冬の桜は儚く舞う
高3の春がきた。
無機質な机と椅子の列も、妙に厚手で黒っぽい色をした制服も、毎日を共に過ごす生徒も先生も、あと1年しない内にさようならの実感が全くない。
席に座ったすぐ隣の窓から外を見下ろすと、まだあどけない顔の子たちが緊張したように歩いている。
たったふたつしか歳が離れていないのに若く感じるのは、真新しい制服のせいだろうか。それとも自分のしんみりした気分のせいだろうか。
あたしが机に頬杖を付きながらぼんやりそんな事を考えているとチャイムと同時に先生がやってきた。
慌ただしく皆が席に着く。
出欠を確認する先生の顔も、もう見飽きた。それとも1年後には会いたいだなんて思うようになるんだろうか。
先生は黒板に何か書きながら一生懸命に就職とは、とか、進学とは、とか話している。
高卒の求人が少なくなる一方のこの国でありながら
卒業後の進路が進学7割、就職3割を誇る我が校に置いてその話はきっと大事なんだろうけれど。
進学している自分も就職している自分も想像出来ないあたしは、そっと斜め前の、入り口に近い席に座っている彼女を見た。
彼女は艶やかな黒髪をふんわりとひとつにまとめて
背筋を伸ばして真剣な顔で先生の話を聞いていた。いかにもお嬢様、といった顔立ちの彼女は、実際に良家のお嬢様である。らしい。噂でしか聞いた事がない。
住む世界が違う、というのはこの事だろうか。
雰囲気も頭の出来も周りにいる人も一致する物が何もないあたしはこうして遠くから彼女をみつめるしかした事がなかった。
何食べたら髪の毛あんなに綺麗に伸ばせるのかなー。すぐ傷んじゃうからずっとショートのあたしとは大違いだなー。
実は彼女とは3年間クラスが一緒だった。進路別クラス分けという事をしない我が高校はそれでも進級時にクラス替えがある。
先生達の何考えてるのかわからないクラス分け。なのにそれなのに彼女とはクラスが一緒であり続けた。
話した事は全くないけれど。
住む世界の違う彼女は卒業後国公立の大学進学を希望している。と噂で聞いた。進学する人は確かに多いがほとんどが専門学校か私立の大学で。国公立の大学にわざわざ挑もうという人はごく少数派だった。
遠い国のお姫様って感じだなあ。ああいう頭も顔も良い人なら将来何になるのかな。
小さい頃はなりたいものがたくさんあった。お花屋さん。アイドル。パン屋さんに看護師さん。
本当になりたいものがいまいちわからないあたしは
こうして進路指導室の資料を前に腕組みしたりしている。
大人になったらそういった職業がどれだけ大変かわかるようになってきた。本気でないと出来ないであろう事も。
夢は夢のままになりそうで、かといって普通の会社員も専業主婦も絶滅危惧種なこの時代にあたしは一体何になれるんだろう。いや別に嫁ぐあてがあるわけじゃないんだけどさ•••。浪人は勘弁してくれって親に言われてるしなあ•••。
国公立の大学のパンフレットをぱらぱらめくってみる。
彼女はどんな学科を選ぶのかな。県外に行くのかな。
そんな事を考えながら募集要項の偏差値の欄を見て溜息が出た。あたしの頭では足りない。しかもちょっとではなく、だいぶ。
もしも、同じ大学に進む事が出来たとして、それがどうしたって話なんだけどね。
あたしの周りの友達は私立の大学に入りたがってる子が多い。将来海外で仕事したいから英語を学びたい、とか。薬剤師になりたい、とか。管理栄養士になりたい、とか。皆具体的な目標があって。その為に学校を調べたり見学に行ったりしていて。
すごいなあ•••。
学校に貼り出されている求人がほとんどない状況を見て、親と話し合いとりあえず進学に決めたは良いものの。相変わらず将来やりたい事とかよくわからないあたしが進学していいのかな、なんて思ったりして。
だって進学って、将来の目標とかちゃんとある人がする物じゃないの?
