五ヶ所浦
松坂の湊から小振りな商船に便乗して向かった先は、志摩半島をぐるりと回り込んだところにある五ヶ所浦となる。その途中には、落城した九鬼家のかつての居城である波切城の沖合も通過している。
この辺りは水軍衆が多いものの、商船を襲う海賊働きは盛んではなく、商人たちの危機感はさほど強はない。水軍がしっかりと根づいている影響もあろう。
陸上の豪族衆が商人の隊商を襲わないのと同様に、各勢力が商船の活動を掌中に入れていれば、そうそう襲撃は生じようもない。
関東での水軍による商船、集落への襲撃が多発するのは、世俗勢力の秩序から外れた存在も見受けられる上に、北条氏と里見氏での襲撃合戦が治安を劇的に悪化させている面が強いのだった。
訪問相手である愛洲宗通は、上泉秀綱にとっては師匠の息子となる。ある意味では兄弟弟子でもあるのだが、年下というのもあって気安い間柄であるようだ。
一方の愛洲宗通の方は兄貴分的に頼りにしているのか、あいさつもそこそこに悩みの吐露モードへと突入していた。
「剣術はある程度こなせはする。けれど、この道を極める覚悟が固まらないのが正直なところでな」
流派の後継者という立場にそぐわないぶっちゃけ話にも、上泉秀綱に動じる気配はない。
「気が進まないのに、無理をする必要もなかろうて。五ヶ所城を治める愛洲のご当主のところに出仕するのもありなのではないか」
「それが、陰流の後継者の話を持ちかけてきて厄介でなあ。自らやっていく覚悟は固まらないまでも、一族だからと言って、技量の劣る当主の血筋に渡すわけにも参らず」
「ほほう……」
愛洲一族は、志摩に拠点を置く水軍働きもする城持ち国人衆で、滅ぼされたばかりの九鬼一族に近い存在となる。愛洲移香斎とその息子は、一族ではあるが本流ではなかった。
「父の興した陰流を、つないでいくべきだとはわかっているのだが。……まあ、剣聖殿の新陰流へと発展しているわけだし、いいかな、とも」
「発展というわけでもないんだがなあ……。ただ、流派は子が継ぐ必要はなかろうて。こちらも、息子の秀胤は剣の方はからっきしだし」
上泉秀胤は、新田家に仕えて軍師、内政方面で期待されているが、父親の評価はどうしても剣術が基本となる。
「文五郎殿という甥御殿がおられるだろうに。……そちらの蜜柑殿は、剣の道を歩まれておられるのかな?」
「剣も続けているが、それだけではない。だよな、蜜柑」
話を向けられた少女兵法家が、ふにゃっとした笑みを浮かべる。船酔いの影響で少々へばっていたが、復活してきている。
「そうなのですじゃ。剣の腕も上げたいし、関東で領主をしておる夫の統治も手伝わなくてはならぬし」
「領主の奥方だったとは……。蜜柑殿の視点で、それがしの進む道はどちらだと思われます? 覚悟の固まらない奴だとお思いでしょうが」
「剣でなければ、どのような道を進みたいのか聞いてもよいじゃろうか」
「そうですな、野山を駆け回っている間は無心になれますな」
「新田の領内で野山を巡るとなると、文五郎もしている鉱山探査じゃろうかのう。後は、澪という娘が狩人を率いて、野山を駆け回っていましてな」
「ほう……。上州の野山は、この辺りとは趣きが違いましょうな」
「名物はからっ風じゃな。後は、草津や伊香保と言った温泉があるくらいじゃろうか」
視線を巡らせる形で話を向けられたものの、故郷の野山の美点となると、なかなか思いつかない一同だった。
話が途切れたところで、上泉秀綱が別件の問い掛けを投げた。
「ところで、九鬼一族について聞きたいんだがな。攻めたのは、北畠の手の者だったのか」
「ああ、周囲の豪族を巻き込んではいたがな。あれは……、まあ、騙し討ちってやつだな。この世情ではめずらしい話でもないが」
「北畠具教は、志摩にも勢力を広げるつもりなのか。そうできるくらいに伊勢は安定しておるのかな」
首を傾げている上泉秀綱に対して、師匠筋の剣士はあっさりと応じた。
「具教殿の代になって、節操なく領地を広げておるからな。その土地は、一族で分け取りにしているが。拡大のための拡大のようにも映るが」
「一族の結束は固いのか」
「いや、いがみ合っておるようだな。あのやりようでは、拡大時にはいいが、受け身になったら揉めるだろう」
