<表のおはなし>③
王宮から戻ったエリノーラは、王子妃の部屋でマドラインからひどい言葉を浴びせられたことや、仲裁に入ったグレイアムが、マドラインの行いや考え方をたしなめ王宮から追い出してしまったことを、出迎えたブリジットに夢中で話した。
「今思い出しても悔しいわ! マドラインときたら、ブリジット姉様やわたしを、殿方に取り入って良い職を得ようとしている、身の程知らずの女だと言ったのよ! ひどすぎるわ!
もし、グレイアム様が来なかったら、わたしは、マドラインを本当に殴っていたかもしれない!」
ブリジットは、鼻を膨らませて怒っているエリノーラを宥めながら、マドラインのように思っている者はきっと他にもいるのだろうと考えた。
自分はまだしも、宮廷図書館へ誘ってくれたサロモン・ベネットが、そんな根も葉もない噂で傷つけられるのは耐えられなかった。
そのようなおかしな噂話を打ち消すためにできることは、一つしかないと思われた。
翻訳したレイノ語の文学作品を、きちんと書物の形にすることだ。
そのためには、宮廷図書館に通い、サロモン・ベネットと力を合わせ翻訳作業に取り組み続ける必要があった。
確かな成果を残し、自分が崇高な目的のために、宮廷図書館を訪ねていたことを証明するしかない――。
夕食が終わり、書斎で読書をしていた子爵に、ブリジットは自分の考えを打ち明けた。
「――というわけですの、お父様。わたしが、このまま宮廷図書館へ行くことをやめてしまえば、今度は、『ああ、やっぱり、ブリジット・モットレイは、宮廷図書館での仕事が欲しくて司書に言い寄ったあげく、期待通りの働きができず追い出されたのだ』と噂する者が出てくるかもしれません。
ですから、わたしは、自分自身とベネット様の名誉のためにも、成果が形になるまで翻訳のお手伝いを続けたいと思います。
わたしに、もう一度、宮廷図書館へ通うことをお許しいただけませんか?」
子爵は、手にしていた本を机の上に置くと、眼鏡を少しずらしてブリジットを見つめた。
そして、愛する娘を心から案ずる父親の顔になって言った。
「良い心がけだよ、ブリジット。だが、成果を上げるまでには、長い時間がかかるのではないかな? 五年、いや、十年以上必要かもしれない。人は、いつまでも若くいられるわけではない。限りある時間を翻訳に捧げることになっても、おまえは後悔しないだろうか?」
「お父様――」
「わたしはよくよく考えてみた――。サロモン・ベネット殿というのは、少々一途過ぎて周りが見えていないところもあるようだが、おまえのことを大切に思い、おまえと一緒に翻訳の仕事を成し遂げることに並々ならぬ熱意を持っておいでのようだ」
「おまえのことを大切に思い」という子爵の言葉に、ブリジットは思わず頬を熱くした。
サロモン・ベネットにとっての自分が、外国語に堪能で文学の知識があり、翻訳の下訳を頼むのにぴったりの人物――というだけの存在ではないことを、ブリジットも自覚しつつあった。
彼の言動の一つ一つに込められていた密やかな熱情に気づけず、彼を悩ませていたに違いない自分の幼さを、今は申し訳なく思っていた。
「ベネット殿は、これまでの関わりを通して、この先も末永くおまえと一緒に夢を追い、いつか夢を実現したいと考えたのだろう。だから、心を決め、ご領地へおまえを誘ったのだ。
ブリジット、おまえは、ベネット様のお気持ちに応える覚悟はできているのかい? 彼に従い、場合によっては辺境へ移り住み、『王妃バルバーリア』のヴェルヌ語による上演を目指して、二人で翻訳の仕事に励む暮らしに希望を持てるかい?