学校の行事もテストも待ってはくれない。
就職先が決まっても進学先が決まっても卒業出来なければ全て意味がなかった事となるのだ。
行事とテストと面接練習と小論文練習とそれからそれから。それらの間にいろんな学校の見学に行ったり説明を聞いたり資料を見て。季節があっという間に過ぎて行った。
先生にも親にも早く進路決めろなんて言われて。友達は就職が決まった子もいれば早くも推薦入試やらなんやらで進学が決まった子もいる。
そう、圧倒的に置いていかれている。
あたしの学校は方針として内定先とか進学先を名前付きで貼り出すような事はしないので、さまざまな噂が飛び交う。
あの人はあの会社の内定をもらったらしいとか。
あの人はセンター試験にかけてるらしいとか。
あの人は何社も落ちているらしいとか。
そんな噂をたくさん聞き流しながらやっぱり思うのだ。
彼女は何処に行くのかな。今日も相変わらず綺麗な笑顔の、遠い国のお姫様。
高3の冬が来た。
無機質な机と椅子の列も、妙に厚手で黒っぽい色をした制服も、毎日を共に過ごす生徒も先生も、さようならの実感は相変わらず全くなかった。
ただあれから進学先は決まった。
親や先生にいろんな資格が取れるから、と勧められたのもあるけど、その学校の就職実績の企業がいろいろな職種で、将来の選択肢が多そうだな、と思ったのが大きい。つまり、あたしはまだ将来に悩んでいるのだ。まだ18歳だもん。悩んでてもいいよね。
親は公務員とか、薬剤師をどう?と言ってくるし先生は先生で公務員はいいぞーなんて言ってくる。けど、さようならの実感もわかないあたしにとって就職なんて、先のまた先の事のような気がしている。
それこそ、10年後くらいの。
卒業式の日が迫ってきていた。
3月31日までは高校生だぞー。と先生は繰り返すけど、それなら何の為に卒業式ってするのかな。なんてあたしは考えながら授業を受けていたりする。
もういっそ3月31日に卒業式してくれたらいいのに。
あたしが色々考えていても時間は過ぎる。
風が冬の冷たさを少し忘れた頃、あたしは電車に乗っていた。春から通う専門学校の事前説明会に向かうのだ。
高校は家からの近さで選んだから春からは初めての電車通学だ。
慣れない電車にどきどきしながら切符を握り締めていた。試験とか見学で何度か学校に行ったから、
何度か乗った事があるとは言え、やっぱり電車はまだ慣れない。
これから毎日この電車に乗るのか•••。朝はやっぱり混んでるのかな。乗り間違えたりしないかな。あっ、通学定期買わなきゃだ。
緊張し過ぎて外を見ている余裕がない。
降りる駅までは意外とすぐだった。ドアが開くと一斉に人が降りていく。遅れないようにあたしもあわてて降りた。
着いた駅は大きい駅なだけあって人がたくさんいて、それぞれがそれぞれの行き先に向かって歩いている。
えっと、改札ってどっちかな。きょろきょろしていると、遠くに彼女の姿が見えた、ような気がした。人混みに紛れてすぐに見失ったけれど。
いやいや。そんなわけないよね。いくら大きい駅とはいえ会うわけがない。彼女の事ばっかり考えてるからそんな風に見えたんだ。
気を取り直して人混みにまぎれて改札を目指した。
駅から学校が近いと迷子にならなくて助かる。実はそれも決め手のひとつだったりする。あたしと同じく春からこの学校に通う子たちと、在学生と、案内する先生とで玄関は混み合っていた。
えーと、新入生は講堂に•••。
講堂には既に多くの人が集まっていた。コースを問わず新入生が全員、今日ここに集まるとはいえ、こんなに多いのかと少し驚く。高校の同じ学年の子より、人数が多いんじゃないかと感じる。
席は自由だそうなので人のあまりいない真ん中あたりの席に座る。ななめ上から見下ろしたそこは何か特別な舞台のように感じた。
どの席からも見えやすい位置なのだろう、少し高い所にある時計を見ると始まる時間までまだ少しある。
友達同士で来ているのであろう子達はがやがやとしている。がやがやとしている、と感じる程度には友達同士で同じ学校に入学する子達が多いのだろう。寂しくなんか、ない。皆それぞれ自分の将来を真剣に考えたんだ。それがたまたま同じ学校か違う学校か、なだけで。騒がしい子達だって真剣なはずだ。
「隣、よろしいですか?」
鈴を転がすような綺麗な声がした。
席は他にもたくさん空いているのに何故わざわざ隣に?
しかし断る理由もないのでどうぞ、と言おうとして声の方向を見て、出かかった言葉は言葉にならなかった。
彼女がいた。高校生活3年間ただの一言も言葉を交わした事のなかった彼女がいた。
口を開けたまま固まっているあたしを見て少し首を傾げ
「お連れの方がいらっしゃるのでしたら」
とか言い出したのであたしは慌てて
「いえ!いません!ひとりです!どうぞ!」
と何故か全力でひとりで来た事をアピールしてしまった。
美人な人は椅子に座る仕草だけで美しい。なんて見惚れている場合じゃなかった。えっ、なんでここにいるの?
あたしの動揺が伝わったのか彼女はあたしを見ると微笑んだ。
「同じ高校からこの学校に進学する方がいらっしゃるとは聞いていましたが、知っている方で嬉しいです」
あたしは初耳です。えっと、今何て言った?嬉しい?というかあたしの事知ってるの?
「えっと、あたしの事•••」
「3年間も見つめられ続けましたもの。よく存じ上げてます」
ばればれだった。ばれてないつもりだったんだけど。
「最初はどうしてそんなに見られているのかわからなくて悩んだりしたのです。何か私が変な事をしているだろうか。おかしい事をしているだろうかと。でもそのうちに、少なくとも敵意があるわけではないのだろうと思えるようになりました」
しまったと思った時には心の声がそのまま出ていた。
「えっ、なんで?」
にっこり微笑んでスルーされた。お姫様はスルースキルも持ち合わせておられるらしい。
「それから私はあなたを意識、というと少し変かもしれませんが意識するようになりました。あなたばかり私を見ていると思っていましたでしょう?私も実はあなたの事を見ていたのですよ」
あなた程ではありませんが。
そう彼女は付け加えると悪戯っ子のように微笑んだ。
「気が付かなかったでしょう?」
「全然気付かなかった•••」
「3年間言葉を交わさない分あなたの事を見ていました。見ていてわかりました。あなたはとても優しくて周りの方を大切になさるのですね」
「いや、そんな事は•••」
ずっと遠い国のお姫様だと思っていた彼女にじつは見ていましたと言われ、何故か褒められ、なにこれ夢?
「これから宜しくお願い致しますね」
微笑んだ彼女は相変わらずとても美しく、まるで言葉通り花が咲いた様だった。
新しい春が来た。
無機質な机と椅子は形を少し変えて並んでいるし黒っぽい制服を野暮ったいと思っていたけど私服で通学する事になったら何を着るか毎日てんやわんや!授業も多いし就職の話は更に聞く機会が増えた。
でも、お姫様だと思っていた子と迎える新しい春も、案外悪くない。