第25章 10. “王” 同士の語らい
さて、早くも賑やかな一行に対し、“真打” であるレイチェルはまだ外にいた。
皆が乗る軍船の前で、誰かと会話をしている様子だ。
その相手とは、目を覆うほどの厚く長い眉毛を貯えた一人の老紳士…。
そう、あの元 “ジオスの海の王” ことフューリーである。
だが以前アスターとやり合った時のような、内から醸し出る慄然とした佇まいは微塵も感じられない。
脚部は軽く震え、背筋も弱々しく曲がっている。
「療養中にもかかわらず、我々の見送りにお越しいただき申し訳ありません、フューリー殿…。船舶の供出にも甚く感謝します」
「いやいや…、気分転換がてらの…ただの散歩に過ぎませぬ……。海も見えない…陰気な病室に閉じこもっていては…気も滅入ってしまう故……。そして…感謝しなくてはならないのは…我々の方です…。海賊に過ぎなかった…我々への温情……なんと御礼を申し上げたらよいか……。おかげで…まだ将来がある……私の若い者たちは…、外道に堕ちることなく…真っ当な人生を…取り戻すことが出来ました……」
所々途切れさせながら、フューリーは重苦しそうに言葉を紡ぐ。
彼は数週間前より慢性的に抱えていた持病が急悪化…、最早余命残り僅かとなっていた。
それでも介添人どころか杖すらもなしで、己の脚だけで立ち続けようとするフューリー。
その気概に、かつて “海の王” と呼ばれた彼なりの矜持がまざまざと表れている。
「そうですか…それは何よりです…。ところで聞いた話ですが、あなたはクラリスと以前面識があったとか…。あの子にお会いにはならないのですか?」
「はい……、私は…あの子のような純真な子供たちが…無邪気に笑っていられる……そんな世の中がいつか訪れることを…想望しておりました……。しかし……あの子たちは…自ら戦場に赴くという……。無論…それがあの子たちの背負う宿命であるというのなら……、その運命に憤慨こそすれ…、否定するなど出来ませぬ……。ただ…かような未練を捨て切れない私が…あの子たちに会ったところで……、苦渋の思いで決めたのであろう覚悟を…却って揺るがしてしまうのではないかと…思いましてな……」
「なるほど……、かつてはジオスの海の王と恐れられし男も、子供たちを切に想う一人の慈愛深き人間に過ぎなかったということですね…」
「ふっ……あなた様こそ……、冷徹な “鉄の王女” の割には……随分と慈しみに溢れた…麗しい御顔をされてますな……」
洒脱な物言いで、互いを皮肉りつつ労わり合うレイチェルとフューリーだった。
「さて…、そろそろ時間ですね。繰り返しになりますが、あなたの多大なるご協力、深く御礼を申します。せめてお身体をご自愛ください。それでは」
フューリーとの語らいを切り上げて、いよいよ自身も船に乗り込もうとするレイチェル。
ところが…
「お待ちください……レイチェル様……」
酷く掠れた声を振り絞って、フューリーはレイチェルの背中を引き留めた。
「何でしょう…?」
「私は…もう間も無く天に…召される……。あなた様方が…無事この地に…凱旋された時には……、すでに私は…この世にはいないでしょう……。故に……御無礼を承知で……私が生きた証跡を…あなた様に授けたく……」
「『生きた証跡』…ですか…?」
面妖そうに表情をやや歪ませるレイチェルだが、言われるがままにフューリーの元へと戻った。
すると…
ドンッ……
なんとフューリー…、突然レイチェルの胸元をその拳で小突いた。
(………ッツ!?、心の臓がズシンと重く揺さぶられた……。この衰弱した老体からとは思えない力もさることながら、打たれた衝撃が全て核に伝わって来るような…そんな未知の感覚……。これが…ジオスの海の王と恐れられし者の本領かっ……)
86年間…、フューリーがその身一つで築き上げて来た海の王としての貫禄を、その華奢な体で全て受け切ったレイチェル。
その “世界” は、彼女自身をちっぽけな存在だと自嘲せしめるほどに高遠で混沌としていた。
そして、心が震盪して言葉が纏まらないレイチェルに対し、フューリーは言った。
「俺の屍を越えて行け」
その声は、先ほどと同一人物のものとは到底思えないほどに、芯が太く生気に満ちていた。
「はいっ…、先人たるあなたの御意志…、頂戴致します!」
相も変わらずフューリーの目は重厚な眉毛に覆われており、外見からは表情の変化を窺い知ることは出来ない。
だがレイチェルの心の目には、最後の精彩を放つ彼の瞳が確と見えていたのだった。
…………………………
それから翌日…、海も見えない静かな病室で、ジオスの海の王のことフューリーは86歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。
生前の彼の遺言通り、その遺体は顎髭の男たち一同によって、“故郷” である大海原へと舟葬された。




