御所
室町幕府の十三代将軍、足利義輝が三好と手打ちをして京に戻ったのは、永禄元年、1558年の末のことになる。
それまでも幾度も講和と手切れが繰り返されたために、今回の和平も長くはないのではと危惧する向きもあったが、永禄四年、西暦では1561年の正月のこの時点まで、丸二年にわたってひとまずの平穏が続いている。
京の町は荒れ果てたままだが、上京と下京の間に定められた将軍家の新たな御所の建設は進んでいる。
新陰流の当主と新田蜜柑は、その建設中の御所に呼び出されていた。
今回の拝謁は正式な会見ではなく、上泉秀綱との剣術つながりを踏まえての非公式な接触となる。一方で、新陰流の高弟である神後宗治、疋田文五郎は同席を許されず、控えの間で待機している。
庭に無造作に置かれた床几には、略式の会見だと強調する意図が込められている。火鉢が置かれたのは、幕府の家来衆の心配りであった。
着座すると、あいさつもなしで現職の将軍が口を開いた。
「横瀬国繁を討滅したそうだな。あの者は、先代から幕府への忠勤ぶりが目立っておった」
口を開こうとした師匠を制して、蜜柑が口を開いた。
「横瀬氏は、由良へと改姓したのだそうです。そして、我が家が新田姓を名乗っていたのが気に障ったようで、攻め寄せ来まして。……源氏の新田ではないと説明したのですが」
「新田姓は源氏ではないか。それを偽るつもりか」
「いえ、夫は神隠しにあった身でして、その世では源氏でない新田がいたとのことです」
「世迷い言を」
義輝の言い分が無理筋だとするのは難しい。この時代、新田を名乗るとなれば、源氏の末裔で、皇族の血が入っていると宣言していると理解する方が自然である。
呼吸を捉えて、上泉秀綱が割って入った。そこは、さすがに兵法家である。
「先日の天覧試合の後、今上より大中黒の旗印を使用するようにと勅諚が出ましてな」
その言葉を耳にして、義輝の唇が歪む。
「家紋ならともかく、旗印は武家の領分であろうに。改元を幕府に相談しなかった件といい、今上は我が足利を蔑ろにする度合いが強いようだな」
帝への批判に相槌を打つわけにもいかないが、否定もしづらい。反応に迷っていた蜜柑を横目で制して、上泉秀綱が話題を転がしにかかった。
「義輝様は、天覧試合には参加されませんでしたな」
「あれは、剣術家の集まりであろう。北畠も不参加だったと聞いておる」
なにも剣士としての参加を期待していたわけではなく、臨席がなかったと言及しただけなのだが、義輝の反応は強い。さらに語気を強めて言葉を継いだ。
「であるのに、武家の妻の身で剣術仕合にでるとは。その上、一之太刀を伝授されたとは笑わせてくれる」
「お喜びいただけてなによりです」
ほにゃっとした蜜柑の笑みに邪気はない。彼女は、天覧試合への参加という自らの選択を悔いてはいない。塚原卜伝のやりようには異議を申し立てたい気分もあるが、考えがあってのことだと言明されては、否定するわけにはいかない。
そして、北畠具教の言動で心を揺らされていたのが嘘のように、蜜柑の心境は安定していた。塚原卜伝と、そして今上との交流の影響もあろうか。
相手の表情に、武家の棟梁たる人物もさすがに毒気を抜かれた様子で、自ら話題を転じさせた。
「越後長尾の政虎殿は、関東に入られたようだな。我が義弟も、現職の関白の身で戦陣に身を投じたとか」
近衛前嗣の姉が義輝の正室となっており、同時に母系からいとこでもある、という間柄だった。
「我が新田も、微力ながら参加しております」
蜜柑の言葉には、確かな感覚に裏付けられていた。彼女が出立する前まででも、新田主導で幾つかの城を落としているのは、間違いのないところとなる。
「ふむ……。まあよい。朝廷に大嘗祭向けの献金ができるのなら、幕府にも資金を出すことを許そう。この御所の建設費用がよいかな」
「必ず申し伝えます」
そこからは、天覧試合の話題となり、対応はもっぱら上泉秀綱が務めた。政事向きの絡みがなければ、この人物の剣術好きの度合いは強い。当代でも一、二を争う剣豪による剣術家達への評言は、義輝の心を浮き立たせたようだ。
退席後に、控えの間に饂飩と清酒が振る舞われた。疋田文五郎と神後宗治の分も供されている。
饂飩は新田風のうどん切りではなく、ひとかたまりの状態で汁につけられている。口にした神後宗治は、やや肩を落としている。
「断然そば切り派だったんだが、新田風のうどん切りもうまかったんだな……」
「それはそうだが、これはこれでいけるぞ」
「じゃな。汁の柔らかな味わいも、また別物でうまい」
特に庭で身体を冷やした蜜柑にとっては、温かいだけでも充分なご馳走だった。弟子たちの言葉に、上泉秀綱が応じる。
「公家衆の食事は、もっと薄味らしいぞ。護邦殿が、体を動かすと自然と塩を欲するのだと言っていた。公家の方々はあまり動かぬから、塩を欲しがっておられないのだろう」
「そういうものですか。塩を欲しがらないほどに身体を動かさぬ生活というのは、どういうものでしょうな」
「我らからすれば、退屈なのは間違いなかろう」
神後宗治のまとめに、心から頷く一同であった。
本日はもう一本、夜に更新させていただきます。明日に二本で、今回の道中記は完結となります。
その後は、本編の四部の配信を進める予定でおります。