38話
『ごめんな』
視界いっぱいに広がる朔夜の端正な顔、唇に触れる柔らかい何か。耳に届くリップ音。
(……っっっっ!!)
陽毬は朔夜にキスをされていた。怒りで頭に血が上っていた陽毬だったが、突然の朔夜の行動に頭が真っ白になる。龍司もキスシーンを見せつけられ、顔を真っ赤にしながらワナワナと震えてこちらを睨みつけていた。
「な、な、何してんだよ!」
パニックに陥り、噛みながらも何とか言葉を発した龍司。朔夜はそんな龍司に苛立ちを覚えたのか、更に見せつけるようにキスを深くした。当然陽毬もパニックに陥り、角度を変え何度も何度も繰り返されるキスになす術がなく固まっていた。
やがて気が済んだ朔夜が顔を上げて龍司に視線を向ける。
「何って見れば分かるだろ?そういうことだから、お前はもう必要ないんだよ、分かったらさっさと失せろ」
心底鬱陶しそうに吐き捨てた。
「はぁ!ふざけ」
「…あんまりしつこいとストーカーで訴えるぞ。知り合いに腕の良い弁護士がいるんだ…勤め先に元カノに付き纏ってるってバレたいのか?」
「っ!」
冷たい声と共に向けられた脅しに龍司は分かりやすく怯んでいる。暫く唇を噛んで何かを考えていたが、最後にこちらを恨みがましい目で睨みつけると、踵を返し逃げるように去って行った。
「取り敢えずは追い返したか…また来る可能性もあるから警戒は…陽毬?」
意識が明後日の方向に向いていた陽毬は朔夜の声で現実に引き戻される。が、やはり何処かぼんやりとしていた。
「え…あれ、龍司は」
「帰ったよ、脅したし色々理解させたから、もう来ないとは思うぞ」
「そう…良かった…っっっ!」
陽毬はついさっき朔夜に何をされたのかを思い出し、とてつもない羞恥心に襲われた。朔夜の顔を見られなくて、咄嗟に彼に背を向けマンションに駆け込もうとした。が、いち早く反応した朔夜によって腕を掴まれ拒まれる。
「陽毬!待って、落ち着いてくれ!」
「お、おちついて」
「落ち着いてないだろ…さっきはあんな真似して本当に悪かった。アイツが聞くに耐えないことばかりほざくから、もうお前なんか必要ない、と分からせてやりたかったんだ…理由が何であれ俺は許されないことをした、お前が怒るのも無理はない。好きでもない男にキスされて、嫌だったよな…」
陽毬はゆっくりと振り向いた。朔夜は唇を噛み、自分のしたことを後悔しているのか辛そうに表情が歪んでいる。
陽毬は朔夜が勘違いをしていることに気づいた。確かに陽毬は怒っているが、キスをされたからではない。誤解されたままなのは困る。陽毬は羞恥で薄紅に染まった顔で彼を見上げ、不安げに揺れる瞳を真っ直ぐ見つめる。
「…怒ってはいるけど、キ、キスされたからじゃない」
「…え?」
陽毬の答えが余程意外だったのか目を見開き、口も半開きだ。彼に見惚れる数多の女性達が絶対見ることの出来ない表情。中々拝めない珍しい朔夜の顔を見れることに仄かな優越感を覚える。
「…に、ニンニク食べた口でキスしたくなかった、だから怒ってるのっ」
言った、言ってしまった。もう朔夜と目を合わせることが出来ずに俯く。朔夜も、勿論陽毬も何も言わない。
2人の間に沈黙が流れる。目を瞑り、いつのまにか解放されていた右腕と左腕をだらんと下げ手をぎゅっと握りしめて、永遠とも言える時間にじっと耐えていた。
やがて、静寂を破ったのは。
「…お前そんなこと気にしてたのか」
揶揄うような響きを乗せた朔夜の声だった。馬鹿にされたと感じた陽毬はムッとして言い返す。
「そんなこと?誰がニンニク食べた口でキスしたがるの?嫌に決まってるでしょ」
「ふーん…陽毬が怒ってる理由は分かった」
良かった、変に誤解されなくてと胸を撫で下ろした瞬間。
「じゃあ、キスされた事が嫌だったわけじゃないんだな」
(…あ)
さっき自分が何を言ったのか。それがどういう意味で受け取られるのか。恐る恐る顔を上げると、獲物を捉えた肉食獣を彷彿とさせる鋭い眼差しの朔夜と目が合った。
本能で察した。これは逃げられない、と。
「陽毬、教えて。キス、嫌じゃなかったか?」
「…」
「黙ってると、またするぞ」
陽毬がどうすれば言うことを聞くか、理解した朔夜は躊躇いなく脅してくる。またされたら今度は確実に恥ずかしさで死ねる、と本気で慄いた陽毬は観念して白状した。
「…嫌じゃなかった」
「何で嫌じゃなかったんだ?」
(分かってる癖に…っ)
朔夜の追求は止まる気配はない。だが、こんなマンションの前で言うのは嫌だ。そもそもさっきの騒動も近隣住民に見られてる可能性が高い。さっさとこの場から去りたいのが本音だ。
「…ここで言いたくない。部屋来てくれるなら、言う」
朔夜が息を呑んだ。部屋に入ったら陽毬に何かする、と心配していた朔夜のことだ。引き下がるかもしれない。
「…それ本気で言ってる?」
言い聞かせるように確認してくる。
「本気だし、前言ってたことも忘れてないよ」
分かった上で誘ってる。陽毬は朔夜が自分に「何か」をしたとして、構わなかった。寧ろ、今は1人になりたくなかった。無性に寂しい。情けない姿を見せたくないからと、ずっと押し殺していた感情を元彼にぶつけた反動だろうか。何かに縋りたい、人の気配を身近に感じていたい。
陽毬はさっきと打って変わって、朔夜を強い意志を持って見つめた。彼の瞳にほんのり、熱が宿っている。
彼はどう出るのか。断るのか、それとも。
「…車、停めてくる」
「…分かった、待ってるね」




