第四章 私、エンレンします
深田とは連絡先の交換をしていた。
ほんとはしたくなかったが、深田が雪子のスマホを取り上げ、メールアドレスと携帯番号をメモしないと返さないと粘ったのだ。
雪子は抵抗するのも馬鹿らしくて、深田に連絡先を渡した。
万が一、連絡が入れば無視すればいい。
そう思っていたのだ。
しかし、甘かった。深田の連絡は執拗だった。
球場近くのホテルに泊まった翌日から、深田から毎日メールが入った。
電話は週に一、二回。もちろんすべて無視した。
いくらセックスの相性が良かったとはいえ、八つも年下の男とどうこうなるなんて考えられなかった。
相性が良かったといっても、雪子にとってはやけくそのセックスだったのだ。
深田の力ではなく、状況が酔わせたのかもしれない。
それに、生活する場所もバラバラになることが決まっている。
深田からのしつこい連絡に全く揺れなかったかといえば嘘になる。
しかし、いろいろ考えると、やはり深田と関係を深めるという選択はできないのだった。
「いくら見た目がちょっと良くてもな・・・」
いくら背も高くて、性格もクセがなくて(面白いことは言えないけど、それは雪子が言えるので大丈夫だ)、普段ニコニコしてるのにベッドではそれなりに野性的でそのギャップに心地よくやられちゃったんだとしても・・・
あれ?
年齢にさえ目をつぶれば、深田は理想的な相手ではないのか?
中身はあんなで頼りないところもあるが俺様ワンマンより数倍マシだ。そして、一部上場企業の正社員で、それなりの稼ぎもある。
婚活中には絶対に出会えなかった上玉だ。
もし、出会ったとしても向こうからNGを出されていただろう。
越してきて三か月、地元での出会いもなさそうだ。
深田はなぜか半年も粘り強く連絡をくれる。
そのほとんどは一行メールだったが、あの口下手な深田が毎日くれるのだ。それなりに評価してやらなければいけない。
今日は天気いいですね。
会社でいじめられちゃいました。ちょっときれそうになりました。
元気ですか? 今はどこで働いていますか?
また横浜に行っていいですか?
雪子が返信を返さないので、徐々に疑問形のメールが多くなってきた。
ほんとに答えを求めてるんだ。
それに気づいたとき、さすがの雪子もぐっときた。
年をとっていても、女のツボは二十代の頃からと変わっていない。
深田がそんなことを理解しているとは思えないが、とにかく雪子の心を動かすことには成功したのだ。
雪子は深田がかわいそうになる。
若くてかっこいいのに息苦しい職場で「出る杭」に決してならないように息をひそめて過ごし、社内にはいないタイプの女と気晴らしで遊び(ストレスが溜まってるからそんなことをするのだ)、一夜のセックスの相性が良かったからという理由ではまり、その関係に執着する。
深田は下手ではなかったが、経験豊富ではないという感じだった。
彼にとって雪子とのセックスは、初めて経験する「はまったセックス」だったのではないだろうか。
それも雪子に執着する理由のひとつだろう。
そう考えると、急に深田という男が色褪せてみえる。
男なんて所詮、その中心についているものに振り回されているだけの生き物だ。
この女にまた入れたいと思えば、どんな努力だってする。しかし、いったん飽きれば、これまでのことが嘘のように振り返らない。
そんなものだった。
雪子は深田を断ち切ろうと初めてメールを返信した。
いま、福岡にいます。東京にはもう戻りません。ということで、さようなら。お元気で。
深田から即レスが入る。
その文面を見て、雪子はぎょっとする。
わかりました。今度の休みに、福岡に行きます。待っててください。
「待っててって・・・」
この人、ヤバイ人なんじゃ。
さわやかで一見さらっとしてる人がまずいんだって。
彼氏に別れを切り出したらストーカーされた女友達がいた。彼女はたしかそんなことを言っていた。
「まさかね」
雪子はたった鳥肌を撫でながら、深田からのメールを何度も読み返した。
「雪子さーん」
深田は待ち合わせ場所に笑って現れた。
とくに変わったところはない。容姿の変化もない。当たり前か。
雪子は周囲を見渡す。
会社の知り合いはいないか。
深田が何かしてきたら怖いと思い、人の多い駅前で待ち合わせしたが、今度はそれが元で人目が気になる。
こんな若い男と一緒にいるところを見られたら、なんといじられるかわからない。
今の職場は陰険ではないが、遠慮のない職場なのだ。
「小倉って思ったより都会ですね。小倉にもうちの支社があるんですよ。けっこう大きな」
「知ってる。派遣会社にすすめられたけど、即、断った」
「そうですか。残念。じゃ、行きましょうか」
「どこに?」
「とりあえず、僕、小倉城に行ってみたいです」
「え?」
「観光ですよ、観光。知ってます? 小倉城の場所」
「知ってるけど」
「良かった、じゃあ、行きましょう」
深田が意気揚々と歩き出す。
「深田さん、そっちじゃない。こっち」
「ああ、すみません。雪子さん、ナビしてください」
「ああ、はい、はい」
なんで私が・・・
雪子さん?
