第1章 17.頭の中の女の子
その後、私たちは市場へ行った。
そこには所狭しと、色とりどりの野菜や果物が、購買意欲をそそるように陳列されていた。
ちなみに、肥沃な平原に恵まれたジオスは農業国でもあり、市場へ行けば、新鮮な農作物が安価で手に入る。
高品質なジオスの農作物は、フェルトにも多量に輸出されている。
ところで、フェルカは入念な目付きで食材を品定めしていた。
「お姉様、何をされているのですか?」
「うん…実は私、お料理をするのが趣味なの。いつもは家に残っている材料を使うのだけど、せっかく街まで来たんだから、自分で食材を選ぼうと思ってね…」
病弱で、普段家に籠もりがちな彼女にとって、料理をすることは、自分が自分らしくいられる、数少ない時間なのだろう。
…………………………
そう思った次の瞬間、あるイメージが私の脳裏に浮かんだ。
それは、とある民家の台所で、可愛らしいエプロンドレスを身に着けた白金色の長い髪の女の子と、その母親と思われるフェルカのような優しい佇まいの女性が、仲睦まじく料理を作っている光景…。
このイメージの情報は全くわからないが、これは私…なのだろうか……。
それと同時に、心の中が何やらとても温かく懐かしく…、そして悲しくて胸が締め付けられるような…、そんな形容しがたい情緒で満たされていく。
「あの…お姉様…、私に…お料理を教えていただけませんか…?」
この幸せな情景への憧憬と郷愁から…、そして、この言いようのない気持ちの正体が知りたくて…、気付けば私はフェルカにそう懇願していた。
私の唐突な申し出に、彼女は一瞬戸惑った様子だったが、すぐに気を取り直して、とても嬉しそうに「もちろんよ!」と快諾した。
屋敷への帰りの馬車の中で、フェルカは突然私に礼を言った。
「今日はありがとうね、クラリスちゃん……」
「そ、そんな…私の方こそ、お姉様に迷惑をかけて、しかもこんな素敵な物まで買っていただいて…。何とお礼を言ったらいいか…」
私が思わず恐縮して答えると、彼女はやや表情を曇らせた。
「ううん…、違うのよ…。私、こんな体だから、普段は屋敷から外に出ることを禁じられててね …。今日はたまたま、あなたのことでお遣いを頼まれたから、そのついでにちょっと街まで行ってみようと思って…。だから、ちょっとクラリスちゃんのことを利用しちゃったの……」
それを聞いた私は、むしろこんな私でも彼女のお役に立てたことに、心なしか気が楽になり、そして嬉しくなった。
「あ、あの…私で良ければいつでもお供させてください…! 何でもお手伝いしますから…」
「……ありがとう…。そうね、また二人で行きましょうね……」
フェルカは感慨深げな面持ちで穏やかに笑って、私の肩を優しく抱き寄せた。
さて、夕方前に屋敷に戻ると、フェルカは休む間もなく料理に取り掛かると言う。
市場で購入した物は、バター、赤ワイン、小麦粉、鳥肉、玉ねぎじゃがいもニンジンなどの野菜、蜂蜜、香辛料が数種…。
「これでフォークシチューを作るわよ!」
彼女は意気揚々に張り切った様子で、私に告げた。
「フォークシチュー…?」
初めて聞く単語に、思わずそう呟いた私に対し、フェルカは流暢に説明を加える。
「その名の通り、元々はフォークの方の郷土料理でね、香辛料とワインと蜂蜜を加えて辛さとコクを出したシチューなの。すごくパンに合って美味しいわよぉ。うちのリグも大好きでね、たまに作ってあげるんだけど、あの子ったらお腹パンパンになるまで食べちゃうんだから…」
彼女は思い出し笑いをするように、本当に楽しそうに語った。
「さあて、クラリスちゃんもやるんだったら、ちゃんと準備をしないとね」
そう言って、フェルカは私用にエプロンを持って来た。
ピンクのフリルがあしらわれたエプロン…、何の偶然か、あの時突如浮かんだ情景の中で、女の子が身に着けていたものとそっくりだった。
エプロンを着用して、長い髪をフェルカにリボンで結んでもらう。
「うん、本当に似合ってるわ。とても可愛いわよ。じゃあ、さっそく始めましょ!」
「はいっ、お姉様!」
彼女の気持ちの高ぶりに呼応するように、私も期待いっぱいで返事をした。
魔導コンロなど、火を使う作業はフェルカが行い、私は野菜を切るなど下準備を担当する。
テキパキと野菜を下ごしらえしていく私を見て、彼女が興味深そうに聞いてきた。
「クラリスちゃん、すごく手際が良いのね…。初心者とは思えないわ…」
「何故だかわからないんです…。もしかしたら、記憶を失う前に何かあったのかも……」
