宮中
蜜柑が構えた剣の先には、かつての対面時の穏和さが消え失せた、鬼気を発する老剣士がいる。
その圧迫感は、かつて彼女が討ち果たした長野業正の放っていたそれと同等か、あるいは上回る威力となっている。
剣神と対峙する機会を得ているからには、無様な姿は晒せない。ましてや、ここは宮中で今上の御前である。会場となっている庭に隣接する建物からは、帝とその侍者らが剣術家二人を注視していた。
「どうしてこうなったのじゃ。……船にも乗っていないのに吐きそうじゃ」
そう呟いた蜜柑は、腹に込めた力を解放し、上段から鋭く打ち込んだ。剣聖の放つ鬼気に触発された彼女もまた、尋常ならざる剣気を放出していた。
天覧試合は、正月の二日に宮中の庭で催される運びとなった。廊下に設置された椅子から見つめている今上は、後に正親町天皇と諡されるはずの人物である。
最初のきっかけは、伊勢の北畠具教からの、室町幕府の奉行衆への働きかけだった。
贔屓にしている剣士である鐘捲自斎が、眼前で上泉秀綱の弟子に圧倒された件は、陰流からの流れを重く見ていなかった公家大名にとっては苛立たしい事象だった。ただ、そうなった原因は、神後宗治が騙し討ち的に強硬に仕掛けたためだと考えて、備えさえあれば結果は異なるとの発想から、再戦の機会を設けようとしたのである。
新陰流の者達が京に上れば、剣豪将軍とも呼ばれ、北畠具教と同じく「一之太刀」を伝授されている足利義輝と接触するのは想像に難くない。そこに中条流の代表者として鐘捲自斎を送り込めば、自ずと名誉挽回の機会が生じるだろう。そう考えての働きかけだった。
松永久秀は、大和衆との戦さに参加した柳生親子から新陰流の実力を聞き、また、塚原卜伝が三好家に招かれていたのもあって、武人として当代随一の剣豪達の腕くらべが見たいと思った。
主家である三好の主催とする手も考えられたが、畿内を実質的に制圧しているとは言え、天下一を決めることになりそうな剣術大会を一大名家が開催するのもいかがなものかと考え、幕府側へと持ちかけたのだった。
けれど、三好方面から声がかかったことで、足利義輝はなんらかの仕掛けがあるかもしれないと考えてしまった。明けて永禄四年、西暦では1561年となるこの時点では、仇敵的な存在だった三好家と足利義輝の間で手打ちが成立している。幕府の要職を与えられた三好勢が足利将軍家を支え、新秩序が打ち立てられることが期待された時期である。
長尾政虎……、後の上杉謙信が関東へと進出したのも、領土欲というよりは、新秩序に貢献したいとの想いが強かったのだろう。その想いが、良い方向に作用するとは限らないわけだが。
ただ、三好と足利将軍家の連携は、互いの思惑が重なっただけの、一時的な協約との意味合いが大きい。双方がいずれは主導権を握り、場合によっては相手を討滅しようとの企みを胸に秘めていた。
その想いと疑惑が結びつき、足利義輝は剣術大会の主催の打診を蹴り飛ばした。それによって、話は頓挫したかと思われた。
剣術大会の噂が朝廷に届いたのは、偶然でしかない。関係者の誰も、帝が剣術大会に興味を抱くとは考えていなかった。
けれど、今上は即位して程なく、まだ即位の礼を挙行することもできない永禄元年の段階で、古い時代に行われていた相撲会と呼ばれる奉納相撲を復活させるかのように、天覧相撲を開催した人物である。
即位の礼は、前年の永禄三年に中国地方の雄である毛利家と、本願寺らからの献金でようやく挙行された。そこまでは史実の通りだが、秋には本来は実現しなかったはずの大嘗祭が執り行われている。その費用は、塚原卜伝と対戦している蜜柑の夫である、新田護邦が拠出した。五千貫という金額は、毛利からの献金の倍にも及ぶ。
先代の後奈良天皇、その前の後柏原天皇の御代において、朝廷の窮乏ぶりひどいものになっていた。足利幕府での内輪揉めは全国に波及し、下剋上が横行する世が訪れ、京も含めた畿内にも戦果が色濃く積み重なっている。
後奈良天皇が即位の礼を挙行したのは経位から十年目で、大嘗祭はついに在任中には実現しなかった。先代が心残りとしていた大嘗祭の開催を実現させた新田護邦の名は、関東に下向している若き関白、近衛前嗣からの書状による言上もあり、帝の脳裏に刻まれていた。