彼は三男だから、譲り受ける財産もそれほどではないだろう。王都に住めたとしても、贅沢な暮らしなどできないかもしれない。それでも、おまえはささやかな幸せを見つけながら、彼と生きていけるかい?」
アデラインもクラリッサもドローレスも、地位や財産に恵まれていることはもちろん、自分を理解し評価してくれる素晴らしい伴侶に巡り会えた。
サロモン・ベネットは、地位も財産も彼らほどではないかもしれない。
だが、ブリジットにとって、彼女を理解し評価し愛しんでくれる、得がたい男性であることは間違いなかった。
「お父様、わたしは――、ベネット様と一緒に生きていきたいと思います。何があっても、いつも同じ方向を見つめ、二人で手を取り合って――。そして、どんなに時間がかかっても、ささやかな幸せを見つけながら夢に向かって歩んでいこうと思うのです」
「おお、ブリジット! こっちへ、おいで――」
子爵は両腕を大きく広げ、自分の胸にブリジットを迎え入れた。
幼い頃によくしていたように、ブリジットの背中に腕を回すと優しく揺らしながら言った。
「良かったな、ブリジット! 心からおまえを愛し必要としてくださる、素晴らしい男性に巡り会えて――。わたしも、幸せだよ……、娘たちに望まぬ結婚を押しつけずにすんだ。
おっと、まだエリノーラが残っているか――。いやいや、あれもまもなく片付くだろう。どうやら、『あの娘でなければ』と思ってくれている奇特な御仁がいるようだから――。
明日にでも、宮廷図書館へ行って来なさい! きっと、ベネット様はおまえを待っているはずだ。ベネット様におまえの気持ちをはっきり伝えてくるのだよ!」
子爵の胸の中で両頬を濡らしながら、ブリジットは何度も何度もうなずいた。
居間では、エリノーラがマドラインの真似でもしながら、グレイアムの手柄話を大げさに話しているのだろう。明るく賑やかな笑い声が、廊下を通して書斎まで響いてきていた。
*
夏の到来を告げるようなきらきらとした陽光に、何もかもが輝いて見える金曜日の朝――。
淡いライラック色のドレスを身にまとったブリジットは、エリノーラやエルシーと共に、子爵家の馬車に乗り込んだ。
朝早く宮廷図書館へ使いを出してはいたが、突然決めた訪問なので迎えの馬車は遠慮した。
(わたしの気持ちをベネット様に伝えに行くのだもの、迎えに来てもらっていてはだめだわ! わたしが、自分から動き出さなくては!)
心は決まっていたが、実際にベネットに会ったとき、考えてきた通りに話すことができるか、ブリジットには自信がなかった。
立ち寄った王宮でエリノーラを下ろすと、ブリジットはますます落ち着かなくなった。
馬車が宮廷図書館の敷地に入っても、顔も上げられず縮こまっていると、窓の外を見ていたエルシーが大きな声で叫んだ。
「まあっ、何て素晴らしい! お嬢様、ベネット様が大きな花束を持って出迎えてくださっていますよ! 今日も、とても嬉しそう――、本当にお嬢様にお会いになりたかったのですね!」
馬車が止まると、花束を抱えたサロモン・ベネットが走ってきた。
少し後ろにいた例の雑用係が、慌てて後を追いかけてきた。
御者を遠ざけ、自分の手で馬車の扉を開けると、サロモン・ベネットは、いつもと同じ優しい笑顔を浮かべて言った。
「お待ちしておりましたよ、レディ・ブリジット! まずは、二人でお茶でも飲みましょう。それから、商店街へ買い物に行き、仕立屋でドレスを注文しましょう。そして、ドレスが出来上がったら二人で夜会に出かけ、わたしとダンスを踊ってください。ダンスが終わったら――」
コホンッと、わざとらしい咳払いをすると、雑用係はサロモン・ベネットの腕をつかみ、馬車の扉から引きはがした。
文句を言いたそうなサロモン・ベネットを一睨みすると、彼は落ち着き払って言った。
「まずは、ブリジット嬢に花束をお渡しください。そして、優しく手を取り馬車から降ろして差し上げるのです。とりあえずは、そのような手順でよろしいですかな、ブリジット嬢?」
「は、はい……」
真っ赤な顔になり消え入りそうな声で答えたブリジットに、彼女以上に真っ赤な顔になったサロモン・ベネットが、幸せそうに微笑みかけながら花束を差し出した。
サロモン・ベネットは、花束を抱えて馬車から降り立つブリジットの手をしっかりと握った。
馬車から降りたエルシーとその隣に立った雑用係は、わざと二人から目を逸らし、眩しい空を黙って見上げた。
青い硝子板のような空は、二人の前途を祝すように、どこまでも明るく晴れ渡っていた。
明日こそ完結!の予定です……。<裏の裏のおはなし>がつきます。




