<表のおはなし>①
モットレイ子爵家の王都屋敷の庭には、ライラックの甘い香りが漂っていた。
ブリジットは、木陰のベンチに一人で座り、誰も見ていないのをいいことに、思う存分大きな伸びをした。
今日は、彼女以外の家族全員が外出している――。
アデラインは、いよいよ迫ってきた結婚披露の宴の準備のため、ウォーディントン伯爵邸へ、子爵夫人と一緒に出かけた。
晴れの日が近づき、今のアデラインは光輝くばかりである。
クラリッサは、セルマを連れて、子爵と一緒にラーウィル辺境伯家を訪ねている。
フィオーナは、優秀な生徒で、乗馬もダンスもめきめきと上達しているとクラリッサが言っていた。子爵は、パトリックと釣りの計画を立てるのを楽しみにしていた。
ドローレスは、シェリダン伯爵夫人の家から馬車が迎えに来て、バーレルと宮廷音楽会の打ち合わせや歌の稽古をするために出かけた。
先日バーレルから結婚を申し込まれ、歌声はいっそう魅惑的につやめいてきた。
エリノーラは、王子妃付き侍女見習いとして、連日王宮へ出向いている。
正式に侍女となることが決まれば、家を出て王宮で暮らすことになる。
サロンなどで見知っているサイラス王子の近侍のグレイアムが、何かと声をかけてくれるので、安心して勤めに励めると彼女は喜んでいた。
侍女たちも出払い、家の中はしんとしていた。
人気のない居間の窓を見つめながら、ブリジットは、自分だけがおいてきぼりにされたような、物寂しさを感じていた。
(お姉様やクラリッサたちのお相手探しのために、勇んで夜会へ出かけていたのが、遠い昔のことのように思えるわ……。気づけば、わたしは一人ぼっちで、自分のことを心配しなければならない立場になってしまったみたい……)
夕べ部屋へやって来たクラリッサから、「お姉様には、ブレンダンがいるでしょう?」と冗談めかして言われ、一瞬とはいえ「それもそうね」と思ってしまった自分が情けなかった。
強くなった日差しを避けようと家に向かったところ、玄関扉を叩く音が聞こえた。
たぶん、また、いつもの人物がやってきたのだろう――と、ブリジットは思った。
*
ブリジットが、廊下から玄関の方を覗くと、応対に出たキッチンメイドのマーシーが、勝手がわからず客ともめていた。
ほかに手が空いている者もいないようなので、仕方なくブリジットは、マーシーに声をかけた。
「どうしたの、マーシー?」
「あっ、ブリジット様! この方が何かお届け物に見えたのですが、ブリジット様に直接会ってお渡ししたいとおっしゃって――」
玄関口に立っていたのは、ブリジットが想像したとおり、このところ連日屋敷を訪ねて来ている宮廷図書館の雑用係だった。
今日も、季節に不似合いな厚地の帽子を、顔を隠すように目深にかぶっていた。
バーナビーあたりが出たのなら、ブリジットは不在であると告げて、さっさと追い返してしまったのだろうが、マーシーにはそんな器用な真似はできなかった。
「大丈夫よ、マーシー。わたしがお相手をするわ。このところ毎日、ベネット様からのお手紙と花束を届けに来てくださっている方よ」
「あ、ありがとうございます、ブリジット様!」
ほっとした顔で頭を下げると、マーシーは厨房へ下がっていった。
ブリジットが玄関口まで出て行くと、雑用係は帽子を取り、さらに深くうつむきながらお辞儀をした。顔を上げたときには、再び帽子のつばの陰に顔を隠していた。
彼は、ブリジットに手紙と花束を手渡すと、ややくぐもった声で言った。
「嬉しゅうございます。毎日お届けしていた手紙や花は、きちんとブリジット様のお手元に届いていたのですね?」
「ええ。いつか、きちんと御礼を申し上げなくてはと思っておりました。お忙しいでしょうに、毎日素敵な花束とお手紙をお届けくださり、ありがとうございます。ベネット様に、よろしくお伝えくださいませ」
「それでは、また以前のように、宮廷図書館へおいでいただけるのでしょうか?」
「え?」
サロモン・ベネットからの手紙は、いつも自分の軽率な言動への謝罪やブリジットの再訪をこいねがう言葉から始まる。
しかし、主な内容は、宮廷図書館に新しく収められた書物のことや、書庫で見つけたブリジットが興味を持ちそうな古書についてのことだった。
ブリジットは、手紙を読みながら、宮廷図書館へ行ってそれらの書物を手に取ってみたいと思うようになっていた。
どうやら、それが彼のねらいであったらしい。
(わたしの考えなんてお見通しというわけね。ちょっと悔しいけれど、ベネット様はわたしのことを本当によくわかっていらっしゃるわ。そういう方とのご縁をこのまま断ってしまっていいものかしら?)
