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<表のおはなし>③

 中央商店街ガレリアへ出かけた翌日、ブレンダンはたくさんの荷物と一緒に、厩舎を営む自宅へと帰って行った。


「ブリジット姉様、寄宿学校で三年間みっちり学び、必ず姉様を迎えに来ます。それまで、わたしのことを待っていてくださいね!」


 馬車の扉を閉める際、ブレンダンはブリジットだけを呼び寄せ、いつになく真剣な表情でそう言った。

 彼の言葉の意味がわからず、答えに困ったブリジットは、しかたなく黙って微笑んだ。

 それを見たブレンダンも、満足そうに微笑み返した。


(何のために迎えに来るのかしら? それに、寄宿学校に入学したら、もう卒業するまでうちの屋敷には来ないつもりかしら? 男の子が考えていることは、なんだかよくわからないわ!)


 書店でのブレンダンとサロモン・ベネットのやりとりを知らないブリジットは、ブレンダンの挫折や新たな決意などに思い至ることはなかった。

 中庭からは、早咲きのラベンダーの香りが漂ってきて、新しい季節の始まりを知らせていた。


 *


「それでは、お父様、お母様、行ってまいります」

「ああ、気をつけていっておいで。ベネット様によろしく伝えてくれ」

「はい、承知いたしました」


 子爵夫妻に見送られながら、ブリジットは宮廷図書館の迎えの馬車に、エルシーを連れて乗り込んだ。

 今日の訪問は、今まで以上に胸が高鳴っていた。


 先日届いた、サロモン・ベネットからの誠意溢れる書状や、ブリジットのためにわざわざ手に入れてくれたというレイノ語の古語辞典は、子爵の心を大きく動かした。


「ベネット様が、いつもブリジットのことを気にかけ、決してないがしろにはしていないということがよくわかったよ。お引き受けした仕事が一段落つくまで、翻訳のお手伝いを続けなさい」


 子爵は、レイノ語の古語辞典をブリジットに返しながら言った。

 こうして、ブリジットは、引き続き宮廷図書館で翻訳作業に携わることを、子爵から許されたのだった。


 今日は、アデライン以外の全員に、外出の予定が入っていた。


 子爵とクラリッサは、ラーウィル辺境伯家の茶会に招かれていた。

 来週から、クラリッサは辺境伯邸へ、フィオーナの乗馬とダンスの指導に赴くことになっていた。今日はそれに向けての顔合わせということらしい。

 だが、それだけではすまないかもしれないわね――とブリジットは思う。


 ここ数日、パトリック・ラーウィルからのクラリッサ宛ての手紙が、毎日のように子爵邸に届けられていた。

 クラリッサによれば、フィオーナの師範役を引き受けてくれたことへの感謝や、茶会での再会を楽しみにしているということが、繰り返し書かれているだけとのことだが、辺境伯家の領地の様子や家族のことなども事細かに知らせてきているようだった。


(パトリック様は、すっかりクラリッサがお気に召したようね。近いうちに、正式なお付き合いを申し込まれるかもしれないわ。

今日の顔合わせは、その下準備といったところかしら?)


 どうやら、アデラインに続いて、クラリッサも待ち望んだ相手と出会えたようだ。

 彼女が辺境へ嫁ぐことになれば、社交シーズン以外はめったに会えなくなるだろう。それは、ブリジットにとってたいそう寂しいことだったが、クラリッサの幸せを思えば、そんなことは言っていられなかった。


