失敗世界のやり直し 〜澁澤まことの場合〜
目覚めると、真っ白な空間で仰向けに寝ころんでいた。ここは病院だろうか。
ああそうだ、鎮痛剤を少しばかり飲みすぎてしまったのか。視界がちらちらと眩しい。体重がないかのように体が軽く、頭の奥が軋むようで、意識がふわふわとしている。いつから意識を失っていたのかも曖昧であった。
「起きたかの」
ふと、そう声を掛けられて、声の方を向いたとき、私は自分の思い違いに気が付いた。
ここは病院ではない。ただ真っ白いだけで、天井も壁もないのだ。まるで白い空の下で白い大地に寝転んでいるような。
「こなた、澁澤といったか」
耳に届くのは老婆の声である。しかしその声の主は美しい幼子の姿をしていた。踝までの白髪が絹織物と見紛う光沢を放ち、擦り硝子のような肌をした顔は、これまた白く長い睫毛が金銀の瞳を縁取っている。年の頃は10歳ほどだろうか。貫頭衣に袴姿で、女の子のような気がするが、性別はよくわからない。
幼子はこちらに顔を向けることもなく、箱庭を作って遊んでいるようだった。手許には剪紙で作られたたくさんの形代が置いてある。その少し離れたところには小さな鳥居があった。
「はい、澁澤まことです。あなたは、一体?」
私の質問に、幼子は応えない。ただうっすらと笑みを浮かべて形代を手に取ると、それを箱庭の上にかざした。
……すると、箱庭が形代に吸い込まれるようにして消える。形代から手が離れると、それは光を放って宙に浮き、ひとりでに飛んで鳥居をくぐり、見えなくなった。
「ここは幽世じゃ。本来は人のくる場ではない」
「幽世……ということは、私は死んだのですか? あなたは神様か何かでしょうか」
「神か。まぁ、そうとでも思っておればよい。こなたは死んだわけではないが、ちと、話したいことがあっての。妾が呼んだのじゃ」
神様はそう言って眼を背けたまま、滔々と話し出した。
曰く、人の世とは二重構造になっている。人の住む世界があり、住んでいる人の頭の中にさらに世界があるのだという。
頭の中の世界は、人が生まれ出づる時に担当の神様によって創られ、一つとして同じものはない。そして人が思索や妄想という形で頭の中の世界に影響を及ぼしたり、頭の中の世界が人の行動に影響を及ぼしたりという相互関係にあるらしい。
「だが、こなたの頭の中は失敗だった。創った世界を入れるとき、どうやら一緒に鬼が入ってしまっての。彼奴が世界を壊して回り、この相互関係を歪ませている。妾が創った世界と、そこから出てくるものに差異があるのじゃ。捻じれきっていて見るに堪えん」
「私の頭の中に、鬼がいるのですか……?」
概要はわかったが、いまいちピンとこないでいると、神様は急に両目を細め、こちらに向けた。
「こなた、今まで幾人殺めた?」
「えっ!? 私は人殺しなんてしたことはありませんが」
「否、こなた、矢鱈にものを書くのが好きじゃろう? 今まで書いた物語、人死にが多すぎるとは思わなんだか」
確かに、私は昔からものを書くのが好きだ。現実逃避のようなものだが、物語を作り、それを形にすることで、いつも心の内にさざめいている焦燥感が、一時、消える。
しかし、私の物語はいつも涙と血を流す。詩であれ小説であれ、登場人物が死んでしまうことは多かった。
「あれらは皆、こなたの頭の中で生きていたものたちぞ。相互関係にある以上、こなたが紙の上で殺せば、頭の中でも死ぬ。おかげで今、あの世界はひどいものよ」
「そんな……」
『頭の中の世界』……そんな言葉は何度か目にしたことがあるが、所詮は比喩、単に私の空想だと思っていた。実際に自分の中に世界が存在しているとは、そしてそこに息づく命があるとは思ってもみなかったのだ。
無情な現実を突きつけられて言葉を失っていると、神様は私を指差した。
「さて、咎人よ。失敗したからにはやり直しをせんといかんの。鬼ごっこをせい」
「……鬼ごっこ、とは?」
「頭の中に潜む鬼を捜し、捕まえてみよ。さすらば、妾が創った本来の世界を取り戻すことができよう。妾が創った世界は美しかった。取り戻すことができれば、こなたももう悪夢に悩まされることもあるまいて。悪い話ではなかろう? 期限はこなたの一生だ」
「待ってください、せめて鬼の探し方と特徴を教えていただけませんか?」
「なに、簡単なことよ。こなたと、妾の創った世界との繋がり自体は保たれておる。思い描いていたものと、出来上がったものをよく見比べてみるのじゃ。こうなるはずではなかった、と思う所があれば、それが鬼の歪めた痕跡よ」
言われてみれば、救いを求めて書いているはずなのに、どんな物語を創ろうとしても、どうしても暗くなってしまうことは自覚していた。筆を進めるうちに、意に反して登場人物たちが勝手に死んでいくのだ。
「痕跡って……しかし、それがわかったとして、どうやって捕まえろと?」
「やり直しと言っておろう。歪んだ部分をこなたが作り直すのじゃ。鬼が世界を歪めるのには意味がある。彼奴、歪めた場にしか巣食うことはできんのよ。歪みを作り直すことを繰り返せば、足跡を辿るように、鬼を追い詰められる。やり直した世界は、妾が最初に作ったものからは変わっておろうが……澁澤、妾が選んだこなたに託すのなら悪くはない」
「私に、神様のお役目を託してくださるのですか?」
「別に妾の創った世界は、こなたの頭の中だけではないのじゃ。こなたにばかり時間をかけてもおれん。時たま、他の美しい世界を眺め飽きたときには、その鬼ごっこを見物してやろう」
神様は、私を指していた指を鳥居に向ける。すると、私の身体はふわりと浮き上がり、鳥居の外へ吸い込まれていくのがわかった。
「さぁ、去ね。結末を楽しみにしておる。人は脆いぞ? こなたが鬼を捕まえるのと、鬼がこなたの中の世界を壊し尽くすのと、どちらが早いかの?」




