<表のおはなし>①
閲覧、ありがとうございます。
本日より、第二話をスタートします。よろしくお願いします。
「はあぁ……」
作業机の上に、辞書や紙束を重ねながら、ブリジットは深い溜息をついた。
午前中の作業に区切りをつけ、そろそろ休憩時間に入る時刻だ。
書物を手に、机の横に立っていたサロモン・ベネットが、彼女の顔を覗き込みながら心配そうに声をかけた。
「浮かない顔をなさっていますね、レディ・ブリジット。何か気がかりなことでもおありですか?」
「いえ、気がかり……というわけではないのですけど……。ああっ……、やっぱり気がかりですわ! でも、ベネット様にお話してよいものか、ずっと迷っていて……。もう、正式に決まったことだから、大丈夫かしら?」
しばしの躊躇いの後、サロモン・ベネットの温かな眼差しに励まされるかたちで、ブリジットは、モットレイ家に起きたことを語り始めた。
*
ちょうど二週間前の夕刻――。
宮廷図書館での初めての勤めを終えたブリジットが、馬車で送られ王都屋敷に帰ったところ、屋敷の中がいつになく華やいでいた。
妹たちはもちろん、いつもは穏やかで落ち着いている姉のアデラインまでもが、どこかうきうきとした様子でブリジットを出迎えた。
「お帰りなさい、ブリジット! 今日はね、素晴らしいことがあったのよ! ああ、まだ、信じられないわ!」
「おめでとう、アデライン姉様!」
「植物園でのお話を、早くブリジット姉様にも聞かせてあげて!」
「わたしたちも、もう一度聞きたいわ!」
事情が飲み込めないまま、ブリジットは首を傾げながら、帰宅の挨拶をするために子爵の書斎へ顔を出した。
扉を叩き部屋へ入った途端、今度は、そこにいた子爵夫人に捕まってしまった。
「まあ、ブリジットったら! いつ帰ってきたの? 全然気づかなかったわ!」
彼女もいつも以上にはしゃいでいた。胸にはなぜか、ブリジットが大切にしている植物図鑑を抱えていた。
「お母様まで、なんだか興奮して……。いったい、何があったのですか?」
「何がって、あなた! とうとう神様が、わたしたちの祈りに応えてくださったのよ! わたしの勘は正しかったのだわ。我が家に幸せが舞い降りてきたの!」
子爵夫人によると、アデラインと二人で出かけた植物園で、たいへん幸運な出会いがあったのだという。
「アデラインのスケッチに、この植物図鑑の著者であるウォーディントン様が目をとめてくださったの! ウォーディントン様は、新しい著書の植物画を描いてくれる人物を探していて、アデラインにぜひ頼みたいと仰ってくださったのよ!」
「ウォーディントン様が?! お姉様に?!」
ウォーディントンは、著名な植物学者であり、園芸家である。
だが、それだけではない。
彼は、名門貴族ウォーディントン伯爵家の若き当主でもあるのだ。
「おまけにね、カフェでいろいろとお話するうちに、たいそうアデラインと気が合い、正式にお付き合いをしたいと言い出されたの! 明後日、我が家にお見えになるのよ! おお、神よ!」
子爵夫人は、軽くはない植物図鑑を力強く掲げ、神に感謝した。
真実なら、アデラインはこれ以上ない良縁に恵まれたことになる。
しかし、そのような立派な人物と偶然植物園で出会ったりするものだろうか――、ブリジットは、おぼろげな不安を覚え素直に喜べなかった。
「お母様、そのお方は間違いなくウォーディントン伯爵なのかしら? その――、例えば、偽物とかいうことは――」
「それは大丈夫だよ、ブリジット。先ほど伯爵から、我が家への訪問を許可して欲しいという手紙が届いた。封印をよく見たが、怪しいところはなかったよ。アデラインが出会ったのは、本物のウォーディントン伯爵だ」
子爵もまた、嬉しさを滲ませた優しい声音でそう言うと、引き出しから取り出した手紙をブリジットに見せた。
そして、二日後には、豪奢な二頭立ての馬車に乗ったウォーディントン伯爵が、モットレイ家の王都屋敷を訪ねてきた。
伯爵は、上位貴族でありながら、尊大なところがない礼儀をわきまえた人物だった。子爵一家に対する丁寧な物言いや態度には、彼の誠実で偏見とは無縁な人柄が現れていた。