 複雑な思いを抱えたブリジットを乗せて、馬車は、初夏の日射しの中をゆっくりと宮廷図書館へ向かっていた。


 *


「まあ、これは……!」


 ドローレスとエリノーラはもちろん、子爵夫人も、その部屋へ入るや否や、思わず声を上げ溜息をもらした。


 案内されたのは、舞踏会も開けそうな豪華な広間だった。

 ピアノを取り囲むようにして、たくさんの椅子が並べられていた。

 すでにその半数ぐらいは、このサロンに相応しい清楚な衣装を身にまとった婦人たちで埋まっていた。


 シェリダン伯爵夫人は、宮廷作曲家のアラン・バーレルの遠縁にあたる。

 彼女の屋敷で開かれる音楽サロンは、バーレルが参加することもあるため、音楽好きな婦人たちにとっては憧れの場だった。


「こんな格式高く素晴らしいサロンにお招きいただけるなんて、本当に名誉なことだわね。二人とも、失礼がないように落ち着いて振る舞うのですよ」

「わかりましたわ、お母様!!」

「いけません! それでは、元気がよすぎるわ。もっと、上品に――ね」

「心得ました――」

「そうそう、その調子!」


 サロンの進行を手伝う、この家の若い執事が、三人を座席へ導いた。

 そこは、思っていたよりもピアノに近い、いわゆる上席だった。

 娘たちは素直に喜んでいたが、子爵夫人は首を傾げた。


(始めて招かれたサロンで、こんな席を用意されるなんて、何だかおかしいわね? ああ、耳の奥がむずむずする……、何か思ってもみないことが起こる予兆だわ……。でも、悪いことではない気がするのよね……)


 椅子が埋まると、薄紫色のドレスに身を包んだシェリダン伯爵夫人が登場した。後ろに控えている、手足が長くて見目良い男性が、アラン・バーレルだった。

 伯爵夫人は、簡単な挨拶をした後バーレルを紹介し、彼と並んで席に着いた。


 サロンの常連と思われる人々の素晴らしい演奏や歌唱が続き、最後を締めくくる形でアラン・バーレルがピアノの前に立った。


「本日は、まだ人前で一度も演奏したことのない、新しい歌曲を皆さんにご披露したいと思います。そして、この歌に相応しい素晴らしい歌い手をご紹介いたします。ドローレス・モットレイ嬢、こちらへ!」


 広間の中が、ざわめいた。

 人々の視線が、バーレルの視線の先を追って、ドローレスに集まった。

 事態がのみ込めず戸惑うドローレスの元にバーレルが近づき、お辞儀をした後彼女の手をとった。

 

 人々の拍手の中を、バーレルに導かれピアノの側に立ったドローレスに、バーレルから楽譜が渡された。

 ドローレスは、緊張感から微かに指先を震えさせながら、それを受け取った。


 しかし、ひとたび譜面に目を通すと、彼女は、そこに綴られた美しい歌の世界へあっという間に引き込まれてしまった。

 ドローレスは、丁寧にお辞儀をして、バーレルの伴奏が始まるのを待った。

 心配そうに見守る子爵夫人やエリノーラの姿も、もはや目に入らなかった。


 ピアノの音に身をゆだね、すでに頭に入ってしまった譜面に合わせ、音に言葉を載せていく。

 ピアノを奏でるバーレルの方が、緊張し始めていた。

 何度か音を外しかけながらも、ドローレスの歌唱に導かれるように旋律を紡ぎ出していった。


 最後の音が、その場の空気に溶け込むように余韻を残して消えると、大きな拍手が湧き起こった。

 ドローレスが、音楽と一体になれた喜びに浸りながら、ゆっくりと目を開けると、子爵夫人とエリノーラが、涙ながらに抱き合いドローレスの方を見ていた。その姿に、今度はドローレスが涙した。


 バーレルは、静かに立ち上がると、ドローレスに近づきその手を取った。

 そして、その場にひざまずき、驚きと感動に声を震わせながら言った。


「わたしは……、もう二度と巡り会うことはないと思っていた、音楽の女神に愛された女性ひとに再び出会うことがきました……。ドローレス嬢、これを運命と呼ばせてください! あなたの希なる才能をもって、どうかわたしを女神の足元へお導きください!」

「はい……」


 ドローレスの返事を聞くと、バーレルはにっこりと微笑んでから、彼女の手の甲にそっと口づけた。

 バーレルと並んで挨拶をしながら、さらに大きな拍手を浴びたドローレスは、これまで感じたことのない高揚感を味わっていた。


 サロンが閉会した後、子爵夫人と娘たちは、伯爵邸の居間に呼ばれ、伯爵夫人やバーレルとさらに親交を深めた。

 そして、伯爵邸を後にする頃には、ドローレスの宮廷音楽会での歌唱の披露が決まり、バーレルによる個人指導の予定が組まれていた。


(不思議ね……。あのサイラス殿下の帰国を祝う宴に出かけて以来、次々と娘たちに良縁が舞い込んでくるようになった気がする……。フフフ……、サイラス様は、外国から縁を結ぶ神様でも連れて帰っていらしたのかしらね……)


 帰りの馬車の中で、うとうとし始めた娘たちを見ながら、子爵夫人は、人々の間を飛び回り男女の指を透明な糸で繋いで回る小さな神様の姿を想像して、ひっそりと忍び笑いを漏らしたのだった。


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