この前、別れたときは崎本さんって言ってたよな。
さわやかで一見さらっとしている人がまずいんだって。
友達の言葉がよみがえり、雪子は寒気を感じた。
「どうしたんですか?」
「え? いや、べつに」
「雪子さん、なんか明るくなりましたね」
「そう?」
「はい、感じが違います。優しいってゆーか、柔らかいってゆーか」
「そっかな」
「こっちの生活があってるんですね、きっと」
「地元だからね。深田さんはどこ?」
「僕、埼玉なんですよ」
「へえ。うらやましい」
「どうしてですか?」
「だって、実家が首都圏にあれば、失業してもなんとかなるでしょ」
「まあ、実家に戻ればいいですからね」
「地方者はそれができないから大変なのよ」
「そうですか。まあ、失業したらどっちみち大変ですよね」
「そうね」
わかってないな。
雪子は黙り込む。
地方から関東に出て働く人間の苦労など、首都圏に生まれた者たちには関係もないだろうし、理解もできないものだろう。
嫌だったら実家に帰ればいいじゃん。
学生時代から社会人三年生まで付き合っていた神奈川出身の男に言われた言葉を、雪子はまだ根に持っている。
雪子が会社の人間関係に悩み、辞めたい辞めたい、でも生活があるから辞めれないとグチグチ言ってたことに業を煮やしたのだった。
その男はこうも言った。
地方出身か都会の出身かなんて、ちょっとの差じゃん。俺も東京生まれってわけじゃないけど、そんなに「差」は感じてないぜ。
そのちょっとの差がでかいのだ。
わずかな差がどれだけの経済格差を生むか。苦労も経験も想像力もない男に言っても仕方ないと雪子は諦める。
そして、東京生まれと神奈川生まれに「差」はない。その点だけは、男の言うことが合っていた。
「雪子さん?」
「え?」
「なんか、僕、まずいこと言いました?」
「ううん、別に。私の問題」
「そう・・・ですか。すみません」
男にはなかったものが深田には確かにある。思いやりや気遣いだ。
あの組織の中で長く暮らしていて、そうったものが残っているのがちょっと不思議になる。
雪子はその疑問をぶつけてみる。
「深田さん、あの会社でよくやっていけるね。ちょっとタイプが違うと思うんだけど」
「そうですねえ。ちょっと浮いてるかもしれませんね」
「うまくやってたみたいに見えたけど」
「だったらいんですけど」
城が近づいてくる。深田の目が輝いてきていた。
城マニアなのか?
