第4章 5.青い月明かりの下で
船内の皆に無事受け入れられた私は、慌ただしいながらも充実した日々を送っていた。
ところで、船内には余分な客室がなく、私はアリアの部屋で寝泊りをしている。
ベッドは一つしかないので、私は床下にマットを敷いて、毛布とシーツを被って寝ていた。
もちろん、不満なんてない。
勝手に侵入してお世話になっている身で、寝具を貸してもらえるだけでも十分にありがたい。
最初は船の揺れが直に伝わって来る感覚に慣れず、中々寝付けなかったこともあったが、今では昼間の労働の疲れもあってグッスリと眠れるようになった。
しかし、ちょうど航海の日程が後半に差し掛かろうとする頃、私にとって、一つだけ問題が出てきた。
私たちの船は、クアンペンロードのジオスがある東大陸とガノンのある西大陸間を、大洋を横断する形で進航する。
そして、ちょうど今、3ヶ月に一度の月神節に差し掛かろうとしていた。
その原理は未だ解明されていないのだが、淡く青く輝く月が夜空に浮かぶこの日…、それに付随する謎の現象が確認されている。
クアンペンロード中央の大部分を占める、今私たちが進むこの大洋において、気温が大幅に下がるというものだ。
夏場であれば秋の気温になり、秋であれば冬場の気温になる。
それも原因は不明だが、その謎の現象を私は今、身を持て体感している。
ちょうど今、季節は初秋で、昼も夜も1年の上では一番過ごしやすい時期である。
しかし今、この大洋上では初冬同然の寒さだ。
日中はまだ陽の光が眩しく、むしろ少し暑いぐらいだが、夜になると海面に浮かぶ船内は一気に底冷えする。
そのため、このところ連日、私は冷たい床下で毛布に丸まり、歯をカタカタと震わせていた。
さすがにこれでは眠れないので、お願いして毛布を追加で2枚ほど借りたが、それでも暖をとるには不十分だった。
そんなある日の夜…、蹲るように毛布を何重にも纏い、小刻みに震える私を見かねたのか、アリアが私に声を掛けた。
「おい、寒いんだったら、アタシのベッドに入れよ」
「えっ…、でも…そんなの悪いですし…。私はここで十分です…」
「いいんだよ、遠慮するな。それともアタシの親切を受け入れられないって言うのか?」
「す、すいません…、ではお言葉に甘えて……」
アリアに凄まれるように、彼女の申し出を受け入れざるを得なかった私は、徐に立ち上がる。
そして、彼女のベッドに向かおうとしたその時だった。
「その代わりと言っちゃなんだが、アタシの夜のお世話もしてもらうぜ…」
彼女の発言の真意がわからず、一瞬私は頭の中が真っ白になる。
「ど、どういう意味ですか…?」
「どうもこうも、そのままの意味さ。アタシは女もイケる口でな…」
そう言って、アリアはワザとらしく、私に対し厭らしい笑みを浮かべる。
思わぬ彼女の告白に、私は酷く困惑する。
彼女のことだ…、私をからかうつもりで言っている可能性もある。
ただ、彼女のトロンと力が抜けたような目付きを見ると、満更でもないような気もする…。
いずれにせよ、今の私にアリアへの拒否権はない。
彼女が求めるのなら…、私はそれに応じなければならない…。
「わ…私はどうすれば……」
「そうだな…、とりあえず服を脱いでこっちに来いよ…」
着の身着のままで船に忍び込んだ私は、替えの服を持っておらず、アリアのシャツを借りて着ていた。
私たちの身長差は20センチ以上はあり、体格の大きい彼女のシャツは、私にはそれ1枚で十分ワンピース代わりになる。
彼女にそう指示をされ、私は恥ずかしさと一抹の怖さで震えながら、恐る恐るシャツのボタンを外す。
極度の緊張と羞恥で、もはや寒さなど気にならなくなっていた。
俯いたまま唇を嚙みしめて、少し目に涙を浮かべながら、第3ボタンまで外し終えた辺りか…、突然アリアがカラカラとした軽快な笑い声を上げて言葉を発した。
「わはははっ…!バーカ、冗談だよ、ジョーダン」
「ふぇ……?」
思わず素っ頓狂な声を出して、茫然自失になる私を尻目に、彼女は私を弄ぶように言葉を続ける。
