第6章 8.決着
アリアは審査委員に対し、淡々と平明に提言する。
「まだ双方から負けを認める意思表示がない以上、ここでの介入は尚早かと思われます。それに恐らく彼女は…」
「『彼女は…』、何だね?」
「いえ…、ただもう少し状況を見てはいかがでしょうか? 全ての責任は私が負います」
「うむ…、ピレーロ部隊長がそこまで言うのなら…」
アリアが全ての責任を負うという条件で、彼女の申し出は受け入れられた。
ところが、当のブリッドとマリンはその決定に全く納得が出来なかった。
「ピレーロ様、一体どういうおつもりですか!?、あなたはあの男のことを何もわかっちゃいないっ!」
ブリッドがアリアに対して突っかかる勢いで食い下がるが…
「確かにアタシはあの男のことは何も知らない…。でもな、あいつ…クラリスのことならお前らよりも人一倍わかっているつもりだぜ?」
アリアは憤りで冷静さを失ったブリッドを宥めるように諭そうとする。
「どういうことですか…?」
「試合前にあいつの目を見たんだ…、トテムの前の試合で奴の強さと残忍さをこれでもかってぐらいに見せ付けられたにも関わらず、何者にも屈しようとしないどっしりと据わった瞳をしていたよ…。お前らにはまだ頼りない子供に見えるかもしれないが、あいつの心の強さをアタシは誰よりも知っている。あいつのことを応援してくれるのなら…、あいつのことを信じてやっちゃあくれないか…?」
鬱々たる表情を浮かべつつも、心を掴んで掛かるような強く真っすぐな眼差しでブリッドとマリンを見つめるアリア。
「わかりました…、私たちも…あの子を信じてみます…」
未だに到底納得は出来ない…。
それでもアリアの心の内を聞いて、クラリスを信じてみたい想いが僅かに芽生えたマリンは訝る気持ちを飲み込むように返事をした。
ブリッドもそれに呼応するように小さく頷く。
(信じてるぞ…クラリス……)
そしてアリアは、冷や汗で濡れた拳を強く握りしめてクラリスの無事と勝利を祈った。
一方のクラリスとトテム。
「ふはははっ!、奴隷らしい良い鳴き声だぞ、クラリス!」
嗜虐の快楽に完全に支配されたトテムを、クラリスはキッと悲憤の眼光で睨み付ける。
「良い目をしてるじゃないか…クラリス…。そうだ、そうでなくては面白くない…」
トテムは邪悪な笑みを浮かべながら膝を曲げてクラリスの髪を鷲掴みにすると、彼女の薄汚れた顔を自身の顔元に引き寄せた。
「この際だ…奴隷のお前にもわかるように教えてやろう…。僕は物心ついた時から、この王国一…、いやクアンペンロード一の魔導士一族であるセンチュリオン家の次期当主となるべく、厳しく育てられて来た。そして、僕は生まれながらにして素晴らしい才能を授かった。これは当家の次期当主として、当家をさらに発展させ、未来永劫その名を全世界に轟かせよという神の思し召しに違いない…。 そのためにも、落ちこぼれで役に立たない愚弟どもを躾け、当家の発展を阻害する存在は全て駆逐する…。そして父上…あの男を超えねばならんのだ! この額の傷に賭けてなあっ!!!」
トテムはもはや臆面もなく父アルテグラへの偏執した感情を、目の前の苦悶の表情を浮かべるクラリスの顔面に向けて、唾を吐き飛ばすように吐露した。
すると…、彼女の澄んだ瞳からはツゥ…と一筋の涙が流れ星のように流れ落ちた。
「どうした?、まさか泣いて僕に許しを乞うのか…? 卑しい奴隷らしい無様な姿だな………」
トテムはクラリスの涙を見て、恍惚するように厭わしく言葉を吐くが…、次に出た彼女の言葉がそれを途中で遮る。
「……あなたは間違っている…。そんなことで…この家を良く出来る…わけがない…。あなたの兄弟は…あなたの道具なんかじゃない……。それに…どうして…親子同士で争わなくちゃならないの…? そんなの…悲しすぎる……」
そう振り絞るようにトテムに言葉を投げかけたクラリスの目は、先程まで彼を睨み付けていた怒りに満ちたものとは打って変わり、慈しみすら感じさせる憐憫に満ちた目だった。
その目がよほど気に食わなかったのだろう…、苦々しく顔をしかめたトテムは何も言葉を発さず、持ち上げていたクラリスの頭部を強く地面に叩き付ける。
体勢を整えたトテムは右手をクラリスに翳し、抑揚なく言い放った。
「周りが騒がしくなって来ている…、お遊びはこれまでだ…。今、楽にしてやろう…」
これまでの病的とも言える邪気に駆られた悪相とは打って変わり、血が冷めたように表情を失ったトテムは勝負を決めるための術を放とうとした…、その時だった!
