で微妙な顔してるんだ、納得しろ」
不服そうに唇を尖らせる朔夜が拗ねた子供に見えて、つい笑ってしまう。
「うん、そうだね…私、好きだよ朔夜のこと」
陽毬は朔夜が好き。誰に対しても、胸を張って言える。認めたことによって、胸の中でつかえていたものが消えたのかスッキリとした心地だ。
陽毬が自分を好きだと認めた、その瞬間朔夜に抱き締められていた。年末の告白の時と同じか、それ以上の力で腕の中に閉じ込められる。
「く、くるし…」
「ちょっと我慢してくれ」
陽毬の肩に顔を埋め、擦り付けてくる。大型犬に甘えられていると錯覚するほどの勢いだ。あとどさくさに紛れて匂いを嗅ぎ始めている。それは駄目だ、と無駄だと思いつつも腕の中から逃れようとするが、やはり力の差は歴然。無理だ、と早々に諦めて腕の中に収まっていた。
「陽毬、俺と付き合ってくれ。絶対大事にする」
耳のすぐそばで囁かれ、身体がゾワゾワとする。朔夜の熱っぽい吐息が耳にかかり、変な声が出そうになるのを必死で堪えた。
(そうか、そうなるよね)
互いに好き同士なら、付き合う。ごく自然の流れだ。朔夜となら恋人として、良い関係が築けるはずだと確信出来た。
しかし、正直なところ手放しで彼の申し出を喜べない。陽毬にはある懸念があった。
「…あのさ」
「ん?何だ?」
「付き合ったらさ…そういうことするよね?」