「あのお」
「何?」
「僕って、わりと、そのイケメンじゃないですか」
「え?」
何を言い出すんだ、この若者は。
雪子の反応を見て、深田が慌てて言葉を吐き出す。いつもより二倍のスピードで喋る深田を雪子はじっと見ていた。
「いや、その、大したことないってわかってるんです。ちょっと背も高いけど、モデルとか俳優とか、そんなレベルじゃないし。でも、あそこの職場ってブスばっかりだから」
ブス・・・確かに。雪子は職場の風景を思い出す。
大卒のホワイトカラーの男なんて大概がブスだ。だから、そんな男たちが集まる職場は、大抵がブスの集団。
それはわかっていたが、深田の勤める会社はとくにその傾向が強かった。
だから、深田がハブにされずに馴染んでいるのが不思議だったのだ。
深田の見た目もその優しさも、明らかにあの職場とは合わないものだった。
「そうよね。だから、深田さんが村八分にされないのが不思議だったの」
「新卒の頃、ちょっとやられたんですよ」
「ああ、やっぱり」
外部から来た者が、自分たちよりちょっとでも優れているモノを持ってたら許さない。
そういった集団が、深田のような男を見過ごすはずはない。
「で、どうやって切り抜けたの?」
「馬鹿のふりをしました。大ごとにはならないことで、仕事をわざとミスしたり、嫌がらせされても気づかない天然のふりをしたり、下ネタを言って気さくさをアピールしたり」
「涙ぐましいわね。ってゆーか、辞めようとは思わなかったの、あんな馬鹿なとこ」
「とりあえず、それを越えて、辞めたかったら辞めようと思いました」
「へえ」
へらへらしているが、冷静で頭がいい。
いざとなると人目を気にしないところがあり、意外に肝も据わっている。
雪子は、深田の魅力に目を反らしてきた自分を認めざる負えなかった。
「それでだらだらして今に至ります」
「なるほど」
「雪子さんは強かったですよね」
「え?」
「あいつらにグチグチ言われても、負けてなかった」
「そうかなあ。ほんとはキレたかったけど、立場が弱くてできなかったのよ。私の負けです」
「そう言えるところが強いんです」
「それはどうも。ありがとうございます」
雪子にとってはもうどうでもいい過去のことだった。
「傍から見てると、明らかに雪子さんのほうが素敵なんです、あいつらより。だから気に入らないんだろうけど」
「そうかな。私なんていい年こいて結婚もしてないただの派遣だけどね」
「そんなことないです。雪子さんはおもしろいです。なかなか居ないタイプの人です」
「そうかな」
自分をそんなふうに思ったことはない。雪子は首を捻る。
セックスが合ったからちょっと良く見えてんじゃない。
そう言おうと思ったが、真剣な深田の目に出くわして、止める。
「動じない雪子さんを見てると、いじめてるほうが負けてるみたいに見えて、それが痛快で」
「私はまるですっきりしなかったけどね」
「そうですか」
「ええ。派遣で後腐れないからキレてやれば良かったって、それぐらいしか思わない」
「キレたら、見損なってたと思います。それって負けじゃないですか」
深田は思い込みの強いさわやかなイケメンストーカーかもしれない。
でも、見損なわれなくて良かったと雪子は反射的に思う。
玉砂利を踏みしめて歩いてきた二人の目の前に小倉城があった。
「こじんまりしてますね」
「そーゆー城だから」
「登りましょう」
「はいよ」
深田の後ろを歩く。
深田の男らしい広い背中を見ながら、雪子はもう一度寝てみたいと思った。
そして・・・
「ほんとにやってしまった」
雪子はホテルのベッドに横になったまま放心している。
正直、良かった。
三回もいってしまった。
深田とは本気ではないと思いつつも、雪子は何度も大きな声をあげ、体をうねらせた。
体は正直だ。
「雪子さん、なんか飲みます?」
「いい」
「そうですか」
深田がホテルのミニ冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、腰に手をあて、ぐいっと背を反らしあおる。
深田は全裸だった。
前回は下着を履くまでは股間を抑えて移動していたのに、この変化はどういうことだろう。
回数が増えるに従って気安さが出てきたのだろうか。
簡単に、軽く見られているのか、心の距離が近くなって親しくなったのか。
雪子はどっちだろうと思いを巡らせる。
ごくごくと音がし、深田のそれほど大きくはない喉仏が上下している。
「はあーっ、うまいっ」
