伊勢
熱田湊での風待ちの間に小規模な盗賊の一味を討ち果たしつつ、一行は伊勢へと入っていた。
「松坂の湊も、なかなかにぎわっておるなあ」
「伊勢では津の湊が栄えておるようです」
「そうして考えると、やはり関東は田舎だのう」
そう慨嘆しつつも、上泉秀綱の声音に真剣味はない。
鎌倉の昔から、関東は武士の活躍する土地となっている。畿内からは化外の民的な捉え方をされ、天下統一の天下が畿内のみを指すのだと疑う者がいなくとも、坂東側からすればそんなものだろうとの印象しかない。
坂東から見たときの京は、きらびやかではあるものの、決して雲の上の世界というわけでもない。それもまた、鎌倉以降の歴史が示すところでもあった。
その在りようが変わっていくのか、そうだとしていつの時期になるのかは、今後の歴史の流れ次第となる。関東で生じている史実とのずれがどこまで行き着くのかは、元時代の知識を持つ新田護邦にも不分明な事柄だった。
食事に過度の期待をしなければ、開けたこの地域は旅のしやすい土地柄となる。
松坂の湊から目指すのは、伊勢を勢力圏に収めつつある北畠氏の居城、大河内城となる。
公家ながら武家的な性格を持つ伊勢の北畠氏は、南北朝動乱の頃に活躍した北畠親房からの家系となる。その長男の北畠顕家は奥州を統治し、足利勢を幾度も追い詰めつつも、最後には戦乱の中で命を落としている。奥州の最北に近い土地には浪岡北畠氏がいて、顕家の血筋を称しているものの、戦国の世が進むにつれて、没落しつつあるのが現状だった。
伊勢を手中に入れつつある北畠氏の現在の当主は北畠具教。その人物に会いに行こうとの発想が生まれるのは、その人物が剣術に親しみ、上泉秀綱とは剣術仲間の間柄であるためだった。
大河内城に近づき、誰何してきた兵に来意を告げると、あっさりと道場へと招き入れられた。ただ、忍者であるために従者風の服装となる夜霧と六郎太、それに商人然としている里屋の主従も同行はかなわなかった。飛び加藤こと加藤段蔵と女海賊の亜弓は、止められる以前に別行動となっている。
「これは上泉殿、よく参られた。今回は、上洛の途中だそうだが」
にこやかな笑みを浮かべた北畠氏の当主が、道場に腰を下ろした新陰流の創始者に声をかける。
「ええ、寄らせていただきました。通りがかって、顔も見せずにはいられませんので」
「そちらのお二方が、直弟子ですかな?」
北畠具教の視線は、上泉秀綱の隣に座る蜜柑を素通りして後列に座る疋田文五郎、神後宗治に向けられた。紹介をして、隣の主筋の少女に話を向ける。
「こちらの新田蜜柑様は、主家の奥方であると同時に我が高弟でもありましてな。お見知りおきを」
その言葉に、伊勢を勢力圏とする公家大名が失笑気味の表情に転じた。
「しかし、新田とはまた……」
上品な嘲りの調子に、蜜柑の頬が上気する。と、後ろに座る疋田文五郎が袴の裾を引いた。
「抑えろ、蜜柑」
兄弟子の圧し殺したささやき声が、彼女のささくれだった胸中を鎮めた。そして、文五郎の右足は、同時に兄弟弟子の足首を抑え込んでいた。
「新田と申しましても、源氏の新田ではない、別の新田だと夫は申しております。名門の北畠殿とは、まるで違う状態となります」
ふっと嗤いを漏らして、北畠の末裔は言葉を継いだ。
「山内上杉の走狗となっても、武田や伊勢が相手では、苦労することだろうて」
走狗という明らかな侮蔑の文言への対応に頭を巡らせていると、剣の師匠がそこに割って入った。
「義貞公は北陸で敗死の憂き目に遭いましたが、我が主は同じ新田とは言え、なかなかにしぶとそうです」
「ほう……。ところで、この地に他の剣豪が滞在しておってな。引き合わせよう」
正面から新田話を続ける気は失せたのか、柏手を打つと剣士が招き入れられた。紹介されたのは、鐘捲自斎と従者らしい少年だった。その子の名は、伊東弥五郎と紹介された。
いざ仕合いをとの話になりそうなところで、蜜柑が申し訳なさげな声で問いを投げた。
「すまぬが、一つだけお聞きしてよろしいか。九鬼一族の行方をご存知はないでしょうかな」
