第1章 12.運命に立ち向かう強さ
部屋には使用人を除いたら、私とフェルカだけが残っている。
「さあ、クラリスちゃん、行きましょ! 私、お父様にあなたの案内を任されているの」
そう彼女に促されて、私たちも部屋を後にした。
彼女に付いて歩くこと数分…、私はある部屋に案内された。
その部屋は、可憐で格調ある装飾が施されたベッドにテーブルと椅子…、人一人なら十分に寝れる大きさのソファー…、煌びやかなレースのカーテン…、鏡台、姿見、チェスト、クローゼット、本棚などなど…、何不自由ない設備が備え付けられていた。
さらに、それだけの数の家具が配置されていても、十分にゆとりを感じられるほどに広い。
「ここが、今日からあなたが過ごす部屋よ」
フェルカは唐突に私にそう言った。
「そ、そんな…私なんかがこんな立派な部屋…恐れ多いです……」
私がそう答えたのは、決して謙遜などではない。
元奴隷でご主人様に拾われた身である私なんかが、こんな身分不相応な扱いを受けていいはずがないのだ。
私は、雨露さえ凌げれば、それでいいというのに…。
私の言葉が気に掛かったのか、彼女は訝しげな顔で私に問いかけた。
「なぜ?、あなたは私たちと同じ、もうこの家の子なのよ? どうしてそんなことを言うの…?」
彼女の、私のことを心から慈しむような目には勝てなかった……。
「私は……ガノンで奴隷として売られていたところを、ご主人様に買われて助けられたんです…。それより以前の記憶は全くありません…。自分が何者なのかもすらわからないんです…。ご主人様は私のことを奴隷ではないと言ってくれたけど…、こんな汚らわしい私なんかが、こんな良い扱いを受けちゃダメなんです…。どうか私なんかに優しくしないでください…」
あんなにも振り返りたくない記憶だったのに…、気付けば、私は自身の辛い過去をフェルカに打ち明けていた。
すると…、彼女は無言で、私をギュッと強く抱き締めた。
このとても温かくて優しい…心が満たされ落ち着く感覚……、先ほどいきなり抱き締められた時にも感じたが、何だろう…記憶にはないのに、それが全く未知の感覚には思えなかった。
あの食前の祈りの言葉のように、私の体に染み付いている感覚であるような気がする。
そして、私を抱き締め続けるフェルカは、少し経ってようやく言葉を発した。
「ごめんね……辛いこと聞いちゃって…」
そう言った彼女の目元には涙が溜まっていた。
「私には、あなたがこれまで歩んできた人生がどれだけ過酷なものだったかを、わかってあげることなんてできない…。『もう大丈夫』とかそんな薄っぺらい言葉で、あなたの心の傷が癒えるなんて思ってない…。でもね…クラリスちゃん、私たちのことは信じて欲しいの…。あなたは本当によく頑張った。頑張って…どんだけ踏みにじられても懸命に生き抜いて…、よく私たちの家に来てくれた…。あなたは本当に強い子だわ…、私はあなたを尊敬する。こんなこと言うと烏滸がましく思われるかもしれないけど…、私たちはきっとあなたに新しい世界を見せてあげられると思うの。『私たち』を信じるのがまだ難しいのなら、せめて『私』だけでも信じてもらえないかしら…?」
彼女の言葉一つ一つが私の琴線に触れる…。
「うっうっ……うっ…ううううっ………」
いつの間にか、彼女の言葉に、私は酷く咽び泣いていた。
彼女の問いかけに返事をしたいが、嗚咽で言葉にならないので、私は彼女に伝わるように大きく頷いた。
「ありがとう……」
フェルカはそう一言だけ呟いて、まるで母親のように優しく私の頭を摩った。
どれだけの時が経ったかは定かではないが、やっと私は落ち着きを取り戻した。
「ごめんなさい……、お嬢様にご迷惑をお掛けてしまって……」
私がフェルカに謝ると、彼女は「はぁ…」とため息を吐いて、やや呆れ気味にこう言った。
「あのね…、私たちはもう家族なのよ?、姉妹なのよ? 家族に対して『お嬢様』なんておかしいとは思わない?」