深田がにこりと笑ってこちらを見た。
雪子は苦笑を返した。
恋人でもなんでもない男とのセックスの後のやりとりはなんとなく照れくさく、気まずい。
「家のほう、大丈夫でしたか?」
「うん。こっちの友達の家に泊まるって言った」
深田がシャワーを浴びている間に家には連絡を入れておいた。
母は、そう、あまり迷惑かけちゃだめよとあまり関心のない様子だった。
雪子に男の存在は全く感じてないらしい。
しかし、男はする前はこういった確認はしないのに、した後はどうしてこういったことが急に気になるのだろう。
出した後じゃないと冷静になれないのか。出した後、現実に戻るのか。
「そうですか。良かった」
深田はミネラルウォーターを飲みながら窓際に移動し、カーテンを細く開けて、街を眺めている。
週末の深夜とはいえ、騒ぐ者が悪目立ちするほど小倉の駅前は静かなものだ。
東京や横浜とは違う。
深田はそれを見て、どう思うのだろう。
深田の意外に肉付きのいい尻がこっちを見ている。
「ちょっとシャワー浴びてきますね」
深田がベッドの前を横切り、バスルームに入っていく。
さきほどまで自分の中に入っていたものが目の前でぶらぶら移動していくのを雪子はなんとなく眺めている。
明日(というか今日)はどうするんだろう。
このあたりじゃ地味だから博多あたりに移動するか。
そんなことを考えながら、雪子は心地よい眠りに落ちていった。
雪子はそれからチェックアウトの時間ぎりぎりまで熟睡してしまった。
深田に起こされ、部屋を出る支度をする。
「寝顔もかわいいんですね」
隣で深田は笑っている。
雪子はどんな返しをしていいものか戸惑う。
深田とは東京を去る前にやけくそで寝た。それきりのはずだった。
それなのに、深田は自分との縁をつないで、小倉まで会いに来た。
そして、雪子は友達でも、彼氏でも、セフレでもない深田とまたセックスをしてしまった。それも何度も。
「博多って、思ったより都会ですね」
「そうね。小倉とはやっぱ全然違う」
「そうですね。でも、あの感じも僕けっこう好きですよ」
「私も。あれぐらいがちょうどいい」
ちょうどいいか。
隣を歩く深田を見あげる。
深田は自分にはちょうどいいとは言えない。
若いし、深田の持っている要素(身長だったり年収だったり、勤務している企業だったり)は、雪子より若くて傷の少ない女を十分に引き寄せられる。
自分には似つかわしくない要素だった。
日曜日の街は若者や家族連れで溢れている。
「何か食べます?」
深田がこちらを見ている。
「そだね」
さっきまで全裸の無防備な姿を自分の前で晒していた男は、街で見るとかなりマシな容姿をしていて、かっこいい部類に入ることがわかる。
でも、そんなことを確認してもむなしいだけだ。
深田は自分のモノではない。
深田がとんこつラーメンの店を見つけてはしゃいでいる。
雪子は昨日も結構飲んだし、ちょっと腹にもたれるなと思いつつ、異を唱えることなく深田に続いた。
「今日も泊まっちゃおうかな」
「だめ、ちゃんと帰りなさい」
「はーい」
隣を歩く深田の影が雪子を覆う。
博多の街はそろそろ屋台の灯りがともりはじめる。
夕方の街を、これから飲みにいく人と家路につく人が交差していた。
「また来ていいですか?」
「え?」
「っていうか、福岡に異動願い出しちゃおうかな」
「何言ってんの。ダメよ。こっちに実家があるわけでもないのに」
「でも、僕、雪子さんのそばにいたいです」
「え?」
「いまいち伝わってないみたいですけど、本気ですよ」
「何言ってんの。からかってんの?」
「からかってなんかいません。本気です」
「ちょっと」
雪子は深田を小さな路地に引き込んで言った。
「こんなおばさん追っかけて九州に渡ったりしたら、会社の笑い者よ」
「笑われてもいいじゃないですか。誰に笑われてもかまわない。人の目を気にして、好きな人を諦めるなんて愚かじゃないですか」
人のセックスを笑うなって小説あったな。
「好きな人って、私たちは、たまたまその、セックスが良かったっていうか、そっちの相性が良かっただけで」
「それじゃダメなんですか」
二位じゃだめなんですか。
厳つい女議員の言葉が頭をよぎる。
二位でもだめじゃないけど・・・
「時間を無駄にすることになるわよ。私も、あなたも」
「え? どーゆーことですか」
「こんな関係、最初はちょっと物珍しいけど、すぐに色褪せて、なんだったんだろうって思うようになるってこと。何の結果にもつながらないってこと」