これが、累代の豪族であれば、それなりの官位を与えれば済む。実際、後奈良帝の時代には、多額の献金を行った武家に対して、かつてでは考えづらい高さの官位が与えられ、波紋を生じたことも一度や二度ではなかった。
けれど、その新田護邦を迎え入れた堂山家は、官位とは無縁の存在で、本人は新田姓を名乗りながらも源氏ではないと表明するという、謎めいた言動を取っている。
そして、新田姓と護邦という名は……、どうしても、守邦親王と新田義貞の因縁を想起させるのだった。
守邦親王は、鎌倉幕府で源頼朝の血族が途絶えたために送り込まれた宮将軍の最後の一人である。鎌倉幕府の滅亡時の実質的な権力者は、執権の北条高時、あるいはその周囲で権勢を振るっていた者達となる。だが、名目上であれ、鎌倉幕府の首座となる征夷大将軍は守邦親王だった。
その鎌倉幕府を討伐したのは、新田義貞が率いる倒幕軍である。北条高時は討たれ、守邦親王は将軍職を辞して出家し、程なく死去したと伝えられている。
守邦親王の末裔を名乗るのならわかる。埋もれていた新田の末裔だと称するのも理解できる。けれど、その両者を結びつけるとなると、皮肉なのかなんなのか、判断に迷わせる名乗りなのだった。
献金への礼はするべきだと、帝は考えている。だが、源氏ではないと明言している者に、官位を与えるのは躊躇されるし、仮に与えるとなると、通例に照らして金額に見合うようにとなると、武家で最高位となりかねない。
それを踏まえると、妻である新田蜜柑が上洛する折りに、内々に謝意を伝えるのが無難なところとなる。
今回の上洛の目的が剣術修行だとの情報は近衛前嗣から得ており、内密に御所に呼び寄せようとの計画を動かしていたところに、飛び込んできたのが幕府主導での剣術大会挙行の企みが頓挫したとの風聞である。元来がお祭り好きな今上は、天覧試合の開催を即決したのだった。
蜜柑の放った強烈な斬撃が、老剣士へと向かう。避けるでもなく見据えた塚原卜伝は、斜に構えていた剣を閃かせて、がっしりと受け止めた。受け流さず、弾くでもなく、さらには互いの剣にも衝撃を与えぬ神業だった。
飛び退るわけにもいかず、力を込めた蜜柑の耳朶に、対戦相手の穏やかながらよく通る声が響いた。
「見事なり。お主に、一之太刀を授けよう」
その言葉を残して、剣神があっさりと剣を収める。
どういうことじゃー、との蜜柑の心中での叫びは小声ながらも唇から零れ落ちていたが、気にせずに卜伝は肩を叩いて称賛している。
戸惑いの表情を浮かべていた審判役は、塚原卜伝の一睨みで声を発した。
「そこまでっ。勝者……、新田蜜柑?」
半疑問形での宣告に、上泉秀綱が声を発せずに大笑いしている。神後宗治はにやりとしており、疋田文五郎は首を傾げて頭上に疑問符を浮かべるかのような表情だった。
「どうしてです」
小声での蜜柑の問い掛けに、剣神と称される老剣士は穏やかな笑みで応じた。
「年寄りのわがままだ。許せ。さあ、仲間のところへ行くがいい」
他流の剣士たちのざわめきが会場を包む中で、蜜柑は新陰流の仲間の許へと駆け寄っていった。
今回の天覧試合は、塚原卜伝の鹿島新当流一門、上泉秀綱の新陰流一門の他に、中条流から鐘捲自斎ら、幕府の剣術指南役である吉岡流の吉岡直賢らの諸流が参加している。
組み合わせは、その中で知名度的にも年齢的にも一段抜けた存在である塚原卜伝に一任された。ただ、彼が決めたのは、全体での緒戦となる自らと新田蜜柑との対戦のほかは、主だった幾人かについてのみで、その他は随時決めていくことになった。
かつての宮中での相撲会では死者も出ていたと伝わるが、意図的には血は流さない、との申し合わせを踏まえた真剣勝負となる。
新陰流の開祖である上泉秀綱は、塚原卜伝門下でも一、二を争う使い手たる諸岡一羽が相手とされた。
同じく剣神の高弟である雲林院光秀は、秀綱の甥である疋田文五郎との対戦となる。
神後宗治の相手は、再戦を熱望した中条流の鐘捲自斎と決まった。これについては、北畠具教から届いていた書状を読んで鼻で笑った卜伝が、要望のままにした状態だった。