茶と手作りの焼き菓子でもてなした後、大事な話があるという伯爵とアデラインを客間に残し、家族や使用人たちは部屋を出た。
誰もが落ち着かない時間を過ごしていると、しばらくして客間の扉が開き、二人が手を取り合って現われた。
そして、そのまま子爵の待つ書斎へ向かった。
喜びのあまり倒れかけた子爵夫人を、あわててブリジットが抱きとめた。
「モットレイ子爵、謹んでお願い申し上げます。どうかわたしに、貴殿の愛娘であるアデライン嬢と、結婚を前提にお付き合いすることをお許しください。
嬉しいことに、先ほどアデライン嬢からは承諾を得ました。彼女の穏やかで温かな人柄と驚くべき絵の才能を、わたしは生涯をかけて愛し大切にしたいと思っています」
「お父様! どうか、よいお返事を……。わたしもウォーディントン様と同じ気持ちなのです」
書斎から漏れ聞こえてきた、ウォーディントン伯爵の心強い申し出とアデラインの熱い思いを秘めた言葉に、再び子爵夫人がふらついたので、ブリジットは慌てて手を伸ばした。
「有り難いお申し出、謹んでお受けいたします。ウォーディントン様、ふつつかな娘ですが、何とぞよろしくお願いいたします!」
ブリジットが止める間もなく、いつもは礼儀にうるさい子爵夫人が、不作法にも書斎の扉を大きく開け放ち、ブリジットの妹たちを引き連れて、部屋の中へ雪崩れ込んでしまった。
あきれながらブリジットが書斎へ入ったときには、中にいた人々は、誰彼かまわず手を取り抱き合い、目を潤ませて喜びを分かち合っていた――。
*
「その後は、びっくりするほど速やかにことが進んで、四日前、姉とウォーディントン様の婚約が成立しました。二人は毎日のように互いの屋敷を行き来し、仕事の打ち合わせと結婚に向けての準備を仲睦まじく続けておりますわ」
ブリジットの話を聞き終えたサロモン・ベネットは、少し不思議そうな顔をしながら彼女に尋ねた。
「あなたのお話を聞く限りでは、レディ・アデラインは、理想のお相手に巡り会い幸せの絶頂にあるように思えます。いったい、何が気がかりなのですか?」
何が気がかりなのか――、サロモン・ベネットの言葉で、ブリジットは自分の心の内を見つめ直した。
思い出すのは、渋るアデラインを説き伏せ、ドキドキしながら二人で夜会へ出かけた日々のこと――。
「社交界にデビューして五年――、わたしは、面倒がる姉を連れて様々な社交の場へ出かけました。ただただ、姉にぴったりのお相手を見つけたかったからです。
結局、良い出会いがないまま、五年もたってしまったのですけど、それが、突然こんなことになって――」
どんなに願っても、ずっと手に入れられなかった良縁が、思わぬ形でアデラインの元に舞い込んできた。
なんだか、夢を見ているよう――、そんな覚束なさを、ブリジットはずっと感じていたのだ。いつか、夢は覚めてしまうのではないかと思い、誰よりもこの成り行きを喜ぶべき彼女が、幸せに浸ることができずにいた。
サロモン・ベネットは、いつもと同じ優しい笑みを浮かべ、ブリジットに囁いた。
「心配はいりませんよ、素直に喜んで祝福して差し上げなさい。『愛とは、見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである』と言うではないですか? レディ・アデラインは、時間はかかりましたが、そういうお相手にとうとう出会えたのです。きっと、幸せになれますよ!」
サロモン・ベネットにそう言われると、不思議なことにブリジットもそんな気がしてきた。憂いは消え、自分でも驚くほど晴れやかな気持ちになっていた。
「そうですね。きっと、上手くいきますよね。ベネット様に聞いていただいて良かったです。心が軽くなりました。ありがとうございます!」
「お役に立てて何よりです。レディ・アデラインには、わたしからも何かお祝いの品を贈らせてください。
さあ、二階へ行って休憩しましょう! 来週のご予定などを教えていただけますか? レディ・アデラインは、ウォーディントン伯爵とのお約束があるでしょうが、あなたの妹さんたちは、どんなご予定を立てているのでしょう?」
二人は連れだって、休憩場所である二階の貴賓室へ向かった。




