闇夜花1
チョークが黒板を叩く音、理科の教師の枯ら声が教室に響く中、麗らかな日差しを浴びながら、麗奈は窓からの風景を眺めている。
先日席替えがあったために麗奈の席は一番窓側の席になり、私はちょうどその後ろの席となった。
入学してからというもの、麗奈が数学を除いて、まともに授業を受けることはなかった。授業をサボったり、居眠りをしたりはしない。麗奈は板書を写さずに気の向くままに先生の話を聞いたり、聞かなかったりするのだ。
板書を写さない麗奈に対して先生達は快く思ってはいなく、何人かの先生が板書を写すように言ったけれど、その度に麗奈は、
「板書を写すことに意味があるのではなく、板書されたものを理解することが大切なのではないですか?」
と言って、結局麗奈が板書を写すことはなかった。
これでテストの成績が悪ければ何か言われたかも知れなかったけれど、麗奈の成績は学年でも十番に入るくらい良かったから誰も何も言えなくなった。ただ数学だけは苦手らしく板書もしっかりと写し、毎週月曜日には私達の担任でもある葛西先生に補講をしてもらっているようだった。
授業の終了時間が迫って先生が授業のまとめに入り、チョークにまみれた手を払いながら全体を見渡している。先生の目は物思いに耽る麗奈に止まると、顔をしかめた。
麗奈は教師の視線など気にも止めずに、涼しい顔をして外を眺め続けている。
それに気を悪くした教師は腹いせと言わんばかりに、理科の問題集を解いておけと宿題を課した。生徒からは不満の声がそこかしこで上がるが、不思議と麗奈に非難の目が行くことはなく、何人かの生徒は憧れの眼差しさえ向けている。
普通、ここまで逸脱した行動を取るクラスメイトには酷いといじめが、軽くとも嫌悪感を抱かれてもおかしくないにも関わらず、麗奈はそうではなかった。それは麗奈の容姿が関係しているのかも知れない。綺麗とか可愛いとかそう言う表面を表す言葉じゃ足りない美しさを麗奈は持っていて、それにみんな圧倒されるからこそどんなに特異な行動をしようと、それも麗奈の持つ常軌を逸した美しさを支える要因に過ぎないと思うのかも知れない。
授業が終わり教師が部屋を出た後に、私と麗奈のところにトンボ眼鏡の伊藤真奈美がやってきた。真奈美は入学式の日に異常に不安を抱えていた子だ。他の生徒が入学して一週間も経つ頃には友達の一人や二人できているにも関わらず、彼女は一人だった。
麗奈は何のつもりか彼女を私達のグループに引き入れた。最初はビクつきながら首を縮こませて私達の様子を伺っていた。
私と麗奈の会話は私が話すことに不慣れなせいであまり弾まず、間が持たないことが多かった。初めの頃はその沈黙が真奈美をさらに緊張させていたが、次第に彼女が会話を繋げていくことが多くなった。
「どこ見ているの?」
未だに外を眺めている麗奈に真奈美は臆することなく声をかける。
麗奈は真奈美の方を向くと、少し考えてから、
「何も見てないよ。ただそこに目線を置いているだけ」
と後ろの席の私にいたずらな笑顔を向けて答えた。
「そう」
私が短く返すと、麗奈は薄く笑った。
「麗奈って笑い方独特だよね」
横から麗奈の笑みを見つめる真奈美は興味深そうだった。
「そう?」
「麗奈が笑う時は大抵、ほっぺたはあまり上げずに、目を細めているよ」
「そうだね」
私は真奈美に同調する。
「小夜も言うなら、違いないね。でも、小夜はあまり笑わないよね」
「笑う意味が分からないから」
私の答えに麗奈は、小夜らしいと言って珍しく声を出して笑っている。
「そう言えば、今日は部活の日だっけ?」
麗奈がひとしきり笑い終わったところで、真奈美は私達に聞いてきたけれど、私は喋らずに麗奈が答える。
「そう。水曜日以外は毎日あるよ」
「水泳部なのに、水のつく水曜日は休みなんだね」
「先生が職員会議で忙しいみたいだから、何かあっても責任取れないって理由で休みなの」
真奈美は納得したように深く頷いてから、少し残念そうな顔をした。