「……そうね…、もしかしたら、昔にあなたがお母様とお料理をしていた経験が、体に根付いているのかもしれないわね…」
彼女のその言葉に、あの情景への郷愁がより強まっていく感を覚えた。
調理は順調に進み、フェルカが作ったルウに私の切った具材を入れ、しばらくスープで煮込む。
とても食欲をそそる芳しい香りが厨房に漂う頃…、彼女が何かに感づいたように、徐に窓のカーテンを閉めた。
「どうされたのですか?、お姉様…」
「うん、ちょっと食いしん坊小僧の影が見えたからね。まったく…あの子ったら…、いつまでも男の子らしくないコソコソしたマネして…」
どうやらリグのことを言っているようだ。
そして、鍋をコトコトと弱火で煮込むこと2時間弱、ついに待ちに待ったフォークシチューが完成した。
芳醇な香りのシチューを皿によそおい、パンと簡単なサラダを添えてテーブルに配膳する。
「では…神の恩寵と慈愛に感謝を捧げ、いただきます」
二人で声を揃えて食前の祈りの捧げる。
ところで…、ガノンにてご主人様に教えてもらった、この祈りの言葉…。
今では、何の違和感もなく、自然に口から出るようになった。
とはいえ、体に染み付いている『畏れ多き神の賜物、頂戴致します』という言葉も、決して忘れることはない。
ご主人様には、それは間違っていると指摘されたが、ならばこの言葉は一体何なのだろう…?
そうこう色々と思いを巡らせながらも、早速シチューを食す。
スプーンを口に入れた瞬間、濃厚なコクと程よい辛みと食材の旨みが口いっぱいに広がる。
とても美味しい……、これなら、リグが夢中になって食べ過ぎるというのも納得だ。
ただこの時、私が感じたのは、単なる味覚だけではなかった。
記憶の上では初めて食べる味のはずなのに、何故だかとても懐かしい心地がするのだ。
それと同時に、突如脳裏に浮かんだ、あの幸福な情景と妙に重なる。
とはいえ、失っていた記憶の断片を見つけるには、遠く及ばない。
何とももどかしく、心がむずむずする。
「どう、クラリスちゃん、美味しいでしょ?」
「はいっ、とっても」
鋭敏なフェルカに心の中の異変を悟られないように…、私は満面の笑みで返事をした。
少し経って…、突然フェルカが部屋のドアの前まで足音を抑えてゆっくりと移動し、バッとドアを引いて開ける。
「うわぁ…!」
リグがよろけて、部屋の中に転がり込んで来た。
どうやら、ドアの外側にずっと張り付いていたみたいだ。
「こんなとこで何をしてるの? さっきから私たちの周りをウロウロして…。コソコソしてないで、用があるならハッキリと言いなさい!」
「い、いや…良い匂いがしたから…。……またシチュー作ってるんだろ? 早く食わせてよ!」
彼は最初こそ、フェルカに叱られてしおらしくしていたが、すぐにケロッと立ち直り、当然の権利を主張かのするように、私たちが作ったシチューを求めた。
「今回は私だけじゃなくて、クラリスちゃんと一緒に作ったの。食べたかったら、この子の許しももらいなさい」
「ええ…そんなぁ……」
そう言ってリグは、困惑気味に私に視線を向けるが、気まずくて、私は思わず視線を逸らしてしまう。
私に頭を下げるのがそんなに嫌なのか…、彼はしばらく強情張って押し黙っていたが、この抗い難い鼻孔を刺激する香りに屈するには、さして時間は掛からなかった。
「あ、あの……食べてもいいですか…?」
不本意さと恥ずかしさを隠せないままに、そう懇願するリグに対し、私は「ど、どうぞ…」と渋々許しを出した。
どれだけ待ち侘びていたのか…、見ている方までお腹一杯になりそうな勢いで美味しそうにシチューに喰らい付く彼を見て、フェルカが少々意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「これからは、私はクラリスちゃんとお料理をするから。私たちの料理が食べたいなら、クラリスちゃんの許可も取ってね」
リグは苦虫を噛み殺したような表情を浮かべながらも、スプーンを持つその手を止めることはなかった。
そして、それから一週間後…、ヌビア教会から屋敷に通達が送られて来た。
その内容は、私をセンチュリオン家の次女として、正式に認めるというものだった。
こうして、未だに父親のことを『ご主人様』と呼び続け、フェルカ以外の兄弟とは打ち解けることも出来ないまま…、私はセンチュリオン本家の次女となり、クラリス・ディーノ・センチュリオンを名乗ることとなった。