北畠具教の代に入ってからの北畠氏は版図を拡大し続けている。史実では、やがて尾張を制圧した織田信長に圧迫され、各支族から本家にまで信長の子らが入って、掌握される流れとなる。ただ、その通りになるにせよならぬにせよ、もう少し先の話となる。
「愛洲氏はだいじょうぶなのか?」
「特に北畠と仲違いはしていないが、九鬼とて悪さをして懲罰されたわけではなく、北畠氏の拡大のために討ち果たされただけだ。我らが愛洲一族も、いずれは滅ぼされるのだろうな」
愛洲宗通の語調に、特段の感慨はない。北関東だけでなく、この周辺でも豪族衆の敗滅はごくありふれた出来事となる。
「それで、九鬼の者達はどこかに潜んでおるのか?」
「当主が敵を引きつけて、弟の嘉隆や子どもらを逃したのは間違いないようだ。城に残された死体の少なさから、主力は取り逃がしたんじゃないか、なんて噂も出ている」
「どこかに逃げ込んだというわけか?」
「さてなあ。九鬼を匿うとなれば、この地の大勢力となった北畠に歯向かうことになる。追捕がものすごく峻烈なわけではないが、逃げた連中も生きた心地がしないだろう。それを匿おうとする者は限られるだろうな。……どうして、九鬼の行方に興味を持っているんだ?」
「この蜜柑の夫である我が主君、新田護邦殿が行方を気にしていてな」
「なんにしても、その話は北畠には気取られぬ方がよいだろうな」
そこで、やや俯いていた蜜柑が目線を上げた。瞳には、悔恨の色が浮かんでいる。
「具教殿に、九鬼の者達の行方を知らないかと、訊ねてしまったのじゃ」
「ふむ……。それは、なにか動きが生じるかも知れませぬな」
「まずいことをした……。となれば、詫びの意味も含めて会いに行きたいのじゃが」
「会ってどうされる」
「わからん。伊勢や志摩に生きる場所がないのなら……、彼らが望むのなら、関東へ一時的に退避するのはありかもしれんが」
訪客の少女の言葉に、愛洲宗通があっさりと首を振った。
「いきなり会いに行くのはまずかろう。剣聖殿の立場もあるしな。そういうことなら、知らん仲でもないし、それがしが接触して話してみよう。あちらにその気があれば、つなぎはさせてもらう。……一族の丸抱えもありうる、と考えてよいのですかな」
「もちろんじゃ。水軍働きはもちろん、新田は健全な移住者を歓迎している。田畑も提供できるし、商いも活発になりつつある。尾張や伊勢に比べれば未開の地ではあるがな」
力の入っている蜜柑を見やりながら、上泉秀綱が問いを放り込む。
「九鬼がその話に乗ってくる可能性はあるかな」
「どうだろうかなあ。ただ、紀伊の者達の下につくのも気が進まんだろうからな。いっそ遠方へ転じるのもありかもしれん。……ただ、関東の水軍は気が荒いと聞くが」
蜜柑に同行する全員が、勝浦水軍の女頭目の姿を思い浮かべた。
「よその水軍を攻めてもらうことはあっても、新田が商船を襲わせることはありえないのじゃ」
「そうだな……。逆に、蜜柑が陸上でやっている盗賊追捕のように、海賊を追い立てる尖兵になるやもしれん」
上泉秀綱の言葉に、愛洲一族の剣士が首を傾げた。
「蜜柑殿と盗賊追捕に何の関わりが?」
「この奥方は、新田領内での盗賊を追捕する総指揮を取りつつ、先頭に立って自ら賊を斬って回っている。その活動には、我が一門の者達も参加している」
「領主の奥方が、剣を振るって盗賊退治だと?」
「ああ、まだ総ての賊を駆逐できているわけではないのじゃがな」
蜜柑の声音の残念そうな響きは、心からのものだった。
「それはいいな、それはいい」
頷きながら、愛洲宗通は晴れやかな笑みを漏らした。この日の対話の中で彼が見せた、唯一の翳りのない笑いだった
松坂の湊が活発化したのは、もう少し後の年代になるのかもしれないのですが、大河内城へ通じる港ということでひとまず記述はそのままとさせてください。ただ、松阪と表記していたのを、松坂に改めてみました。
当初は三が日でまとめる予定で、予防線として鏡開きの頃までとしていたのですが、文量が増えてしまっていまして、四日以降も続いてしまいそうです。
明日で作中の正月まではたどり着ける見込みなのですが、区切りの関係で本日はここまでとさせてください。