闇夜花4
私と麗奈は部活帰りに一緒に帰っていたが、部活のない日にはそこに真奈美をくわえて、三人でよく帰っていた。真奈美は普段一緒に帰れないこともあってか、一緒に帰れる水曜日に遊びに行きたがったが、麗奈の都合が悪く、一緒に帰るまでが精一杯で遊びには行けなかった。
昨日、麗奈が明日は都合が良いといった時、真奈美はとても喜び、溌剌な笑顔を浮かべた。
麗奈は一人でよく行っている喫茶店に連れて行くといった。私がどこにあるのか聞くと、学校から少し行ったところにある繁華街の裏道にあると言っていた。
私の学校は閑静な住宅街の一角にあり、非常に落ち着いた環境だ。けれども生徒達には近場に遊び場がないことが不満らしく、その繁華街によく遊びに行くことが多かった。
私と麗奈と真奈美はその繁華街の駅前に来ていた。駅前はこれから帰宅するサラリーマンや街に遊びにでる若者などでごった返している。雑踏は麗奈や私はまだしも、背の低い真奈美には厳しく、私達は何度も真奈美を見失いかけた。
道ゆく男達は麗奈のことを舐め回すように見つめていて、それに気づいた真奈美はその度にひどく腹を立てていた。
やがて駅前を抜けて裏通りへと辿り着くと、居酒屋やスナック、バーなどの飲み屋が軒を連ねて、まだ五時にもなっていないのに客がポツポツ入り始めていた。
居酒屋の一つから酔っ払いが出てきて意味不明な言葉を叫びだした。その大声に真奈美は驚き、悠然と道を歩く麗奈に肩を寄せた。
しばらく歩くと、裏通りの路地裏にポツリとレトロな雰囲気の喫茶店があった。二階建てで西洋風な屋根は赤く、入り口に置かれたメニューの横には植木が置いてあった。
中に入ると、右手にはダイヤル式の固定電話があり、壁には一昔前の映画のポスターがある。左右に置かれたテーブルの壁側には観葉植物が彩っていた。
私たちが入ったことに気付いた黒いエプロンを着たおばさんが麗奈に声をかけた。
「麗奈ちゃん、久しぶりだね。今日は友達も一緒なんだね」
おばさんは私たちの制服を見ながら言った。
「ええ、入学したばかりでいろいろと忙しくて」
「そう、今日はみんなでゆっくりしていってね」
「はい」
私達はおばさんの案内で、入り口から直ぐ左手にある四人がけのテーブルに座った。イスは赤茶色の深く腰掛けるタイプの椅子で、椅子表面の皮からタバコの匂いが微かにした。
一つしかないメニューを真奈美が見ていると、麗奈が紅茶とホットケーキのセットを勧めたので私も真奈美もそれを頼むことにした。
先に紅茶が出てきて、ポットから自分達でカップに注いでいく。麗奈は深呼吸するように深くその匂いを吸い込むと納得したように深く頷いた。真奈美は喫茶店の落ち着いた雰囲気に飲まれて、逆に落ち着きがなくなっていた。
「こういうお店って、私一度入ってみたかったんだ。でも、一人じゃなかなか入れなくて。今日は連れて来てくれてありがとう」
麗奈は微笑して頷いた。
「私達の生きている時代は死んだように静かだけれど、昔はみんなが何かに燃えていた。この国を成長させようとする人、反社会的な思想を持つ人、必死に生きる人、みんな想いは違ったけれどみんなエネルギーに満ちていた。そういう人々で溢れていたからこそ、この国は戦後ここまでの発展を遂げたんだよ。だから、その時代から続いているこの店はその時の情熱を今でも秘めていて、ここに来る人はそれを懐かしんで、あるいは新鮮で来るの」
「人は自分にないものを求める」
プール掃除をした日のことを思い出して、私は麗奈に言った。
「そういうこと。今の人は勿論のこと、昔から生きている人でさえ時代の流れで情熱を失う。でも、ここのオーナーはそうじゃないの。時代が変わろうと前と変わらずそこにあり続ける。すてきだと思わない?」
もしもお父様が今でも生きていたら、以前そうであったようにあいかわらずあの白く細い腕で私を水に沈めていたに違いないと思った。
ちょうどホットケーキが運ばれて、真奈美が何かを言おうとしたのを遮った。運ばれて来たのは絵に描いたように分厚いホットケーキで、上に乗っかっているバターがとろけている。
