第1章 1.絶望の地下室
今から4年前………
意識が目覚めると、私は全く場所も方角も位置もわからない鬱蒼とした森の中にいた。
時間もわからないが、そびえ立つ木々の間からわずかに明かりが差し込むので、まだ日は出ているのだろう。
着ている衣服はシュミーズと簡素な下着だけで、靴すら履いていない。
一方で、そんな粗末な服装とは対照的に、首元には虹色に輝く大粒な宝石のペンダントが掛けられていた。
透明感のある白い肌に、白金色の腰元まで伸びた髪…。
恐らく自分は10歳前後ぐらいの少女なのだろう。
しかし、生を受けてからここに至るまでの記憶が私には全くない。
唯一覚えていること…それは「クラリス」という自身の名前…。
そして、鏡はないのに、自分の顔や風貌は認識することが出来た。
特に怪我をしている様子はないが、やや衰弱気味でひどく喉が渇いている。
そして、まるで深淵に通じているかのような木々の奥の暗部からは、甲高く不気味で不快な何かの鳴き声がうめき合っている。
自分が一体何者なのかという自問の念も起きたが、それ以上に自身の生存本能が強く働いた。
ここにいてはいけない…とにかく動かなければ……。
私はそう決意して、先の見えない鬱蒼とした森の中を歩き始めた。
小さな体で、ただ生き延びるために歩き続ける…。
白い衣服と身体はひどく汚れ、白金色の長い髪はボサボサになった。
しかし、衰弱した未発達の子供の体で、幾程も進めるわけもなく、さらに靴を履いていない足の裏には木々の断片などが刺さり激痛が走る。
しばらくもしない内に、私は薄暗い森の中で倒れ込み、意識が朦朧として来た。
そして、意識が途切れる間際のことだった。
「………ぉい、嬢ちゃん、大丈夫か!?しっかりしろ!」
傍から、中年ぐらいの男が私に呼び掛ける声が聞こえる…。
そして、口内に爽快な冷たい刺激が走り、乾き切っていた喉が潤っていく。
その男が、水筒で私に水を飲ませているようだ。
徘徊している内に運良く、人通りのある街道沿いに接近することが出来たからなのか、私は通りすがりのその男に一命を取り止められた。
男から、少しの食料も与えられ、意識は落ち着いてきた。
男から身元について尋ねられるが、当然のことながら私は答えることができない。
「なんだ嬢ちゃん、お前行く当てがないのか?」
男の質問に、私は不安げながら素直に頷く。
その時、男が一瞬「ニヤリ」と笑みを浮かべたように見えた。
それが、一体何を意味しているのか…、身を以て知ったのは、数時間後のことだった。
「まあ、ほかっとくわけにはいかねえなあ。こんなとこにいても野獣に食い殺されるだけだ。とりあえず、俺と一緒に来い」
それしか選択肢がなかった私は、その男に付いて行くしかなかった。
足の裏を怪我して十分に歩けない私を、男はおぶって森を抜け出た。
そして抜け出た先には、人二人が乗れる程度の、幌付きの荷台が接続された小型の馬車が停められていた。
有無も言わさず、私は荷台に乗せられて、馬車は出発した。
その男は、まるで山賊のような小汚い格好の一方で、首回りや指には高そうな宝飾品を身に付けていた。
この胡散臭い風貌…、彼は一体何者なのか…?