「九鬼の波切城は我らが攻め落とし、当主は討ち果たした。敗滅した者達の行方なぞ存じませぬな」
彼らに九鬼一族の調査を依頼した新田護邦は、九鬼一族が住処を追われて流浪の身であることは把握していたものの、攻め滅ぼしたのが北畠の指示だとの認識はなかった。やや微妙な空気が流れたが、仕合に気を取られた北畠具教に、特に気に留める様子はないようだった。
中条流とも富田流とも呼ばれる流派の使い手である鐘捲自斎は、荒々しい風貌の剣術家だった。比べると、上泉秀綱門下はいずれも穏和そうな容姿となっている。
伝統ある中条流は、富田勢源を出したことで興隆のときを迎えつつあったが、その勢源が視力を失ったことで、弟に当主が移っているそうだ。鐘捲自斎は、富田勢源の門弟となる。その従者たる伊東弥五郎は、後世では伊東一刀斎と呼ばれ、一刀流の創始者となるはずの人物だった。
手合わせをとの話になったが、蜜柑ははっきりと無視されている。上泉秀綱が出るまでもないとの話から、疋田文五郎を押しのけて神後宗治が進み出た。その頬には、穏やかならぬ笑みが浮かんでいた。
通常なら、このような場での手合わせは、腕試し的な立ち会いに終止する場合が多い。怪我でもさせようものなら、招いた側の不名誉となるためである。
だが、一見はおとなしい猫のように映る神後宗治の毛は逆だっており、鐘捲自斎を圧倒する展開となった。
疋田文五郎は頭を抱えたそうな表情を浮かべていたが、師匠は口の端に笑みを浮かべて、制止する気配はなかった。
鐘捲自斎は、熱くなることはなく新陰流の充実ぶりを言及して刀を納めた。対して、伊東弥五郎少年はきつい視線を向けてきていた。
城での滞在を謝絶して、一行は松阪の湊へと戻ってきていた。
「蜜柑、気に病むな。ああいう考えの者もいるさ」
疋田文五郎の慰めの言葉に、新田家の若奥様である剣術少女が首を振る。
「いいのじゃ。女は一人前として扱われないのは、むしろ普通なのじゃから。……上泉一門や、新田の家にいると、つい忘れてしまっていけない」
「うちはともかく、新田の家中は異常よな。存亡の危機が生じた際に、蜜柑の剣技と、澪の弓の腕が無ければ廃滅していたにしても……」
「そうなのじゃ。剣の腕にはそこそこの自信はあったのじゃが、武将としての能力はまた別じゃろうに、躊躇の欠片もなかったのでな」
合流していた夜霧が、やや思案顔になる。
「戦場に出られるのは仕方がないにしても、盗賊追捕は……、他の皆さんに任せていただいた方がよいような。なんなら、あたしも出ますし」
「盗賊追捕を当主の奥方がやるのも、女性が率いるのも普通ではないでしょうな」
「新田は、そもそもからして普通ではないのじゃ。ならば、盗賊追捕くらい自由にやらせてくれまいか。今後は、戦さの先陣は切れなくなってくるかもしれないし」
「護邦殿は、領民を所有物ではなく、守るべき存在だと考えておられるようだ。戦さと盗賊追捕にさほどの重みの差を感じていないようにも見える。家臣としては、厄介なことこの上ないがな」
いつの間にか近くにいた飛び加藤の言葉は、吐き捨てるようでありながら表情は穏やかである。
「本来なら必要のない人数が、盗賊追捕のために動いているのはわかる。じゃが……」
「あの御仁は、損得勘定でやっているわけではあるまい。けれど、実際は得の方が多そうではあるがな」
領内の雰囲気は、明らかに変わっている。そう実感している上泉秀綱にすれば、新田をかりそめの主だと捉える感覚は既にない。その象徴たる盗賊追捕に、蜜柑以外にも主力級ではない門弟の多くが自主的に参加していることは、剣聖と尊ばれる兵法家に充実感をもたらしていた。
「いずれにしても、文五郎の言う通り、あのような愚者の言動に惑わされる必要はありませぬ」
兄弟弟子の断言に、疋田文五郎がやや戸惑いの表情を浮かべる。
「それがしは、そこまで言った覚えはないのだが……」
「いや、確かにそう言っていたぞ」
澄まし顔の神後宗治に断言されて、文五郎は首を傾げて考え込んでしまう。
「文五郎殿も、宗治殿も、気を使っていただき感謝なのじゃ」
ほにゃっとした笑みは、この剣術使いの少女が本調子を取り戻した証左であった。