ブリジットは、サロモン・ベネットと宮廷図書館で過ごした日々を振り返った。
優しい笑顔で出迎えられたときの胸の高鳴り――。
二人でお茶を飲みながら、書物や翻訳の作業について語り合うときの喜び――。
ブリジットの下訳に目を通し、適切な助言を与えてくれる彼への信頼感――。
(領地へのお誘いなんかではなくて、わたしは、ベネット様から別の言葉を聞きたかったのかもしれない……。もっと、はっきりと……)
ブリジットは、大きく息を吐き出すと、雑用係の男にきっぱりと言った。
「父の許しがなければ、宮廷図書館へ赴くことはできません。でも、わたしの心は決まりました。父に頼んでみますわ。もう一度、宮廷図書館で翻訳のお手伝いをさせて欲しいと、それこそが今、わたしが願っていることだと――」
「承知いたしました。ベネット様も、そのお返事を待っていらっしゃったと思います。戻りましたら、さっそく伝えることにいたします。それでは!」
雑用係は、ブリジットに挨拶をすると、通りかかった辻馬車を素早く呼び止め乗り込んだ。
ブリジットは、どこか清々しい気持ちで馬車を見送った。
大きな決断をしてしまったのかもしれないが、もう後戻りをする気はなかった。
もう一度サロモン・ベネットの笑顔を思い浮かべ、ブリジットは静かに玄関の扉を閉めた。
*
「エリノーラさん、あなた、確かベネット子爵家のお嬢さんよね?」
「ええ、そうですけど――。何か?」
エリノーラとマドラインは、久しく使われていなかった王子妃の居室の手入れに勤しんでいた。
王妃からお呼びがかかり、リーランド子爵夫人は出かけていたので、部屋の中にいるのは二人だけだった。
家具を磨いていた手を止めて、マドラインは意味ありげな目つきでエリノーラを見ながら言った。
「あなた、グレイアム様とずいぶんお親しいようね?」
「親しいわけではありませんけど、わたしが姉と一緒にお招きいただいたいくつかのサロンでお顔を合わせたことがあって、以前から存じ上げておりましたの」
「ああ、やっぱり! 姉妹揃って、殿方の気を引くのがお上手だということね!」
「な、何をおっしゃっているのですか?!」
はしたないとは思いながらも、エリノーラは、語気を強めながらマドラインに詰め寄った。
自分はともかく、姉に対する侮辱の言葉を聞き流すことはできなかった。
マドラインは、得意げな顔でエリノーラに言い放った。
「あなたのお姉様のブリジットさんのことだけど、夜会でお知り合いになった司書の方に取り入って、しつこく宮廷図書館に押しかけているそうじゃないの?
もしかして、サイラス殿下が宮廷図書館に関わっていらっしゃるのを知って、お近づきになろうと企んでいるのじゃなくて? それとも、この先の生活の安定のために、宮廷図書館での職を得ようとしているのかしら? どちらにしても、身の程を弁えない図々しい方だと言っているのよ!」
「な、何てことを!」
口元に嘲笑を浮かべ、エリノーラを意地悪く見つめるマドライン。
握りしめた拳を震わせながら、マドラインを睨み付けるエリノーラ。
二人の娘は、王子妃の部屋の真ん中で、刺々しい雰囲気をまとい対峙していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少々多忙になり、毎日の投稿が難しくなってきました。
残り五部分、何とかやり繰りしながら週末には完結したいと思います。




