堺 その二
堺での滞在中も、蜜柑の体調は一進一退といったところだった。特に顕著なのは吐き気と倦怠感で、晩秋の船旅での影響にしては、長引きすぎているなあ、というのが本人の印象となる。
愛洲宗通が処方してくれた吐き気止めは、気休め程度の効き目となっている。この段階では、愛洲薬にはさほどの知名度はないが、本来なら効果は確かなはずだった。
それでも、新田の代表者としてこなすべき役割はある。この日は、訪客との昼食会をこなしたところだった。
「堺の豪商ともなると、なんだか揃って福々しい感じじゃったのぉ」
小西、今井、津田といった名だたる商家の面々は、太っているわけではないが、やはり血色はよい。笑みを含んで応じたのは本日の接待役を務めていた小桃である。
「皆様、三好家の庇護の下で手広くやっておられるようですから。小西様と今井様は既にお越しいただいたことがありましたが、津田様は初めてでした。ご満足いただけていたようでなによりです」
「しかし、武家のお偉方相手も厄介じゃが、当たり障りのない話題に終止する商人相手もまた疲れるものじゃな」
「この見坂屋が関東の武家の関係者だというのを隠していたわけでもないのですが、お客様をお迎えするごとに宣言するのもおかしな話で、あまり知られていなかったようです。その新田の奥方が、京で今上と将軍様に拝謁してきたとあらば、警戒されるのも無理はありません」
「拝謁と言っても、どちらもそれこそ非公式なのじゃが……」
「上方では、非公式に会うことの方が、より重みがある場合が多いようです」
「むずかしいものじゃな」
机にへたり込む主家の奥方に、小桃は温かな緑茶の準備を進めている。堺へ出立するまでには接触はほとんどなく、小桃の側にはむしろ旧敵方との印象すらあったのだが、この堺で共に過ごした日々で、そんな感覚は吹き飛んでいた。そもそもが、地元ではお転婆剣術姫君として知られていた蜜柑には、好感を抱いていた時期もあった。
「献金の際の骨折りの礼も済みましたし、里屋を通じた今後の取り引きの話も受け容れられました。当たり障りのない中でも、対応は万全だったかと」
「小桃に合格点がもらえたのならなによりじゃ。……堺の大商人は、あの三人くらいなのか。小桃が会うべきと考える相手がいたら、会食を設定してくれ」
「そうですねえ。体調が万全でない蜜柑様のお手を煩わすほどの御方はあまり……。ひとり挙げるとしたら、田中與四郎様なのですが、ちょと不安もありまして」
「何者なのじゃ?」
「三好家に取り入って勢力を急拡大させている商人の方です。今日いらしたお三方も茶道はされるのですが、田中様は茶器を強気に取引しておられます。……実は、先日お越しいただいたときに、茶は供してもらえないかと囁かれまして」
「ほう?」
「茶の湯はたしなみませんのでとお断りしたのですが、納得しておられぬご様子で」
「……柳生殿には緑茶と紅茶を振る舞ったので、そこからじゃろうか。あるいは、その主家の松永殿か。特に口止めまではしておらんからのぉ」
「松永久秀様は、茶の湯をたしなみ、茶道具についての考え方も田中様に近いようです。名物だから価値がある、というだけでなく、価値を創り出そうとしておられる気配がありまして」
一介の田舎侍女だった小桃だが、堺で店を切り盛りしていく中で、様々な知識を吸収しつつあった。
「ほほう。護邦からは、茶人にはあまり近づかないようにとの指示があったのじゃが、そのあたりが原因かな。特に、緑茶には触れさせたくない、とも」
まさに供されたばかりの緑茶の器を挟んで、小桃と蜜柑が互いを見つめ合う。
「でもでも、お話に聞く護邦様が本気でまずいと思ってらしたら、そもそも持たせないでしょうし」
「そうじゃな。確か、なるべく、という話だったしな」
とりあえず解決済みということにしたところに、耕三が茶菓を運んできた。葛に甘みをつけて小餅にかけた椀に、二人は舌鼓を打ったのだった。
そろそろ出立しようかというところで、愛洲宗通が客人を連れてやってきた。伴の者を連れた幼い兄妹は、蜜柑の探し人だった。
兄の方は、十歳くらいの年頃で、あどけない顔立ちに見合う涼やかな声を発した。
「九鬼澄隆と申します。父を失い、当主となったばかりとなります。こちらは、妹の初音です」
指し示されたのは、まだ三歳ほどの幼女である。
「新田蜜柑と申します。お会いできてうれしいのじゃ」
「なにか御用があると伺いましたが」
「うむ。九鬼一族は苦境にあるとの話じゃが、しばらく坂東で過ごされてはどうか、とのお誘いじゃ。捲土重来を図るもよし、あちらで生きる道を見つけるのもよいし」
「けれど、父祖の地を捨てては……」
「そう考えるのも当然じゃ。雌伏して奪還を目指されるのなら、ある程度の援助はできると思うのじゃ。夫と相談してからになるのじゃが」
蜜柑の言葉に、九鬼家の若き当主は黙考を始めた。つい先日までは、生前の父親の許で養育されていた身であり、流浪のつらさは既に骨身に染みている。
と、初音姫がとことこと剣術少女に近づいてった。そのまま、腹に手を当てる。
「これっ、初音」
「よいのじゃ。……初音殿、どうかされたのかな?」
「あかちゃあ……?」