「は、はい……、お姉…さま……」
私が恐る恐る答えると、彼女は私を褒めるみたいに微笑んで、私の頭を撫でた。
「でもね…」
彼女は逆接で何か話を切り出そうとしたが、言葉に詰まった。
そして間を置いて、再び話を続ける。
「この家の子供である以上、お父様のような王国に貢献する大魔導士になることを求められるわ。そのための修練は決して楽な道ではない…。あのお父様も普段はああ見えて優しい方だけど、魔術のことになると人が変わったように厳しくなるの……」
フェルカは、これから先の私のことを心配するかのように、不安げな表情を浮かべる。
でも…私はそれぐらい覚悟して、ご主人様に付いてここまで来たのだ。
何より、一生懸命励んでご主人様の期待に応えて、彼の恩義に報いなければならない。
「大丈夫です…! 私は…ご主人様を信じてここに来たので……!」
フェルカの不安を拭うように、私ははっきりと彼女の目を見つめて答えた。
私の確固たる意志がこもった返答に彼女は安心したのか、その不安げな表情を和らげた。
「そう…本当にあなたは強い子ね…。残念ながら、私はあなたと一緒の道を歩むことはできないの…。でも、その分あなたの助けになるわ。困ったことや悩みがあったら何でも言ってね……」
フェルカに何やら深い事情があることは、彼女の言葉からして、すぐにわかった。
いつもだったらここで察して、これ以上、他人の心にズカズカと立ち入ろうとはしなかっただろう…。
しかし、彼女の佇まいは、そんな躊躇いすら打ち消してくれるだけの包容力があった。
「あ、あの…、お姉様は魔導士を志さないのですか…?」
私は思い切って彼女に聞いた。
「うん…、実はね…私生まれながらにして病弱なの…。生まれてこのかた、ほとんどをこの屋敷内で過ごしてきたわ。外に出るのはたまに庭園内を散歩するぐらい…。だから、魔術の修練には体が耐えられないの…。お父様もそれを理解して私のことを労ってくれているし、リグもあんなぶっきらぼうだけど、なんやかんやで私のことを心配して気にかけてくれてる。お兄様は私のことを快く思っていないみたいだけどね…。でも、そう思われてもしょうがないわよね…、兄弟で私だけ足手まといなんだから…」
初めてフェルカと対面した際、彼女の出で立ちに違和感を覚えたのは、そのせいだったのか…。
「ご、ごめんなさい…! 嫌なことを聞いてしまって……」
私は彼女の包容力に甘えて、無神経に聞いてしまったことを後悔しながら謝ったが、彼女は穏やかな面持ちで首を横に振った。
「そんなことないわ。こんなこと言うと、クラリスちゃんを嫌な気持ちにさせるかもしれないけど、さっきあなたの過去を聞かせてもらった時、私は可哀想というよりもすごいと思ったの…。あなたは過酷な境遇で、様々な苦難を乗り越えて今ここにいる…。自分よりも小さな女の子がそうやって頑張って来たのだもの…、私だって自分の置かれた境遇と戦って、運命を変えなきゃってね……。あなたのおかげで私は勇気をもらったわ。ありがとう……」
そう言ってフェルカは、目線を私に合わせるように腰を下ろして、両掌をそっと私の両頬に当てた。
その柔らかな掌から、彼女の温かさが私の両頬を伝って心にまで届く感覚を覚えた。
私は気恥ずかしさで、彼女から視線を逸らすように俯く。
そして何も言わずに、その優しさで心が満たされる情緒に浸っていた。
最後にフェルカはこう言った。
「今は難しいかもしれないけれど…、いつかは『ご主人様』ではなくて、『お父様』と呼べる日が来ればいいわね……」
確かにご主人様は、私に父親同然の愛情を注いでくれたし、私も彼のことを父のように慕ってはいる。
しかし、それでも私は彼にお金で買われて救われた身だ……、主従関係という一線を越えるのは容易いことではない。
私は彼女の問いかけに「はい…そうですね…」と、力なく答えた。




