その17
天使の声が聞こえる。
バンデリックは、微睡みの中、気持ちよくなっていた。
いや、それは、完全完璧に気のせいだった。
どちらかと言うと、××ではない。
完全に、罵声を浴びせられていた。
「この馬鹿、目を覚まして、這い上がりなさいよ!」
罵声の主は、天使ではなく、悪魔……、いや、魔王だった。
バンデリックは、一旦失った気を無理矢理起こされた。
見た目は、確かに天使に見ようとすれば、見えなくはない。
見た目は、どちらかと言うと、と言うより、完全に愛らしい。
銀髪に、赤銅色の目を加味しても、十分以上にそう感じられる。
だが、一度号令を掛けると、その圧倒的な何かに、従わざるを得なくなる。
バンデリックは、ぼやけて霞が掛かっている頭の中で、現状を理解した。
まあ、理性ではなく、本能で理解したにすぎないのだが……。
サラサは、両手で自分の左手をガッシリと掴み、船に引き上げようとしていた。
この華奢すぎる身体の何処に、そんな力があるのかと、ボケている頭で考えていた。
そう考えると、絶体絶命なのに、急におかしくなってきた。
とは言え、バンデリックの身体を支えているだけで精一杯であり、引き上げる余力は全くないようだった。
まあ、現状維持だけでも奇跡なのだが……。
「お嬢様、もういいですよ」
バンデリックは、笑顔でそう言った。
ボケた頭でも、自分を引き上げるのは困難である事は分かっていた。
そして、このままだと、サラサも巻き添えになる事も。
「諦めるな、この馬鹿!」
サラサは、珍しく涙でくしゃくしゃになりながら叫んでいた。
サラサの両手に更に力が入った。
だが、現状維持でさえ、難しい事は明らかだった。
動かしたくても、バンデリックは、マストの直撃のせいで、全く身体が動かなかった。
「……」
なので、無言で、微笑む他なかった。
そして、最後に、サラサの声が聞けて良かったと覚悟を決めた。
「バンデリック!!
あなたが死んだら、あたしも生きていける訳ないじゃない!!」
サラサは、悲痛な叫びを上げていた。
「!!!」
バンデリックは、びっくりした。
そんなサラサを見るとは思えなかったからだ。
と同時に、奇跡が起きた。
動かないと思った右手が動いたのだった。
震える右手で、何とか船体の縁を掴んだのだった。
そして、一気に身体を引き上げようとした。
だが、流石に、それ以上の事は出来なかった。
(無念……)
現状維持以上の事が出来なかったバンデリックは、そう思った。
このままだと、いずれ時間が経てば、2人共、海の藻屑になるのは明白だった。
「諦めるな、バンデリック!!」
サラサは、諦めそうなバンデリックを叱咤した。
と同時に、バンデリックを引き上げようともがいていた。
でも、やはり、現状維持が精一杯だった。
いよいよと言うところ、バンデリックの両腕に何本もの手が触れた。
「野郎共、引き上げるぞ!」
船長の叫び声を上げた。
おおっ!!
叫び声に呼応して、バンデリックの腕を掴んだもの達が、一斉に力を入れた。
そして、バンデリックを甲板まで一気に引き上げた。
「ふぅ……」
「へぇ……」
バンデリックを引き上げた者達は、事が済むと、一斉に安堵の溜息を上げた。
サラサは、一気に安心が押し寄せた事で、へたり込んでしまった。
だが、同時に、バンデリックへの膝枕は忘れてはいなかった。
「閣下、よくぞ頑張りましたね」
船長は、笑顔でそう言った。
「あ、ありがとう……」
サラサは、年相応の少女のはにかむ表情で、礼を言った。
「指揮は私が、引き継ぎます」
船長は、サラサとバンデリックを見ながらそう言った。
引き上げられたとは言え、バンデリックはピクリとも動かなかった。
生きてはいるのだが……。
「お願いするわね」
サラサは、素直にそう答えた。
「よし、野郎共、嵐を乗り切るぞ!!」
船長は、乗組員達を鼓舞するようにそう言った。
おおおぉ!!!
乗組員達は、その鼓舞に乗っかり、雄叫びを上げた。
船は、嵐に突入しており、大きく揺さぶられていた。
その嵐を避けるためか、敵艦の追撃は幸いない。
そうなると、この商船をよく知っている船長に指揮を任せた方がいいのは明らかだった。
とは言え、今のサラサには、そこまで考えが回らなかった。
取りあえず、自分の半身とも言える人物が助かったので、それ以上の事を考えられなかったのだった。
ここで、エリオの名を出すのは何だが、エリオもサラサも、ここまで追い込まれないと自分の気持ちに気付けないポンコツだった。
「取りあえず、生きてくれて良かった」
サラサは、素直に膝枕しているバンデリックに話し掛けた。
「……」
バンデリックは無言だったので、その言葉を聞いていたのか、聞いていないのか分からない。
何故なら、バンデリックは、今まで全く感じていなかった痛みが全身を駆け巡ったために、気を失っていた。
「全く……」
サラサは、息をしているのが確認できたので、呆れたようにそう呟いた。
だが、とてもいい表情の笑顔だった。
とは言え、嵐の真っ只中にいる現在、危機は全く去っていなかった。
それどころか、詰んでしまいかねない状況だった。