しかし、まだ幼く、しかも記憶もない私には、そんなことを考える能力も余裕もない。
馬車は舗装の悪い街道をガタガタと音を立てて走る。
荷台の中は、幌のせいで外の様子がほとんど見えず、薄暗らく、物が無造作に置かれ、埃臭い匂いがする。
馬車自体も荷台に車輪を取り付けただけの粗末な作りなのだろう…、酷い揺れに耐えながら、私はただただ不安の中で、物のように運ばれる自分の身を案じるしかなかった。
走り出してしばらくすると少しは揺れは治ってきた。
十分に舗装された道に出たようだ。
外からは、人の歩く音や他の馬車が通る音が聞こえる。
そして、次第に外から聞こえる音は、多くの人間の話し声も交わり雑踏へと変わっていく。
市街地に入ったようで、それは幼い私でも何となく察しはついた。
そのまま市街地を走り続けること数十分、雑踏が落ち着いた場所で馬車は停まった。
「おい、着いたぞ。出ろ」
荷台から出ると、もう日は沈み、辺り一帯は薄暗くなっていた。
周囲は4、5階建の、高層の部類に入る建物が多く見られるが、全体的に寂れており、賑わいはあまり感じられない。
男が私用の履物を用意し、私は男の後に付いて痛みを堪えながらよろめいて歩き、外壁が蔦で覆われた一軒のレンガ造りの建物に入った。
建物に入った途端に玄関扉が「バタンッ!」と閉じられ、その音に幼い私はビクッとなる。
不安と後悔と恐怖が私の心を過るが、もう後には戻れない…。
狭い物置のような部屋に案内され、そこで待つように指示される。
時計がないため、どれほどの時間が経ったかはわからないが、体感的には数時間にも感じられた。
そして、男は二人の仲間を引き連れて、部屋に入ってきた。
二人とも同じく小汚い格好をしていたが、高価そうな装飾品は身に付けておらず、歳もかなり若そうなので、その男の手下かと思われる。
「おおー、こいつはなかなかの上玉っすねー」
「ああ、ただ汚ねえから、とりあえずこいつを綺麗にしてくれ」
「了解っす」
指示された若い男に、私は腕を引っ張られる。
抵抗しようにも、幼い身体で力で拮抗できるわけもなく、私は力任せに引きずられた。
声を上げようにも、恐怖で言葉が出ない。
連れて行かれたのは、浴室だった。
「しっかり汚れ落としとけよ」
私を引きずって連れてきた男にそう指示される。
小ゴミや垢らしきものが水面に浮かんだ、お世辞にも清潔とは言えないぬるま湯が入った浴槽で、私は入念に体を洗わせられた。
ここから出たら、次は何をされるかわからない…。
出るのが怖くて、浴室の中で閉じこもっていると…
「おい、いつまで待たせんだ! いい加減にしろ」
待機していた若い男に、私は無理矢理外に連れ出された。
「おっ、何だそれは? 孤児の分際で良いもの身に付けてんじゃねえか」
男が目を付けたのは、浴室でも肌身離さず身に付けていた宝石のペンダント。
もちろん、私はそれが何なのかは知る由もないが、その流れるように移り変わる虹色の輝きは、私に生き残るための気力を与えるものだった。
男は私の首元から、無理矢理ペンダントを奪った。
「あっ…ああ……」
私は呻くように声を発して、必死に手を伸ばして取り返そうとするも、男に頭を押さえ付けられて、為す術がなかった。
風呂から連れ出された私は、身体を覆うための薄汚れたシーツのような布を渡され、全裸にその布を纏っただけの状態で、地下に連れて行かれた。
地下に入ると、声がするわけではないが、何故か人の気配がした。
それも一人二人ではない…、複数人の…。
男たちに連れられて、恐る恐る灯が頼りなく照らす地下通路を進むと、突き当たりの開けた場所に出た。
鼻が曲がるぐらいに強烈な悪臭が漂う。
そこで見たものとは……。
地下空間とは思えないぐらいの広いスペースには、牢屋のような大きい檻が所狭しと置かれていて、その中には私と同じぐらいの歳の子や、それよりもやや年長の少女が十数人監禁されていた。
中の子供たちは、皆、薄汚れた粗末な衣服を身に付けていて、鎖で繋がれた金属製の手枷足枷と首輪を嵌められている。