可愛らしい片言を発して、小首を傾げている。
「いや、懐妊していれば、今回の旅には来れていなかったわけで……」
言いながら、はて? という表情が蜜柑の顔に浮かぶ。
「その初音は、従妹を亡くしたばかりでしてな。……そう言えば、その命が宿ったのに最初に気づいたのも初音でしたが」
聞いていた新陰流組が色めき立つ。
「おい、蜜柑。船酔いと言っていたのは悪阻だったんじゃないのか」
「いや、でも、懐妊の徴候はなかったのじゃ」
「旅立ち前には、だろ。そう言えば、ちょっとふっくらしてきているような気もするぞ」
「これは、耕三の料理がおいしいから、食べすぎているのじゃ。……そう思っておったのじゃが」
ここで首を振ったのは、愛洲宗通だった。
「お主らはまったく……、一緒に旅にしていて、懐妊に気づかないとは」
「宗通殿も幾度か会っていたではないかっ」
普段なら発せぬような抗議の声を漏らしたのは、疋田文五郎だった。
「そんなこといいから、すぐに寝かせてください。新田のお世継ぎですよ」
小桃が焦りを含んだ叫びを発するのもまためずらしい。
「おおげさなのじゃ。今は、澄隆殿と大事な話をしておる」
「いえ、叔父に相談せねば決められませぬし、返事はまた後日とさせてください。お身体を大事にしていただかないと、初音が泣きわめきそうですし」
幼い姫君の方を見やった蜜柑は、その目に涙が浮かんでいるのを見て降参することにした。
「わかった。休むから、後は頼むのじゃ」
「奥に運ぼう」
上泉秀綱が両腕ですっと弟子を抱え上げた。
「師匠、おおげさなのじゃ。自分で歩けます」
「いや、罪滅ぼしの意味も込めて運ばせてくれ」
「罪滅ぼし……?」
剣聖と呼ばれる兵法家の眉は、めずらしくひそめられていた。
「いや、罪滅ぼしというのは他でもない。実は、今回の剣術行を決めた理由の一つに、蜜柑を護邦殿から引き離そうという思惑があってだな」
「護邦と引き離す……?」
ぽかんとした表情の蜜柑に、愛洲宗通が椀を突き出す。
「いいから、こちらを飲むのだ。妊婦の悪阻に通常の吐き気止めが効かぬのは無理もない。緩和させるだけで、悪い薬効はないはずじゃ」
ぐびりと飲んだ蜜柑が、改めて師匠に問い掛けの目線を送る。
「文五郎と栞殿がいい雰囲気だというので、栞殿を側近とする澪殿から世継が生まれれば、立場が盤石になると考えたのだ」
「なっ……、栞殿とはそういう関係ではありませぬ」
疋田文五郎の抗議を取り合う者はいなかった。赤面しながらも、それ以上言い募りはしないのは、妹弟子の体調を慮ったためだった。
「世継がどちらから生まれても、特に違いはないと思うのじゃが……」
「お主らはそう考えるかもしれんが、立場というものはやはりあってだな。……まあ、堂山側の影響力は、既にあってないようなものだが」
国峯城で婚儀を行った段階では、婿である新田護邦は身一つ……、強いて言うなら、当時は猟師の娘でしかなかった澪と、上坂村で集めた英五郎どんらの農民衆を従えていたのみだった。一方の堂山家は、当主が戦死し、その妻は世継である息子を道連れに自害したものの、自死しようとしていながら翻意した蜜柑と、数十名の家臣が存在していた。
名乗りを新田家と変えた後は、攻められての逆撃を中心に勢力を広げ、今では数千人を動員する小大名とでも言うべき存在となっている。実質としては、新田護邦が一代で築き上げたようなものであるが、足がかりがなければ無理な話だったのは、当人が一番良く理解している。護邦の認識では、新田と名乗りを変えた堂山家なのだが、蜜柑を含めた周囲の認識とはずれが生じていた。
「わたしが剣術修行に出れば、澪の方に先に子が生まれると考えたのじゃな」
「ああ。すまん、介入すべきことではなかった」
「なに、かまわんのじゃ。護邦の子であれば、誰が生んだ子であろうと、可愛いじゃろうしな。……とはいえ、授かったからには、どうにかして元気に産まねばならぬ」
心配げなのは、夜霧と小桃である。
「この堺で産んではいかがです?」
「そうです。身重の状態で船旅はきつすぎます」
「なんの、悪阻だとわかれば対応のしようはある。戻って護邦に報せてやらねばならぬし、北条との戦さもあるし」
「身重で戦さに出てはいけませぬ」
「いや、もう最後に身体を重ねてから四ヶ月になる。ここから臨月までは、多少は動いてもよいはずじゃ。そうじゃろう、宗通殿」
「その通りではあるが、さすがに戦陣働きは勧められんぞ」
「なら、盗賊討伐と従軍までに留めておくとしよう」
「蜜柑様……」
「らしいと言えば、らしいのですが……」
そう言っている間にも、初音姫は蜜柑の腹に耳を当てながら、いつしか眠りについていた。恐縮がる九鬼澄隆を無理やり制して、彼らも見坂屋に滞在させる手筈が整えられた。
本編で、朝廷への献金を中継した豪商に、この時代にはまだ活躍しておらず、しかも堺が本拠というわけでもない茶屋を入れた四者としてしまっておりました。失礼いたしました。本編も修整しております。
四者にするなら、田中を加えるべきなのでしょうが、三好に取り入っての急成長状態で、関白殿との関係性などもあって、対象となっていない、との想定です。