第6章 17.メリダの叫び
アルテグラ過去回想編5話目です。
ゆっくりと視線を下に傾けると…
「おじさま…帰ってしまうんですか…?」
クラリスがアルテグラの腰にしがみ付き、うるうると瞳を潤ませながら、いじらしい上目遣いで彼を見つめている。
厳つく怖そうな風貌ながらも彼女に見せた優しい笑顔、そして初めて見る自分の父親以外の大人の男という子供らしい好奇心もあったのだろう…、未知の物体を見るように興味本位でアルテグラを見つめていた少女は、いつの間にか彼に心を許し親しみを覚えるまでになっていた。
思わず後ろ髪を引かれるクラリスの無垢な瞳に見つめられて…、さすがの彼も気負いが抜けたようにその場に止まらざるを得なかった。
「はははは…、どうだい?、娘もこう言っていることだし…。せっかくの機会だ…昔の思い出話にでも耽ようじゃないか」
「う…うむ……」
アルテグラが渋々返事をすると、奥の方からさっさっ…と控えめな足音が近づいて来た。
「あらあら…、賑やかなこと。お客様なんて初めてね」
そこに現れたのは、胸下まで伸びたくすんだ金髪を靡かせた、おっとりとして品の良い顔立ちの純朴な佇まいの女性だった。
年齢はメリダよりも十数歳は年下に見える。
「紹介するよ、アルテグラ君。これが僕の妻だ」
「はじめまして、妻のリスモと申します」
「……アルテグラ・ディーノ……センチュリオンと申す…。この度はご厄介をおかけして誠に申し訳なない…」
「いいえ…そんなことはお気になさらず…。お体も良くなられたようで良かったですわ…」
メリダの妻リスモは、嫌な顔一つせず我が事のようにアルテグラを懇ろに気遣う。
「その…貴女もジオスの人間であるならば、私の名前ぐらい聞いたことはあるだろう…。何も思わないのか…?」
リスモの清らかな笑顔を見て、アルテグラは思案顔でそう尋ねた。
「ええ、もちろん存じております…。確かに、あの人があなた様をここに連れて来た時、最初はとても戸惑いました…。それでも、あの人が信じた人ですもの…、悪い人のわけがないとすぐに確信出来ましたわ」
「そうか…、それほどまでにあやつのことを信頼しているのだな…」
「はい。それに無礼を承知で申し上げますが…、あなた様ほどのお方が、こうして私たちのことを理解してくださるのなら…、きっと未来は悪いようにはならない、私たちが世界の片隅に身を潜めなくても生きていける…、そんな世の中がいつか来るのではないかと…そう思うんです…」
リスモが純真な眼差しで語った、自分たちの未来への願いを聞いて…、アルテグラは良心の呵責に苛まれるように酷く心を痛めた。
「さあさあ、辛気臭い話はもう止めよう。丸2日間何も食べてないんだ、腹も減っているだろう?、夕食にしよう」
メリダが二人の話に割り込むようにして、場を仕切り出す。
「ええ、そうね、あなた。あの…お食事、食べれそうですか…?」
「ああ、かたじけない…、いただこう…」
そして、アルテグラとメリダ親子の四人はテーブルを囲んだ。
「ではいただこう…、畏れ多き神の賜物、頂戴致します」
アルテグラを除くメリダたち家族三人は、口を揃えて食前の祈りを捧げる。
「そうか…、信仰する神が異なると、食前の祈りの言葉すらも違うのだな…」
「そんなこと気にする必要なんてないさ。どの神を信仰してようと、神々からの恵はこうやって皆に平等にもたらされる…。信仰する神を巡って争うなど、人間の愚かさの体現に過ぎないよ」
「そうか…、では俺もいただこうとするか…。神の恩寵と慈愛に感謝を捧げ、いただきます…」
こうして四人は、リスモお手製のフォークの郷土料理である、香辛料が程良く効いたフォークシチューに舌鼓を打った。
「美味い…! 初めて食べたがこれは美味だな…」
「そうだろ?、これに限らずリスモの作る料理はどれも絶品だからね」
「ふふふ…、今日のシチューはクラリスも手伝ってくれたのよ」
「うん!、わたし、お野菜とか洗ったよ!」
「そうか…、それは偉いな…。いい子だ…」
アルテグラが優しくクラリスの頭を撫でると、彼女は「えへへ…」と少し気恥ずかしそうに頬を緩ませた。
食後、クラリスは愛用のエプロンドレスを着用して、楽しそうに鼻歌を歌いながら、リスモの後片付けの手伝いをしている。
その様子を微笑ましく横目で見つつ、アルテグラはハッと思い出したようにメリダに尋ねた。
「そういえば、ここは一体どこなんだ? 俺はそこまで、森の奥深くには入り込んでいないはずなんだが…」