上泉秀綱の師匠の息子である愛洲宗通は、吉岡流の吉岡直賢と、中条流の伊東弥五郎は、卜伝門下の斎藤忠秀と対戦する運びとなった。
柳生宗厳は、まだ発展途上と見た松永久秀の思惑により、参加を断念している。当人は、負けてもかまわないので力を試したいと希望したのだが、主命とされては致し方ない。
上泉秀綱と諸岡一羽の対戦は白熱したものとなったが、経験の差が大きいと判断した諸岡一羽が降参する形での決着となった。本気でやったなら、血を見る結果になるとの判断もあったろう。
疋田文五郎は、雲林院光秀の冷徹な剣捌きに押し込まれて降参する形となった。謹厳な表情に悔しさをにじませた兄弟子の肩が、蜜柑によって撫でられた。
新陰流と鹿島新当流との対戦は、卜伝と蜜柑の対戦を勘定に入れれば、新陰流の勝ち越しとなる。だが、緒戦は度外視するべきというのは、この場にいる兵法者達の一致した見解だった。
本気モードの鐘捲自斎の雪辱戦は、さすがに笑みを引っ込めた神後宗治が剣の冴えを見せ、勝利を得た。敗戦を認めた中条流の使い手は、その足で上泉秀綱と蜜柑の許へあいさつに訪れた。
鐘捲自斎自身には、新陰流にも新田蜜柑にも含むところはない。贔屓にされているとはいえ、北畠具教のとばっちりで遺恨を重ねることは、彼の本意ではなかった。ましてや、北畠氏の当主の新陰流への反感が、彼らの優男然とした容姿からとなるとなおさらだった。
陰流の後継者と目されつつ、剣術家であり続けることへの迷いを兄弟弟子に吐露した愛洲宗通は、吉岡直賢をつまらなさげに一蹴した。この腕の冴えを見てしまうと、惜しいと感じるのは無理もないところとなる。
流血沙汰となったのは、塚原卜伝の高弟である斎藤忠秀が出場した仕合だった。中条流の鐘捲自斎の門人的立場で、伊勢の大河内城で蜜柑らとも顔を合わせた伊東弥五郎が、ややいたぶるような剣捌きを見せたのである。
勝利の宣告を受けた少年剣士は、血塗られた刀の先を新陰流の面々に向けた。周囲がざわつく中で、上泉秀綱は朗らかな笑みを浮かべていた。
仕合は、他に十数組が行われた。死者もなく、体肢を失う者もいなかったのは、塚原卜伝、上泉秀綱の睨みが利いていたためもあろうか。
総ての仕合が終わった後に、主だった剣士たちが建物近くに呼び寄せられた。
今上がまず声をかけたのは塚原卜伝だった。体調を心配する言葉に恬然として応じる様子からは、仕合で放っていた鬼気のかけらも感じられなかった。
上泉秀綱には、流派の充実ぶりを寿ぐ言葉がかけられた。続いて、主上から弟子の女剣士について話を向けられると、あっさりと指し示した。
「あれなるが新田蜜柑です。我が主君の妻君にあられます」
周囲としては、今回の声がけは大流派の当主である塚原卜伝と上泉秀綱までに限定するつもりであった。対して、帝はそもそも新田蜜柑に、その夫の新田護邦への謝意を伝えるために、この天覧試合の開催を決断した経緯がある。もちろん、当初の目的から離れて、大いに楽しんだのも間違いないのだが。
平伏する明けて十六歳となった娘に、帝は言葉を向けた。なにを話すのかを事前に決めていたつもりだったが、口を衝いて出たのは、かねてからの疑問に関連する問い掛けだった。
「そなたの夫は、護邦という名じゃそうだな」
「はい。夫の父親が守邦親王のことを存じ上げず、たまたま同じ読みの名をつけてしまったと聞き及んでおります」
「そうなのか。新田姓で護邦とは、洒落が利いた名であると思っておったが」
慌てた様子で、蜜柑が言葉をつなぐ。
「新田は、源氏ではない別の新田となりまして、夫が神隠しに遭う前の世では……」
必死さの漂う申し開きを、主上はほほえみながら手を上げて制した。
「よいのじゃ」
「はっ」
「楠木正成には、一昨年の秋に朝敵解除の諚を出した。そういう時期なのだろう」
いったん口を閉じた帝が、声を高めた。
「新田義貞を朝敵から解除する。そして、新田蜜柑よ。この天覧試合での活躍と、護邦の朝廷への助力を嘉して、そなたの夫に、大中黒、新田一つ引きの旗印の使用を許そう」
「ははーっ」
意味がよく飲み込めないまま、勅諚の重みに圧倒された蜜柑は、その場に平伏していた。
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