「そんな顔するなら小夜みたく水泳部に入ればよかったのに」
「私には難しいよ」
「そんなことないでしょう。確かに泳ぐのは難しいかも知れないけれど、私と小夜みたいにマネージャーになれば良いじゃない」
真奈美はもどかしそうに顔をしかめて、首を振る。
「そう言うのじゃなくて、選手の人達はかっこいいし、マネージャーの人達はかわいい、そんなところに私なんかじゃ行けないよ」
真奈美の言い訳じみた言葉に、麗奈は鋭く真奈美を見つめている。
「とりあえず入ってみてれば良いのに」
私がそう言うと、真奈美は一瞬目を丸くしてから苦笑している。
一ヶ月も真奈美と一緒にいれば多少は彼女のことを知ることができた。
真奈美は何かと理由をつけた。委員会を決めるとき、部活を決めるとき、真奈美が何かを決断する時は必ず何かしらの言い訳をしては自分の望みを叶えようとしない。今回は容姿を引き合いに出しては自分には分不相応と決めつけて部活に入らない、委員会のときは図書委員になりたいと言いながら、自分は背が低いから高いところの本の整理ができないと言って立候補するのをやめた。
入学式のときに見た臆病さはまだ変わっていない。私達と何か話をするときは、気兼ねなく話せても先生や他の子に声をかけられれば目も合わせられない。
私には麗奈がそんな彼女をなぜ連れているのか分からなかった。
「そんなにぶっきらぼうに言うと、真奈美が困るじゃない」
しばらく沈黙が続いた後、閉口している真奈美に変わって、麗奈が口を開いた。
「最初の一歩は誰にとっても大きな一歩なの。でもその大きさは誰でも同じ訳じゃない。真奈美の一歩はみんなより大きいだけだよ」
麗奈は目を細めて真奈美の頭を撫でた。真奈美は頬を赤らめた。
私や麗奈の最初の一歩は他と比べても遥かに小さいように思えた。麗奈が最初に私に声をかけたとき麗奈に迷いはなかっただろうし、私はお父様の真意を知りうるかも知れないなら何だってできるから迷いはない。
そう言う意味で言うのなら、お父様が初めて私を浴槽に沈めたとき、何のためらいもなかったのだろうか。苦しむ私に対して、然るべき罪の意識に苛まれなかったのだろうか。
目の前にいる麗奈のその怜悧な瞳は、それを理解できる可能性を十分に秘めているように思えた。
麗奈は私に見られていることに気づくと、いつものように薄く笑った。
その時突然、麗奈は真奈美を撫でている手を止めて、顔をしかめながら急に頭を抑えて少し蹲った。
「麗奈、またいつものやつ?」
真奈美は顔を曇らせながら、顔を覗き込むように聞いた。
「……うん」
顔を歪めながら、やおらおもむろに麗奈は答えた。麗奈はひどい頭痛持ちのようで、度々こうして頭を抑えた。昼食の度に頭痛の薬を何粒も飲む彼女は、その死人を彷彿させるような肌の色も重なってより病的に見えた。
この重い頭痛は、麗奈から夭折の香りを感じさせた。前に見たことのあるショパンの絵画のように白く細い麗奈は、ただでさえ長生きはしないような人間だと思ったけれど、この頭痛を抱える姿を見ていると長生きはしないと言い切れるような体だった。
私はこの彼女の姿こそが私にお父様を連想させるものだと思った。麗奈の細さが、白さが、病的な弱々しさがお父様を暗示しているように私には思えた。
苦しんでいる麗奈に今度は真奈美が頭を撫でた。今まで撫でられた分を返そうとして、小さな体で麗奈の頭を懸命に撫でる姿は健気に見えた。その甲斐あってか、麗奈は良くなったようでいつものように薄く笑った。
「ありがとう、真奈美」
「う、うん」
真奈美は顔を少し赤らめた。
「今日はそれでも部活行くの?」
「真奈美のおかげでもう良くなったから」
授業中そうであったように、麗奈は外の風景を眺めた。この瞳で何を見ているのか分からなかった。でも、きっと麗奈は入学式の日の私と同じように目の前の風景を見ないで、どこかに意識を飛ばしているのだと思った。
私の小説をお読みいただきありがとうございます。
よろしければ、ご意見、ご感想をいただけましたら幸いです。