「確かにそうだね。ここはそこまで奥行った場所じゃない。自給自足している僕らといえども、換金や日用品の買い出しには集落へ行かざるを得ないからね…、あんまり山奥だと生活が出来ないよ」
「しかし俺は、急な豪雨を凌ぐために少し森に入っただけなのに、迷宮に入り込んだように周囲四方がわからなくなってしまったのだ…。あれは一体……」
「ああ、あれは僕がこの家近辺に仕掛けた迷彩結界だよ。光を屈折させて偽の光景を見せることで、人の視界を撹乱させる術だ。すまないな…まさか君が引っかかるとは……」
あっけらかんと真相を話すメリダを見て、アルテグラは一瞬唖然とするが、すぐに負けを認めたように苦々しく左口角を上げた。
「なるほどな…、またお前にしてやられたわけだ…。まあでも、それでお前とこうやって再会出来たわけだから良しとしよう…。ところで、さっき『買い出しに集落へ行く』と言っていたが…、大丈夫なのか?」
「全く『大丈夫』ではないかな…。それでも、僕がこの森で仕留めた動物の肉や魚を集落に持って行って卸さないと、お金が稼げないからね…。集落にはリスモに行ってもらっているよ」
「クラリス…あの子はいつもどうしてるんだ? ずっとこの家にいるのか?」
「ああ、今のところは外に出すと、どんな危険が待ち受けてるかわからないからね。もちろん、ずっとここに閉じ込めておくわけにもいかない。いつかは外の世界へ出て、ちゃんと独り立ち出来るように勉学はしっかりと教えている。勉学が出来れば、食うに困らないだろうしね…。それにあの子がここを巣立つ日が来た時に渡せるよう、僅かだけどお金も貯めているよ」
「勉学か…。それも結構だが、魔術は教えないのか? お前の血を引いているのだ、魔導士として大成するとは思わないか!」
言葉が徐々に熱を持つように、アルテグラの口調が生き生きと抑揚を帯びていく。
「……そうかもしれないが…、それはさせたくないな…」
「何故だ!?、せっかくの才能を無駄にするつもりかっ!」
メリダの予期せぬ答えに、アルテグラは我を忘れる勢いで彼に食らい付くが…
「魔術が使いこなせたところで、幸せになれるとは限らないからさ…。まさに僕らがそうだったじゃないか…! 優れた魔素を持っている、ただそれだけで殺されて…故郷を奪われ…それでもなお追われて殺され続ける…、クラリスにそんな悲惨な運命を背負わせたくないんだよっ!」
これまで、常に温和な顔で飄々としていたメリダが、ここぞとばかりに感情を露わにした。
「すまなかった…、お前の気も知らないで…。そうだな…、お前の言う通りだ…」
「いや…僕の方こそ取り乱してしまってすまない…。決して君を責めたわけじゃないんだ…」
すると…
「お父さん…どうしたの…? 怒ってるの…?悲しいの…?」
子どもながらに、これはただ事ではないと感付いたのだろう…、手伝いを終えたクラリスがメリダの怒声を聞き付けてやって来た。
彼女の、父を心配する不安げなを顔見て、彼はやり場に困ったように苦笑いを浮かべる。
「何でもないよ。心配させてごめんな…」
メリダはクラリスの滑らかで柔らかな両頬にそっと手を当てた。
「変なお父さん…」
彼女はスッキリしない様子で一言漏らすも、幸せそうに表情を緩めて、両手から伝わる父の温かみに感じ入っていた。
「クラリス、お手伝いありがとうね。ご褒美にまた髪を梳いてあげるわ。久しぶりにご本も読んであげるから、さあ、こっちにいらっしゃい…」
「うんっ!、わたし、お母さんに髪やってもらうの大好き!、人魚のお姫様のお話読んで〜!」
リスモがアルテグラとメリダとの間のただならぬ空気を察して、クラリスを二人の前から遠ざける。
そして当のクラリスは、そんな大人たちの複雑な心中など理解出来るわけもなく、ただ無邪気に愛らしくはしゃいでいた。
デール族随一の魔導士メリダの血を引く娘クラリス…、この事実は無類の魔術狂であるアルテグラの興味を大いに刺激した。
まだ未発達で全く使い物にはならないが、それでも彼女の持つ潜在的な魔素は、宝石の原石のように粗雑ながらも輝きを放っていた。
彼女を魔導士として一から育て上げれば、将来どれほどの大魔導士として成長してくれるのか…、アルテグラは没入するように妄想に駆られた。
しかし…、メリダが激情を露わにしてまで打ち明けた心の内…、彼の娘に対する切実な想い…、両親の惜しみもない愛情を受けて、幸せそうに微笑むクラリスの姿…、アルテグラは自身が彼女の人生に関われず、そして関わる資格もないことを痛烈に思い知らされた。




