<表のおはなし>②
そして迎えた、翌週の金曜日――。
晴れ渡る空の下、屋敷を出発していく馬車を、アデラインとブリジットは静かに見送った。ほかの家族は、まだ、温かな布団の中で夢を見ている。
モットレイ子爵とクラリッサは、今日一日、乗馬やピクニックを楽しむため、王都郊外にある広大なレドモンドの森へ馬車で出かけていった。
森の近くには、子爵の弟が運営する厩舎があり、子爵家の乗馬用の馬もそこに預けてある。
「予定がなければ、わたしも一緒に行ったのに――」
ぽそっとつぶやいたアデラインに、少しだけ呆れながらブリジットは言った。
「お姉様ったら、そんな言い方をして……。乗馬やピクニックよりもずっと楽しい予定が、今日も一日詰まっているのでしょう? 羨ましいことだわ!」
「何を言うのよ、ブリジット! あなただって、今日は宮廷図書館へ行くのでしょう? その後、ベネット様とはどうなの?」
「どうなのって――」
サロモン・ベネットは、いつもにこやかにブリジットを出迎えてくれる。
作業室へ行き、下訳する書物や辞書を渡され、ブリジットは仕事を始める。
彼は、ときどき作業室を覗きに来るが、ブリジットの仕事の邪魔をすることはなく、すぐにまた自分の仕事へ戻っていく。
「休憩時間には、翌週の予定を話し合いながら、ちょっとしたおしゃべりなどもするけれど、それだけよ。
前にも言ったでしょう? ベネット様は、読書好きで外国語に詳しければ、誰でもよかったのよ。わたし自身に関心があるわけじゃないわ」
「あなたは、どう思っているの? 話に聞く限りでは、ブリジットにぴったりの方のように思えるのだけど――」
アデラインの問いかけには答えず、ブリジットは家の中へ戻った。
ようやく起き出してきた子爵夫人が、大きな声でエルシーを呼んでいる。
ブリジットも、そろそろ身支度を整え、宮廷図書館へ行く準備を始めなければならない。
(今日のドレスは――、また、あの青いドレスにしようかしら? この前ベネット様が、『ブルーベルの花の色ですね! よくお似合いです!』と言ってくださったドレス……)
気恥ずかしそうに微笑むサロモン・ベネットの顔を思い浮かべながら、ブリジットは自室へ戻り、いそいそと外出の準備を始めた。
*
「えっ? 今日は、ベネット様はいらっしゃらないのですか?」
宮廷図書館の玄関で、青いドレスのブリジットを出迎えたのは、サロモン・ベネットではなく、彼の上司であるシャノン司書長だった。
「さる貴族のお屋敷の書庫から、非常に珍しい古書が見つかりまして、ベネット司書は、そちらの鑑定に出かけています。午後には戻ると思います。
作業室に、今日の用意はできているようですので、レディ・ブリジットは、いつも通り翻訳のお仕事に取りかかってください」
「承知いたしました……」
翻訳の手伝いを引き受けてひと月――。
サロモン・ベネットが、宮廷図書館にいなかったことなど一度もなかった。
前週にブリジットの予定を確かめ、それから来館日を決めているのだから当然なのだが、これまではベネットに急用ができたということもなかったのだ。
司書長に案内されて、ブリジットは、無人の作業室に一人で入った。
作業机の上には、今日、下訳をする書物が紙束と共に置かれている。
いつもなら、説明をしながらサロモン・ベネットが手渡してくれるそれらが、広い机上にぽつんと置かれているのを見ると、彼の不在が実感されて、ブリジットは急に寂しい気持ちになった。
(わたしは、翻訳のお手伝いをするために、宮廷図書館へ来ているのよね。ベネット様にお目にかかるために来ているわけじゃないわ……。ぐずぐずしていないで、早く仕事に取りかかろう。ベネット様がお戻りになったときに、ご心配をかけないようにしなければ!)
自分自身を叱咤し気持ちを切り替えると、ブリジットは書物を手に取った。
「まあ! これは……」
百年近く前に活躍したレイヴォーネン王国の詩人、イェスタ・ルディーンの『恋愛詩集』だった。
ブリジットは、十五歳になった日、師であるジャスミン・ワイマンから、誕生日の祝いの品として、この詩集を贈られたのだった。
「作者の思いを汲み取って、この詩集をわたしが望むような言葉で訳せるようになったら、あなたを一人前の女性として認めます。
急がなくていいのよ、ブリジット。レイノ語も恋心も、時間をかけて学びなさい。そしていつか、自分の思いを自分の言葉で表現できる人になってちょうだい」
ワイマンに認められたくて、いくつかの詩の翻訳を試みたが、「まだまだね」と言われて、どこをどう直せばいいかも教えてもらえなかった。
そして、三年前、「もう、あなたに教えることは何もありません」と言って、彼女は、突然ブリジットの家庭教師を辞めてしまった。
そして、住まいも引き払い、誰にも行き先を告げずに王都を去った。
「もう一度挑戦してみなさいという、神様の思し召しかしら? 今なら、あの頃よりも、少しはましな翻訳ができるかもしれない。
それに、ベネット様はきっと、わたしの訳に手を入れてくださるはずだから、一人で訳したときよりも良い形になるはずよね――。
いつかワイマン先生に認めていただけるよう、今度こそ頑張ってみよう!」
ブリジットは、素晴らしい機会を与えてくれたサロモン・ベネットに感謝した。
そして、いつもの元気を取り戻し、生き生きとした顔で詩集の表紙を開いたのだった。




