その五
真耶さんが大学院に進んだのは、もともと大学の勉強が好きだったのもあるけど、有り体に言えば就職活動の失敗のためだった。
真面目で堅実な性格の真耶さんが苦戦するとは周囲の誰も思っていなかったし、ぼくもそれに同意する。
一方で真耶さんは、教員や学芸員など大学で取れる免許はしっかり漏らさず取得した。それら専門的な知識をさらに追求するためにも院は良いところだし、研究職も視野に入れつつの大学院生活は楽しそうだった。
ところが、このまま研究者の道を歩むにしても、相当な困難が待ち受けていることが、自ずと見えてきた。だっていずれにしろ「雇い雇われ」の関係となる事に変わりはないのだから。
うちの大学院は前期と後期に分かれていて、前期課程の仕上げとして論文を提出し査読を通れば修士号が取得できる。でもそこから先の展望が見えないのでは、研究に没頭することも難しいだろう。
まして、理系の院卒は専門職として受け入れる一方で、文系のそれは敬遠されるという、嘘か本当かわからない風説に真耶さんは心を乱されてしまった。
その結果、せっかく完成した真耶さんの修士論文は、提出されないままになっている。
今の真耶さんは週三回、派遣の仕事をしている。
社会保険の適用される週あたり労働時間が短くなったので、どうせ働くなら厚生年金の付く仕事が良いぞ、というお父様のアドバイスのもと。
正規雇用では難しい採用通知の獲得も非正規雇用に目を向けた途端に簡単になるのもおかしな話だと思うけど。
——
「え、じゃあ、初めて歯医者に行ったってこと?」
「いえ、検診とかでは行ってましたよ。虫歯の治療が初めてだったんです」
「怖くなかった?」
「はい、最初は。でも虫歯が歯の表面だけだから、菌を取っちゃえば大丈夫って」
勤務中の私語は慎むように言われてるけど、初日にあたしがコチコチに緊張してたもんだから、お客様のいない時にヒソヒソ話すくらいなら良いんだよと、先輩にナイショでアドバイスをもらった。
「嬬恋さん、歯が丈夫なんだね。アタシも虫歯は少ない方だけど、大人になってから抜いたもの」
「抜いたんですか?」
「うん。親知らず。上はまだ良かったけど下は辛かったなー、腫れたし」
「うわあ、やっぱり親知らずが悪さすると大変なんですね。あたしも気をつけないと、あ」
お客様だ。お話はいったん中断。
「嬬恋さん、親知らずは?」
「あ、その前に」
お客様の受付と、ご案内を済ませたところで、あたしは記憶違いをしていたことに気づいた。
「さっきの話ですけど、歯を抜いたことならありました。乳歯がまだ残ってるのに奥から永久歯が生えて来ちゃって」
「そうなの? うちの旦那もそうだったってさ。自然に乳歯が抜けるの待ってたのにダメだったの。あ、これ、その時の写真」
先輩がスマホで画像フォルダを開くと、口を開けた男の子の写真。口の中を拡大して見せてもらうと、前歯が二重になってる。
「わぁすごーい、じゃあ結局、抜いたんですか?」
「そう。もっと早く来いって歯医者さんに怒られたみたいよ」
「あ、親知らずの話してたんですよね」
「そうそう。でさ、アタシも旦那もわりと歯は丈夫なんだけど、さすがに大人になるとさ、抜くでしょ? 親知らず」
「うわぁ、それ、痛いって聞きますけど」
「痛かったよー。上はまだ良かったんだけど、下が特に大変で。ほとんど歯ぐきに潜ってて、ちょっと出たところから虫歯になって痛くて痛くて。もうね、我慢するのも地獄、抜くのも地獄」
「ひぃっ」
「あれってもう、大工仕事だよね。釘を抜くみたく、頭蓋骨から親知らずを引きちぎる感じっていうか、切ったもん。歯茎」
「……痛そう」
「麻酔してるうちは痛くはないよ。けど、でもギシギシとかゴリゴリとかいう音が普通に怖かったし、麻酔切れてからが痛いし腫れるし……」
「あたしも、気をつけなきゃ。しっかり磨かなきゃです」
「ホント気をつけた方がいいよ。嬬恋さんも。今どんな感じになってるか分かんないけど、顔ちっさいから歯が押されちゃってるかも」
「はい、そうですね、って、えっと、ごめんなさい、どういう感じのことです、か?」
「うん、だから、親知らずがもし生えて来たりしたら気をつけてね、って」
……あ、そっか。大事な事言ってなかった。
「あ、あの」
「ん?」
「あたし、親知らず、生えて来てるんです。親知らずが虫歯になったんです」
「ええーっ? 何本、生えて来てるの?」
「四本……」
「曲がって生えたりしてない?」
「大丈夫みたいです、歯医者さんが言ってました。四本ともきれいにまっすぐ生えて来てるのは珍しいって。しっかり磨いたりしてケアすれば長持ちするって」
「うそぉ……、うらやましい。でもさ、こんなに小顔だしアゴ小さいのに、なんで?」
「顔の大きさとかって関係ないって説もあるみたいなんです。あたしは、もう少しお口が大きくてもいいかなって思うんですけど。ゴハンの一口がちっちゃくて、食べるの遅いんですよー」
「それは悩みになんないってばぁ」




