第2章 8.深夜の森にて
北家南家の皆は遠方から来ているので、2日ほど、この屋敷に滞在することになっている。
さて、その日の夜、私が部屋で就寝の準備をしていると、突然ドアがノックされた。
誰かと思ってドアを開けると…、そこには大きい熊のぬいぐるみを抱えた、ネグリジェ姿のフェニーチェが立っていた。
ロール状に巻かれていた髪は梳かれて、癖が付いたまま下ろされている。
彼女の寝室は、別館にある来客用の部屋のはずだが…。
「どうしたの?、フェニーチェちゃん。自分のお部屋は?」
私がそう尋ねると、彼女は庇護欲を唆られる泣きそうな声でこう言った。
「……慣れないお部屋だと怖くて眠れなくて……。お姉様…、ご一緒に寝ていただけませんか…?」
唐突な彼女の懇願に困惑するも、無理に追い返すことが出来なかった私は、彼女を止むなく部屋に入れた。
「えへへ…ネグリジェ姿のお姉様も素敵です…」
部屋の中に入った途端、彼女は笑顔を浮かべ、ケロっと元気になった。
何やら、この子にしてやられた感もあるが、こうやって幸せそうな笑顔を見ると、それも許せてしまう。
「じゃあ、寝ようか」
「はいっ、お姉様」
フェニーチェはといじらしく返事をして、私は部屋の魔導灯の灯を落とした。
ベッドの中で私に身を寄せるフェニーチェ。
「お姉様…、何だかとてもいい匂いがします…」
「そう…。実はね…ここだけの話だけど、私もフェルカお姉様の匂いが大好きなの…。あの人の胸元で、これまで何度も泣いたけど…すごく優しくて温かい心地がしてね……」
「ふふふ…、ならば、わたしたち似た者同士ですね…」
「そうだね…」
睡魔が迎えに来るまで、私たちはそんな他愛のない話をしていたが、私のことを慕ってくれる彼女を意識するにつれて、このままでいいのかという余念が頭を過った。
「ねえ、フェニーチェちゃん…、あなたは何故、私をそんなにも慕ってくれるの?」
「なぜって…、お姉様がとてもお綺麗で優しいからに決まっているじゃないですか…」
「……私のことは気にならないの? 私が本当は何者なのかとか…、どこからやって来たのかとか…。私がこの一族の人間ではないことはわかっているんでしょ…?」
「わたしの大好きなクラリスお姉様は一人しかいません。お姉様の魅力の前には、そんなことどうでもいいです! お姉様が何者であろうと、わたしはお姉様の味方です!」
曇りなき目で私を見つめながらそう語ったフェニーチェを見て…、私は思わず彼女が愛おしくてたまらなくなり、ベッドの中で思いっきり彼女を抱き締めた。
「ああ……、お姉様…そんな大胆な………ふへ…うへへへ……」
温かく柔らかい、ほのかに石鹸のいい香りがする小さな彼女の体を抱いて…、私は眠りに落ちた。
深夜、日付はとうに回った頃…、私は一度目が覚めた。
フェニーチェは、よっぽど良い夢を見ているのか…、恍惚とした笑みを浮かべて熟睡している。
何気なく、窓の外を見てみる。
目の前には庭園と、静寂に包まれた深い森が広がっているだけだ。
夜の森は、1年前、私もリグと毎日のように行っていたが、深夜の森の様相はそれとは一線を画した、独特の不気味さがある。
目が冴えてしまって寝付けなくなった私は、ぼんやりと窓の外を眺めていたのだが…、その時だった。
屋敷から森の方に、人影が走って行くのが見えた。
まさか泥棒!?…、いや、それにしてはやたらと小さい。
リグだろうか…、でも、彼だとしたら、一体何の用が…。
私は気になって居ても立ってもいられず、フェニーチェを起こさないよう静かに、動きやすい格好に着替えて部屋を出た。
屋敷を出て、森の方面へ去って行った人影を追う。
慣れた森とはいえ、静寂に包まれ、時折野生動物の鳴き声が響く、深夜の森の中はとても気味が悪く、思わず身震いがする。
恐る恐る、持って来た魔導灯だけを頼りに、暗闇の中を進む…。
そして、いつもの魔術の修練を行う空き地に出ようとした時だった。
何やら、多種多様な動物の鳴き声が蠢き合っているような音が聞こえる。
大きめの木の陰に隠れて、その様子を伺うと……
確かに、ウサギ、イタチ、リス、狐、鹿…、恐らくこの森に生息しているであろう動物たちが集まっているのだが、その中心にいたのは、なんとターニーだった!