「結果ってなんですか? 結婚とかそーゆーことですか」
「そうじゃなくて」
結婚という単語に反応して、雪子の語気が少し強まる。
深田に結婚をせまってると思われたらどうしようと焦ったのだ。そんなつもりはないのに。
「ちゃんと付き合いませんか?」
「え?」
「僕じゃ嫌ですか?」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「深田さんならもっといい人狙えるでしょ。私と違う、もっと条件のいい子を」
「条件って何ですか?」
「年とか、容姿とか、学歴とか仕事とか」
「そんな条件考えたことないですね」
「それは結婚を考えたことがないからよ。結婚して子供を産むって考えたら一歳でも若いほうがいいし、容姿も頭もいいほうがいい子供が生まれるし」
「いい子供ってなんですか、それ」
深田が冷めた声で言う。初めて聞く低い声だった。
「やっぱり結婚なんですか?」
「ちがう。そうじゃない。あなたとの結婚なんて考えてないし」
「どうしてですか? 遊びでこんなことしてんですか? 意外です。驚いたな」
「そうじゃない。遊びとかそんなんじゃないけど、でも、付き合うとか結婚とか、そんなこと考えてないから」
「俺が年下だからですか?」
俺って初めて言ったな。
雪子は深田を見る。深田もまっすぐにこっちを見ていた。
「結婚とか、雪子さんが急いでるなら、俺もちゃんと考えます」
「急いでないわよ。むしろ、諦めていま開放されてるところだから」
「じゃあいいじゃないですか。俺と付き合ってください」
「え? なんでそうなるの?」
「ダメですか? 年下だからですか?」
「そんなに年下でもないじゃん」
結婚というしばりが外れれば、八歳の年の差などどうでもいいように思えてくる。
ということは、やはり深田を結婚相手として見ていたのだろうか。
「じゃあ、俺が嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど」
「けど?」
「でも」
「じれったいな。俺は好きですよ、雪子さんのこと」
「だから、それはこのちょっとおかしな状況に踊らされてるだけだって」
「踊らされてるって何ですか? ポンポコリンじゃあるまいし」
意外に古いところから持ってくるな。
深田との会話がそれほど「ずれ」なかったのは、深田のこういった感覚に助けられていたのかもしれない。
「ポンポコリンって・・・」
深田が小さくため息をついて続けた。
「俺は雪子さんが運命の人だなって思ってます」
運命。
ずいぶん大袈裟な言葉を取り出してきたなと思いつつ、胸が急にドキドキしてくる。
理性で抑えつけようとしても、胸が躍っているのだ。
ポンポコリンは私だ。
「あんな会社で知り合って、運命もくそもないでしょうに」
喜んじゃだめ。舞い上がっちゃだめ。ときに男は大して覚悟もないのに大仰なことを言う。
そう思って憎まれ口をたたいても、胸の高鳴りは抑えられないのだった。
「あんな会社だけど、いい出会いがあったから辞めないで良かったなって思いました」
深田がじっとこちらを見ている。
深田の若く白く澄んだ白目に雪子の視線が奪われる。
いつの間にか周囲は薄い闇に包まれていた。
「でも、さあ・・・」
婚活で抑えていた何も頭で考えずにわがままに誰かを好きになりたいという衝動が一気に噴き出しそうになる。
それを目の前に男にぶつけていいのか。
女のソレを見て、この男は逃げないか。
雪子の体は硬くなる。
そんな雪子の体を、深田はそっと抱きしめた。
「大丈夫ですから。俺たち、きっと、うまくいきます」
「結婚ってこと?」
やはり自分は結婚にこだわっている。こだわりすぎている。
雪子は認めざる負えなくなる。
「結婚でもなんでも、いいですよ」
深田の胸の中で大きく息をする。
深田の臭いがする。
この人の臭いが好きだと、雪子は思う。
「とりあえず遠距離恋愛だね」
「いいんですか?」
「うん。結婚とか、そーゆーのはどうでもいいから」
雪子は小さな虚勢を張る。
深田と付き合えば、こんなふうに意地を張らないといけないときが度々あるだろう。
それでも、今の雪子はそれを越えてみたいと思った。
「わかりました。とりあえずエンレンですね」
「そうエンレン」
何でも略したらいいってもんじゃないぞ。
そう思いながら、雪子は深田の背に手を回し、その体を自分のほうにぎゅっと引き寄せる。
大通りからは街の賑わいが流れてきた。