第1章 19.不器用な弟
魔術の修練を始めて、1ヶ月が経とうとしていた。
ようやく、自身の精神世界の中に眠っている魔素を、その目で捉えられるようにはなったものの、未だにそれに触れることは叶わなかった。
あと一歩…あと一歩のところで踏み込めない…、気付くと、それが夢であったかのように現実に引き戻されてしまう…。
あれから体力作りのための基礎運動も毎日欠かさず行い、体重も増えた。
そのためか、以前のような極度の疲労はなくなった。
その日の夜も私は、一人であの場所で、精神を研ぎ澄ませて己の魔素と向き合っていた。
そして、今日も草薮からガサゴソと何かが蠢く音が聞こえる。
無論、私には全く気にもならないことなのだが、その日は何やら様子が違った。
その謎の生き物が、明らかにこちらに向かって来るのだ。
さすがに、私も修練を中断して、草薮に注意を向ける。
屋敷内とはいえ、これほどの大きな森だ…。
この森は城塞外にも続いており、森側に面している城塞の北門はジオス城下の食を支える田園地帯に通じていて、農作物の流入口になっているため、平時はそれほど警備は厳しくない。
そのため、森に生息する野生動物が城塞内に侵入し、市街を我が物顔で暴れ回るという珍事も年数回は起こるらしい。
敷地内といえども、獰猛な動物が一匹二匹潜んでいてもおかしくはないのだ。
一応、護身用のナイフは持って来てはいるが、護身術など一度も学んだことはない。
緊張と恐怖で体が硬直し打ち震えながらも、私は持っていたナイフを構えて、相手を出迎える覚悟を決めた。
そしてついに、それは草薮から姿を現した…のだが……
出て来たのは動物ではなく…人間の男の子……リグだった!
「お、おい、何だよお前……、落ち着けって……! 俺が一体何をしたんだよ〜!」
リグの言葉で我に返ると、私は彼に向けてナイフを構えたままの状態だった。
てっきり獰猛な野獣かと思い込み、極度の緊張状態で気が付かなかったのだ。
すぐに私はナイフをしまい、恥ずかしさと彼への負い目から「ご、ごめんなさい…!」と必死に謝る。
「まったく…何なんだよお前……」
「てっきり、獰猛な動物でもいるのかと思って…つい……」
「この森はウチの敷地内だぜ…、そんなんいるわけないだろ?」
「そうですよね……」
そういえば…、リグとこうやってまともに会話をするのはこれが初めてだ。
フェルカは心は優しい子と言っていたが、私には第一印象が最悪だったのと、それ以降も彼の視線は感じるのに、私が彼に近づくと何故か避けられたり……。
そして、せっかくフェルカと一緒に作った料理をご馳走してあげたのに、ロクにお礼も言わない…。
いずれにせよ、今でもリグには良い印象を持てずにいる。
「でも、何でこの場所に…?」
これまで草薮に潜んでいたのも、きっと全て彼だったのだろう。
その目的と意図が気になって尋ねてみたが、リグから返って来た答えは意外なものだった。
「それはこっちのセリフだ! 俺は今までずっとこの場所で、夜な夜な一人修行してたんだよ。それがお前が来たせいで、できなくなっちゃたじゃねえか…。だからお前が出て行くのを待ってたんだよ」
「そんな…私は気にしないのに……」
「俺が気にするんだよっ!」
「ご、ごめんなさい……」
「だから、いちいち謝んなよ…、めんどくせえなあ…」
年下の、私よりも小さいリグに叱られている気分になって、私は気落ちする。
でも、確かに彼の言う通りだ。
故意ではないとはいえ、私は彼の修行の場を奪ってしまっていたのだから…。
「でも、私が勝手にお邪魔してしまってたわけだし…。私は出て行きます…、迷惑をかけてごめんなさい……」
そう言って、私が立ち去ろうとすると…
「おいっ、ちょっと待ってって!」
リグが静寂を切り裂くような大声で私を引き止める。
「な、何ですか…?」
「……お前、少しでも魔術が上達するために、夜な夜な一人で練習してたんだろ? ……その…まああれだ……、『沈みかかった船』ってやつだ!、俺が練習手伝ってやるよ。この俺がわざわざお前なんかに手を貸してやるんだからな、感謝しろよ!」
彼は何故か得意満面にそう言い放った。
それを言うなら『乗りかかった船』ではないか…?
カンタレ先生も言っていたが、勉学は苦手というのは本当のようだ。
「で、でも…そんなの悪いですし…。ただでさえ、あなたの邪魔をしてしまってるのに…。お気持ちだけいただきます…ありがとう……」
私は丁重に彼の申し出をお断りして、再び立ち去ろうとした。
ところが…
「いいから待てって!」
突然、リグは私の腕をガシッと掴んで引き止めた。
「ちょ…、な、何を…!?」
咄嗟のことに、私は条件反射的に彼の手を振り払う。
彼は恐らく衝動的に手が出てしまったのだろう…、私に手を振り払われて呆然としている。
「な、何なんですかっ!?、一体……」
私は改めて、動揺と不快感を隠し切れないままに、リグを問い質す。
「……気になるんだよ…お前のことが…。何でかわかんないけど…。その…さっきは偉そうなこと言ったり腕掴んだりして悪かったよ……。……練習手伝わせてくれないか…?」
彼は数秒の沈黙の後、俯いて私から視線を逸らし、さっきまでの横柄な態度が嘘のように、しおらしく答えた。
「……わかりました…。よろしくお願いします……」
彼の打って変わった真摯な態度に押されて…、私は不信感が拭い切れないものの、彼の申し出を受け入れることにした。
すると、彼は呆れ顔で私に言う。
「あのさあ…お前その言葉遣い何とかならないの? そんな敬語でよそよそしく話されたんじゃ、むず痒くてしょうがねえや…。大体、お前俺より年上なんだろ?」
「でも…私は……」
「『でも』じゃねえよ。どんな経緯かは知らねえけど、お前はもう俺たちと同じ、この家の子供なんだろ? そんないつまでも卑屈な態度じゃ父上にどやされるぞ。『センチュリオン家の一員としての自覚を持てー!』みたいにさ…」
「ふふふ…」
リグが唐突にご主人様の口真似をして、私は思わず吹き出してしまった。
それに対し、彼はジッと私を見つめている。
「な、何か…?」
「いや…何というか……、お前が自然に笑った姿、間近で見たの初めてだからさ…。お前…笑ってたほうが似合うな…」
彼は私から視線を逸らして、顔を指で掻くような仕草をして、言葉を紡ぐように辿々しくそう言った。
「ありがとう…。あなたって本当は優しいんだね……」
「あったりまえだ! まったく…俺を何だと思ってるんだよ…」
ふてくされる彼の様子を見て、私は何だか微笑ましくて、再びクスクスと笑う。
「まあ…なんだ…その……、よろしくな、クラリス!」
彼は私に笑われたせいか、気恥ずかしそうにぎこちなく右手を差し出した。
「うん……、こちらこそよろしくね、リグくん」
それは、姉として弟に受け入れられたというよりも、一人の友達が出来たような感覚で、私は幸福感で心がじわりじわりと満たされいく。
私は、滑らかで柔らかながら所々にタコが出来た…、努力の跡を感じられる彼の右手をそっと握った。