襲われているわけではなさそうだ…、一体何を……?
目の前の状況に困惑しながらも、様子を伺っていたのだが…、しばらくして、私は彼女の行動に驚愕することとなる。
「可哀想…、怪我しているんだね…。今、治してあげるね」
ターニーは傷を負った、蹲っている鹿に優しくそう語りかけ、その鹿の傷口に手を当てる。
すると…、その時彼女の掌が白く発光した。
その白い光は、纏わり付くように傷口を埋め、光が霧散すると鹿の傷口はすっかり消えていた。
鹿は、元気そうに周囲一帯に響くような鳴き声を発して、お礼を言っているのだろうか…彼女の頬を舐めた。
「ふふふ…くすぐったいよ…」
ターニーは、私たちには決して見せることがなかった、純真な笑顔でそう呟いた。
ところで…、そんな彼女の屈託のない表情に驚いたのは確かだが、私が最も驚いたのはそこではなかった。
ターニーの掌から発せられた白い光…、あれは恐らく治癒術だ。
炎、氷、雷、風、水…自然界に存在するあらゆる現象を、術式によって大気中のマナを介して自在に使役する通常の魔術と異なり、治癒術や回復術、能力の一時強化などの補助術は、術者がマナを自ら取り込むことで成り立つ。
魔導研究者が唱える最先端の魔導理論によると、マナ自体には時間軸を乱す作用があるらしい。
通常、マナ自体は人々の営みに影響しないので、その作用が日常生活において問題となることはない。
しかし、魔導士がマナを取り込み、恣意的に魔術として使うことで、普遍的な時間軸とは異なるそれを瞬間的局所的に現出させることが出来る。
それを応用したのが治癒術や回復術で、例えば傷口に術を掛けると、その傷口部分にだけ経過速度が極めて早い時間軸が生まれ、瞬時に傷を治すことが出来る。
あるいは、深手を負っている場合は、時間の経過を逆行させることで、傷を負う以前の状態に戻し、実質的な治療が可能となる。
それは通常の魔術とは全く異なる発動過程であり、もはや魔術ではない、神の奇跡とも言えるものだ。
かくいう私も、今年になってから、同じ原理である補助術の会得を目指しているのだが、中々成果が振るわない。
それをこんな小さな女の子が、いとも容易く使いこなしているのだ…、この子は一体……?
それからもターニーは、動物たちと時折会話を交えながら、戯れ合っていた。
とりあえずは、彼女をそのままにしておいても問題はなさそうだ。
彼女のことは気になるが、この場は一旦帰ろう…、そう思って、後退りした次の瞬間…
パキッ!という軽快な音が、私の足下から響いた。
少し太めの枝を踏んでしまったみたいだ。
それでも、そこまで大きな音ではないはずなのだが、ターニーは聴覚まで優れているのか…、私の存在に気付いてしまった。
「な、なに…? そこに誰かいるの……?」
ターニーは怯えた声で、私の方に向かって呼び掛ける。
彼女が気のせいだと諦めるまで、やり過ごす手もあったかもしれない。
でも私は、ターニーの秘密を勝手に覗き込んでおいて、そのまま逃げてしまったら…、今後、彼女に合わす顔がなくなってしまうと思った。
ターニーと打ち解け合うためにも…、私は徐に彼女の前に姿を現した。




