37話
陽毬がマンションに戻ったのは19時過ぎ頃だった。あの後、さっぱりしたものが飲みたいと朔夜が言い出して向かったのは純喫茶。この店もネットで調べて、レトロな雰囲気とスイーツ人気だと書かれていたので試しに向かったところ、雰囲気も味も良かったのでとても満足した。
その後はショッピング、軽くレストランで夕飯を食べ明日も仕事だからと、早めに送ってもらったのだ。いつものようにマンションの前に車を停めてもらい朔夜に挨拶をして降りようとした、時だった。
「陽毬!」
何処からか自分の名を呼ぶ声が聞こえる。切羽詰まったような響きのある声は聞き覚えがあった。覚えがあるどころではない、この声は。背中に冷たいものが走った陽毬はゆっくりと右を向く。
視線の先にはもう会いたくないと思っていた元彼、龍司がいた。陽毬が自分に気づいたと分かり、ズンズンと大股で近づいてくる。
(なんてタイミングの悪い…!)
龍司が時折マンションの前を彷徨いているのには気づいていた。けど、いつも短い時間彷徨くだけですぐ帰っていたからあまり危険視していなかった。どうせすぐ飽きると、高を括っていたのだ。一応朔夜にも相談したが心配だから引っ越せと言われ、流石にそこまでするほどじゃない、と本気で心配する彼をのらりくらりと躱していたのだ。
朔夜の助言の通りにしておくべきだった、と後悔してもすでに遅い。
陽毬が距離を取ることを忘れ、呆然としていると必死の形相で陽毬の肩を掴もうとしてくる。ついこの前まで付き合っていた相手だというのに、ギラついた瞳が恐ろしく触れられると思った瞬間肌がゾワッと粟立った。
(やだ…!)
が、彼の手が陽毬の肩を掴むことはなかった。横から伸びて来た腕が彼の手を掴んだからだ。
「いっってっ!」
「…陽毬に触るな、クソが」
車から降りた朔夜が凍えそうなほど冷たい目で龍司を睨め付けていた。片手で龍司の手を掴み、捻り上げており痛みに悶絶している。
「っ離せよ!」
「陽毬に何もしないと誓うなら離してやる」
「誓う誓う!何もしない!」
「…」
疑り深く龍司を睨んでいた朔夜は塵でも捨てるかのような雑さで手を離した。龍司の手首には赤い痕が付いており、もう片方の手でさすっている。
朔夜は警戒を解かず、陽毬を庇うように前に立つ。痛みから解放されて落ち着いた龍司は再び陽毬を見据えた。その濁った瞳にまたもゾワッとした感覚が襲う。
「っ、陽毬、誰だよこいつ…」
「…陽毬の幼馴染だ」
「幼馴染?赤の他人は引っ込んでろよ、俺は陽毬と大事な話があるんだ」
怒りの形相で朔夜を睨むも、彼にそんな脅しは通用しない。
「は?元彼の分際で、何が大事な話だ笑わせるなよ。あんた、最低な形で陽毬を裏切っておいてどのツラ下げて顔出せたんだ?」
冷徹な瞳で見下ろし、怒りを内包した声で淡々と龍司を問い詰める様は声を荒げて怒鳴るよりも恐ろしく映った。自分よりも背が高く整った顔の男に真正面から怒りをぶつけられ、龍司は怖気付いているが、それでも言いたいことがあるのか声を上げた。
「あ、あの時のことは謝る、土下座でも何でもする。だから陽毬戻って来てくれ!」
(…は?)
何を言ってるんだこの男は、と陽毬は何処までも冷めた目で龍司を見た。朔夜も「はあ?」と呆れ切った声を出す。
「佳奈とのことは気の迷いだった。アイツ、一々言い方がきついしプライドが高くて機嫌を取るのが面倒臭いんだ。メッセージもすぐ返さないと怒るし、交友関係にも口を出すから息が詰まるんだよ。陽毬は俺のやることなすことに一々口出さないし、一緒にいて楽だった…別れて気づいたよ陽毬の良さに。なあ、頼むからやり直そう?浮気なんて2度としないし大事にするからさぁ」
(…こんな人の何処を好きだったんだろう)
既に冷め切っていた心が氷点下まで冷えていく。こちらの機嫌を伺う龍司のヘラヘラとした態度、身勝手な言い分、やったことをすっかり忘れ陽毬とやり直せると思い込んでるおめでたい頭。
その全てを目の当たりにし、陽毬の中の何かが切れた。一気に頭に血が上る。
「…っ!ふざけないで!自分が何やったか忘れた?私があの時、どんだけ悔しくて惨めで悲しかったか分からないの!分からないからやり直そうなんて馬鹿なこと言えるんだね、はっきり言う。龍司とは絶対やり直さない、浮気した人間なんて気持ち悪くて無理、嫌い、もう2度と顔を見せないで!」
湧き上がる激情のままに龍司を怒鳴った陽毬はハァハァ、と肩で息をしている。龍司は喧嘩の時ですらそれほど怒らなかった陽毬の感情的な、そして自分を心の底から拒絶し嫌悪してる様を見せつけられ唖然としている。朔夜も感情的な陽毬を目の当たりにし、驚いていたが陽毬が溜め込んでいた感情を吐き出せて、ホッとしたように顔を綻ばせた。
そしてハッと我に返り陽毬に言われたことを理解した龍司は、顔が憤怒で見る見るうちに赤くなっていくと吐き捨てるように叫ぶ。
「っ!んだよその言い方、こっちが下手に出てれば調子に乗りやがって!男に守ってもらってるからって言い気になってるんだろ!お前みたいな奴もういいわ、いっつも済ましててつまんねーしヤッても退屈」
「おい、黙れ」
「ひっ!」
地の底から這い出て来たような低い声で恫喝され、龍司は目に見えて怯え出す。
「ふざけたことばかり抜かしやがって、陽毬はお前みたいなクズに貶められる奴じゃねぇんだよ。陽毬の良さに気づいた?やり直したい?自ら手放した奴が言う資格はない。寝取り女とクズ同士仲良くやってろ、2度と陽毬に関わるな」
「さっきから何なんだよあんた!」
「あ、俺か?」
すると朔夜が身体の向きを変え、陽毬を見下ろす。そして彼が陽毬の両腕を捕え徐に顔を近づけてくる。突然のことに陽毬は抵抗することも忘れ、迫り来る朔夜の鋭くも、何かに縋るような光を宿す眼光に魅入っていた。
辛うじて分かったのは、彼が声を出さず何かを言ったこと。口の動きから、それは。