皆やせ細っていて、目には生気がなく、ただ生き延びている…いや生かされていると言ったほうがいいかもしれない…。
そう、この男たちは奴隷商だったのだ。
当時の幼い私は、そのような商売の存在は知らなかったが、ここが来てはならなかった場所であることだけはすぐにわかった。
後から知った話だが、どうやらあの男は奴隷を輸送中に逃げられ、その逃げた奴隷を追って森に入ったところ、偶然私を見つけたらしい。
「おお、風呂に入れたら見違えるようになったじゃねえか! こいつはいい金になりそうだな」
中年の男が、上機嫌に下衆な笑みを浮かべる。
その汚らしい笑いを見て、私は子供心ながらに戦慄した。
「い…いやっ……」
この屋敷に来て、初めて恐怖で言葉が出た。
「おい、さっさとアレやっちまうぞ」
「ういっす」
男が手下にそう指示を出すと、私は纏っていた布を剥がされて全裸にされ、赤子の手をひねるように組伏せられて、近くにあった縄で後ろ手に縛られた。
そして、置かれていたテーブルの上にうつ伏せに寝かされる。
「いやあぁぁぁー!!!離してっー!」
幼い私は必死で抵抗をする。
「チッ、騒がしいガキだな。おい!、お前こいつの足しっかり押さえてろよ。あとうるせえから口も塞いどけ」
手下の一人が脚部を押さえ、もう一人が私の口に布切れを詰め込む。
「んぐっ…!んっ〜!!」
「よし、やれ!」
「んっー!!!……んぐうぅぅっ……!!!」
臀部に灼熱の何かを押し付けられ、次の瞬間、それは筆舌に尽くし難い激痛となって小さな体中を走った。
無意識のうちに涙が溢れ、失禁をしてしまう。
「うわあ、汚ったねえなあ…このガキ漏らしてやがるぜ、ガハハハッ!」
自分が何者であるかがわからないにも関わらず、人としての尊厳を酷く踏みにじられたことだけは幼心にしてわかった。
臀部に押し付けられた灼熱のものは、大きさ10cm程の「No184」と彫られた焼印……所有を表す奴隷商の焼印だった。
つまり、私はこの時点で、奴隷として全ての自由も人としての尊厳も奪われたのだ。
焼印の痕を冷やされて化膿しないよう処置されたあと、私は他の子供たちと同じようなボロ布ので出来た服を与えられ、手枷と足枷と首輪を嵌められる。
まだ幼い細い腕に、枷と鎖の重量がのしかかり、首筋には、気色の悪いヒヤリとした金属の感触が走る。
さらに…
ピシィッ!ピシィッ!ピシィッ!
「ひぎぃっ…!!!」
訳もわからずに、私は背中に鞭を数発入れられた。
服越しだが、皮膚が吹き裂かれるような鋭く熱い痛みが背中を襲う。
後から知った話では、どうやら新入りに恐怖を植え付けるための、通過儀礼的なものらしい。
こうして、私は檻の中に入れられた。
押された焼印と鞭の痕が酷く痛み、お尻を着いて座ることもままならない。
檻の中には藁編みの粗末な敷物だけが敷かれており、毛布代わりだろうか、所々に虫が湧いてカビ臭さが鼻をつくシーツがあった。
しかし、それすら人数分はなく、新入りの私に行き渡る余地はなさそうだ。
外にいた時は、肌着だけでもそれほど寒さは感じなかったが、石材で覆われた光の当たらないこの地下室は、不気味なぐらいにひんやりとしていて、私は恐怖と寒さで震える。
檻の端には桶が置かれており、そこから一層際立った悪臭が放たれている。
それは便所だった……あの桶に皆排泄をするのだ。
もはや人間に対する扱いではなかった。
少女たちは、誰も話そうともしないし、新入りの私の方を見ようともしない。
不気味な静寂に包まれ、時折ジャラジャラ…という枷を繋ぐ鎖が擦る音だけが、底気味悪く地下室中に微かに響く。
粗末な灯りに照らされた、皆の生気の抜けた表情が、より不安と絶望を煽る。
恐ろしくて泣きたいが、涙はさっき全て出し尽くしてしまった。
この先の自身の身を案じると、あのまま森の中で野垂れ死ぬか、野獣にでも食い殺された方がマシだったのではないかとすら思える。
そんな劣悪な環境下で、一睡も眠ることが出来ない。
しかし、周りの皆はそれが当たり前の日常であるかのように、眠っている。
いつかは私も、こんな風に眠れるようになるのだろうか…。