「引っかかりましたね…お兄様…」
「何だと…」
クラリスが突如、感情を押し殺した低い声で囁やくように放った言葉にトテムは思わず反応するが…、次の瞬間、彼女から急激な魔素の昂揚が感知された。
その刹那、彼女はギッと歯を食いしばり、その大きな瞳を覚醒したかの如くカッと見開く。
(な、何だ…、何が起きようとしている…!?)
直感的に身の危険を感じたトテムは、咄嗟に身構えるも……
ドゴォッ!!!
「うがっ…!!!」
間髪入れずに、クラリスのドレスの長い裾から華奢な脚が弾丸のように飛び出て、トテムの腹部を壮烈に蹴り上げた!
トテムの目にも見えなかった激甚な一撃をもろに受けて、彼は嘔吐物を撒き散らしながらそのまま数メートル吹き飛び、胴体ごと石畳の地面に叩き付けられる。
「お、おい…!、一体何が起きたんだ…!?」
突然、光の靄の中からトテムの体が吹っ飛んで…、場内は騒然となった。
彼を蹴り上げたクラリスは、まだ何とか動く左手で体を起こし立ち上がると、疾風のように彼の元へと駆けた。
「ううう……」
自分の身に一体何が起きたのか…、地面に激しく衝突して意識が朦朧としたトテムが目を開いて真上を見ると……
「はぁ…はぁ……」
そこには…、トテムの耳にその吐息が届きそうなほどの重く荒い息遣いで、潰された右手の代わりに発光した左手を彼に向けて翳すクラリスの姿があった。
その姿を見てトテムは得も言われぬ恐怖に慄くが、彼が恐れたのは術を放とうとしている彼女の左手ではなかった。
実際、術の威力が大幅に抑制されている今の状態ならば、利き手でない左手で放たれた術をもろに受けたところで、勝敗を決するほどのダメージにはならないだろう。
トテムが恐れたのは……不動の正眼で彼を見下ろすクラリスの瞳だった。
水明の如く光を彩る大粒なクラリスの青い瞳…、そこにまるで赤い稲妻が落ちるように鮮明な血走りが映っている。
怒り、憎しみ、悲しみ、虚しさ、哀れみ…、それらの感情が全て体現された彼女の悍ましい瞳に、トテムは全神経が凍り付くような根源的恐怖を覚えたのだ。
(な…何なんだ、この禍々しい目は…、こいつは…一体……!?)
そして…
「ま…参った……」
決してトテムの意思ではなく、まるで本能が言わしめたように…、彼は力なく自身の敗北を認めた。
「しょ…勝者、クラリス・ディーノ・センチュリオンッ!」
「お、おい、すげえぞ…!、あの子トテムの奴に勝っちまいやがった…!」
審査委員の判定の声が一帯に轟くと、コートを取り囲んでいた観衆からは割れんばかりの大歓声が起きる。
王族専用のテラスで見物していた王族と思われる人物は、勝負を最後まで見届けて退席していった。
しかし、当のクラリスにはそのような外部の喧騒は全く耳に届かない。
彼女はただ、未練のない…曇りなき安らかな表情を浮かべて、コートの中央に気高く佇んでいた。
どうということもなく吹いた微風が、薄汚れてしまったドレスの裾と白金色の髪を、クラリスの勝利に添えるように優しく靡かせた。
「ありがとう…お姉様…」
生気が抜け切った弱々しい声で…、それでも充足感に満ちたように一言そう呟いて…、クラリスはそのまま気を失って、その場で眠るように倒れ込んだ。