「だから冗談だって。本当にお前、反応がウブで面白いよなあ。からかい甲斐があるわ」
恥ずかしさと憤りと安堵感が混ざった、なんとも筆舌に尽くし難い感情に私は飲み込まれ、ついに彼女の前で声を荒げた。
「もうっ!、ふざけるのはいい加減にしてください!」
涙目で顔をムスッとさせ、初めて感情を露わにする私を見ても、彼女は懲りずに冗談混じりで私をからかう。
「まあまあ…そう怒るなって。こんな可愛らしい膨れっ面してると、今度は本当に襲っちまうぞ? 茶番に付き合わせて悪かったよ…。冷えただろ?、さあ入れ」
「はい…」
アリアの言葉を聞いて…、彼女の悪戯に悪意がないことを確信した私は、少々警戒しつつも、彼女に促されるままにベッドに入った。
ベッドの中は、地べたとは打って変わって、とても暖かった。
もちろん、私のものよりも上等な寝具を使用していることもあるが、それだけではない。
人肌の温もりが…アリアの温もりがとても心地よく、体だけではなく心までもが温まっていくようだった。
先程までの彼女に対する警戒心は完全に消え失せ、うっかり、私は彼女の肩に頭を乗せて寄り添っていた。
「ご、ごめんなさい…つい……」
「いいよ、気にすんな…」
彼女は素っ気なくも穏やかな声でそう言って体を横向けにすると、まるで我が子に対するように私の頭を優しく撫でる。
彼女と顔を向き合って…、互いに自然に笑みがこぼれ、心が充足していく感を覚えた。
そのまま会話もなく、暫しの時が経った頃…、アリアが重い口を開くように、私に打ち明けた。
「実はアタシ、お前のこと知ってたんだ…」
「……どういう意味ですか…?」
「フェニス・ゲート・カンタレ…お前の先生な……、ありゃあ、アタシの姉貴だ」
なんと、アリアがカンタレ先生の妹だという。
確かに、初めて彼女を見たとき、風貌と面影が似ているとは思ったが…。
「でも、教名と名字は…?」
「ああ、あの人結婚して他家に嫁いでるからな。それで姉貴から、お前のことはちょくちょく聞いてたんだ。まあ、さすがに生い立ちや過去までは知らなかったけどな…」
「じゃ、じゃあ…、初めて姐さんに会った日のことは……」
「ああ、あれか? 気まぐれに、ちょっとお前のことを試してみたくなっただけだ」
「そ、そんな…ひどい…!」
アリアと初めて会ったあの日、私はどれだけの覚悟を持って、彼女に自身の過去を打ち明けたと思っているのか…。
全く悪びれる様子もなくあっけらかんと告白する彼女に対し、私はベッドからバッと上半身を起こして、憤りを露わにするが…
「元はと言えば、勝手に船に潜り込んだお前が悪いんだろ?」
「うっ……」
それを言われてしまっては、私はぐうの音も出ない…。
「まあ、そうカリカリしなさんなって。ほら冷えちまうぞ、中に入れ」
「…………………………」
私はやや不条理を感じながらも、無言で彼女の指示に従った。
少し間を置いて、アリアは感じ入ったように仰向けのままで私に言葉を掛けた。
「姉貴な…お前のこと言ってたよ…、とても健気で頑張り屋さんで人思いな、芯の強い優しい女の子だって。なるほど…本当にその通りだ…」
私は思わず気恥ずかしくなり、彼女から顔を背けるように横になった。
私のことを散々からかっておきながら、その次には顔が真っ赤になるくらいに私を褒めてくれる…。
本当にこの人はずるい人だと思った。
はっきり言って、私の苦手なタイプの人だ。
そう思いながらも、私は引き寄せられるように再び彼女に寄り添い、温かさに包まれて安らかに眠りについた。
(そういえば、ジェミスも寒さで凍える私をシーツの中に入れてくれたっけ…)
今思えば、身の毛もよだつような不衛生で汚らしいシーツだった。
それでも彼女の温かい体温に触れて、絶望に打ち拉がれていた当時の私は、身も心も安まったものだ。
(ジェミス…、彼の地で、今何をしているんだろう……。お願い…無事でいて…!)
月神節の凍える夜…、私は甲板に出て、街中で見るよりも大きく鮮やかに見える幻想的な青い月に、それを一心に祈った。




