第1章 4.生きるための契約
こうして、3ヶ月ほど経ったある日のことだった。
いつものように、私たちは販売用の檻に入れられ、衆人の興味本位の目に晒されている。
この間に、ジェミスを含め10人ほどの少女が買い手が付いて去って行き、また2人の少女が病気でひどく衰弱したため、檻から連れ出された。
病気で連れ出された少女たちの末路は、言うに及ばない。
そして、いなくなった少女の穴を埋めるように、新たに数人の少女が檻に入れられた。
新たに連れて来られた少女がどんな子かなんぞ、もはや私には全く関心がなかった。
きっと、私が初めてここに連れて来られた時、他の少女が私を見る目もそんな感じだったのだろう…。
ジェミスが特別だっただけだ。
この過酷な環境に順応したとはいえ、未だに私たちに向けられる、不特定多数の人間の蔑視の目を直視することはできず、その日も私はずっと俯いていた。
すると、格子越しの私のすぐ目の前に、一人の男が比較的長い時間立ち止まっていることに気が付いた。
怖くて顔は上げられないが、私の視界に映るその男の下半身を見る限り、靴はピカピカに磨かれた高級そうな革靴、そしてズボンは上質そうな生地製でシワがしっかりと伸ばされており、裕福で清潔な印象を与える佇まいだった。
私たちを面白半分に見に来る人間は、服装がみすぼらしい庶民がほとんどのため、この男の風貌は一層際立つ。
すると、手下の一人がその男に声を掛けた。
「お客さん、その子がお気に入りっすか?」
『その子』とはどうやら私のことらしい…、その男はずっと私を品定めしていたようだ。
「この娘は、どこから連れて来られたのだ?」
男は手下にそう尋ねた。
初めて聞くその声は、幼い私でも感じられるほどの威厳を保ち、一言一言が重みに満ちているようだった。
「さあね、この子が森の中で彷徨っていたところを、ウチの店主が拾って来たんでさ。どうやら記憶喪失みたいなんですわ」
「この娘はここで売られて、如何ほどの月日が経つ?」
「かれこれ3ヶ月ぐらいですかねえ…。実のところ、こんなに見た目は可愛らしいのに、記憶喪失なのが欠点で、中々売れてくれないんですわ。いい加減そろそろ売れないと、ウチらも別のルートに回さざるを得ないんでねえ…。どうです?、旦那、この子のためにも。少しはお安く出来ますよ!」
手下はよっぽど私をこの男に売りたいのか、精一杯のおべっかを使って男に擦り寄る。
「……わかった。主人に会わせてもらおう」
「へへへ…ではこちらに」
男は手下に案内されて奥へ向かい、主人であるあの中年の男と商談を交わしているようだ。
ほんの数分経ったぐらいか、主人と男が私の元にやって来た。
「おい、出ろ」
檻の鍵を開けて、私を外に引っ張り出した。
そして、嵌められていた手枷足枷と首輪が外された。
常に枷と首輪を嵌められていたので、その跡がくっきり残っていた。
そうか…私はこの男の元に売られるのか……。
これから私の主人となる男の顔を、私は不安と恐怖で見ることが出来ず、ずっと俯いて男の高級そうな靴を見つめている。
「へへへ…、お買い上げありがとうございました」
奴隷商の主人が下衆な笑みを浮かべて、男と連れられて行く私を見送ろうとした時だった。
男が主人に手を差し出し、こう言った。
「この娘が持っていた物があるだろう。それも差し出せ」
その時初めて、私はこれから主人として仕えることになる男の全像を見た。
とても長身で体格も良く、口髭の似合う厳格な顔つき……、年齢は50代ぐらいだろうか…。
履いている靴に劣らず、これまた高級そうなタキシードを召していて、蝶ネクタイがとても似合う。
森の中からここまで、私が見て来た大人の男たちとは、全く別世界の住人であるかのような風貌だった。
奴隷商の主人は一瞬たじろぐ、いや、とぼけようとしたのか…。
しかし男の鋭い眼光の前に、主人は蛇に睨まれた蛙のような有様で、観念して私から奪い取ったペンダントを男に渡した。
ペンダントを受け取ると、男は私の手を強引に引っ張って、さらに人通りの少ない路地裏に連れて行った。
幼く、ただでさえ劣悪な環境下で衰弱していた私は、男の歩幅に合わせることが出来ず、裸足のままで、半ば引きずられて行くように歩いた。
適当な場所で男は立ち止まると、そのはるか高い位置から、あの奴隷商の主人に向けた鋭い眼光で私を見下ろす。
私は男の顔を直視することができず、目を背けてしまう。
すると、その時だった。
「私の顔を見ろ」
男は落ち着きを醸し出しながらも、冷厳な口調で私を咎めた。
その威圧感と冷徹感に私は恐怖で震え上がってしまったが、主人の命に背くことはできず、恐る恐る顔を上げて男の顔を見た。
「お前は何処から来た? 誰の娘だ?」
男は突如、私に質問をぶつけて来た。
「あっ…あの……」
男への恐怖心と、これまで自由に喋らせてもらえなかったこともあり、思うように言葉が出てこない。
「どうした、私の質問に答えられないのか?」
まごつく私の様子を見て、男は追い討ちをかけるように凄んだ。
「………わ…わかりま…せん……。き…、記憶がないん…です……」
恐怖に慄いて、私は声を振り絞るように答えた。
「本当だな?」
「……はい…」
「なるほど…、嘘は言っていないようだ。あの奴隷商が言っていた、記憶を失っているというのは本当だったか…」
男の物言いはまるで、私の何かを知っているかのようだった。
「まあいい。私がお前の身柄を引き受けた理由を単刀直入に言おう。私の名はアルテグラ・ディーノ・センチュリオン、ジオス王国にて代々続く魔導士の家系の現当主だ。お前は生まれながらにして魔素に恵まれている。恐らく魔術の素質もあるだろう。私の元で魔術を学んで魔導士を志せ。無論、選択の権利はお前自身にある。その気がないのなら、もうお前には用はない。どこにでも自由に行くがよい」
突然、私に突き付けられた選択の自由…。
しかし、これは決して二択などではない。
ここで自由の身になったところで、私には行く当てはない。
また、別の奴隷商に捕まって、同じ目に…いや、下手したらもっと残忍な目に遭わされる恐れもある。
『選択の権利』などと言っているが、生きるために私に残された道は一つしかなかった。
「さあ、どうする? 私はそう気は長くないぞ?」
男が私に選択を迫る。
「……はい……よろしくお願い…します…ご主人…様……」
追い詰められるように…たどたどしい口調で、私は初めてその男を「ご主人様」と呼んだ。
「娘よ、お前の名は何と言う?」
「ク…クラリス…です……」
私がそう答えると、彼は相も変わらず、厳格な佇まいで私を見下ろしているが、心ばかりかその表情からは冷徹さが和らいだ感があった。
そして、彼は突然しゃがみ、目線を私に合わせると、奴隷商から奪い返したペンダントを私の首に掛けてくれた。
こうして私は、右も左もわからないまま、ただ生きるために、このご主人様に付いて行くこととなった。