一緒についてきたハチミツをかけてホットケーキを口に入れると、ふわふわとした食感に甘すぎない味だった。二人を見ると、麗奈はいつもの冷たく鋭い表情を綻ばせ、真奈美は小さい口にいっぱいに詰め込みリスのようになりながら体を震わせて喜色を表していた。真奈美が落ち着くと、紅茶をすすった。
「麗奈が流行り物のスイーツとか食べに行かないのは、昔ながらのものが好きだからなんだね」
「そうだよ。ティラミスとかワッフルとかカヌレとか、そういう流行り物ってあまり好きじゃないの。さっきも言ったけれど、私の好きなのは時代に流されたりはしないものだから」
麗奈は一口紅茶をすすって続けた。
「時代が変わると価値観も変わってしまう。でも本当に大切なものはね、いつの時代も変わらないの」
「それってどんなものなの?」
「例えば、こういう学校帰りに気が置けない友達と過ごす時間とかね。人と人とが触れ合うこと、それも心と心が触れ合うことほど大切なものはないと思う」
真奈美はその言葉を聞いてうっとりと惚けている。けれど、私には分らなかった。麗奈の心も真奈美の心も、私には永遠に触れ合うことができないように思えた。
私の心の大部分が沈んでいるあのお風呂場の水から、心を引き揚げることさえできれれば二人のように、心と心が触れ合うことができるはずだと思った。
「いつの時代も変わらないものが心と心のつながりだなんて、すごくロマンチックだよね。小夜もそう思わない?」
真奈美は空になったお皿にこびりついているハチミツをこそぎ取りながら、何の脈絡もなく私に話を振った。
麗奈の言葉は、真奈美にはよく響いたのだろうが、私にはみじんも響かなかった。
「分からない」
私がただ一言返すと、真奈美はすぐに言葉を返した。
「何で分からないの」
「分からないものは分からない」
私がトートロジーで返すと、真奈美は肩を落としてため息をついた。
「でも、ある意味小夜もそうなのかもしれないね」
くりくりさせた目で私を見つめて真奈美が言った。
「何が?」
「いつまでたっても変わらないもの。小夜もきっととそうなんだよ」
私は自分の生きる目的を思い出していた。私は生きている実感がない自分を変えたくて生きているのだろうか。それとも単にお父様のことが知りたいだけなのだろうか。もしすべてを知って私が生きている実感を取り戻したら、こんな言葉にもいちいち考え込むこともないのだろうか。
自分のことなのに、遠いどこかで起きていることのように思える。
私が返答に困っているのを知っているのかどうかは分からないけど、麗奈がカバンを持って立ち上がった。
「そろそろ帰ろうか」
私は頷き、真奈美は名残惜しそうに「そっか」とか細く言った。
私達はお会計を済ませるためにレジの前に並ぶと、叔母さんがやってきてすぐにお金を払った。
「おばさん、ごちそうさまです」
麗奈が言うと、叔母さんはやわらかく笑って、
「ちょっと待ってね」
そう言ってから大声で厨房にいる旦那さんを呼んでいた。おばさんの声ですぐにコック帽を被ったおじさんが出てきた。
「麗奈ちゃん、もう帰るのかい。もっとゆっくりしておけばいいのに。なあ?」
「え、えっと……」
同意を求めるように真奈美に話しかけたが、真奈美は顔を引きつらせて乾いた笑い声をあげるだけだった。
「あんた、困っているじゃない」
おばさんはおじさんに言ってから、すぐに真奈美の方を向いて「ごめんね」と言った。真奈美は苦笑いでそれに答える。
「ゆっくりしていきたいのはやまやまなんですけど、ご飯も家にあるので」
見かねて麗奈が言った。
「それじゃあしかたない」
「今日はありがとう。お友達もありがとうね」
おじさんの言葉に麗奈はお辞儀で返す。
私達はすぐに表に出て、歩いていく。店を出た後も二人は私達を見送りしていた。
心と心の触れ合い、それがここにも充満していらのだろう。
夜の繁華街の光が冷たく、そして遠くに感じた。
お読みくださり、ありがとうござます。
よろしければご感想、ご意見くだされば幸いです。