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人として生きたい  作者: 松吉なぎ
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見えない傷4

 夕食を陽輝さんと一緒にするのには違和感がある。いつもは陽輝さんの仕事が終わるのは遅く、夕食は大抵一人で、こうして二人で食卓を囲むのはあまりないからだ。


 おかずのから揚げを口に入れた陽輝さんの顔を見ながら、私はさっき見たことを思い出した。


 入学式を終えた私達はクラスに戻り、今後の予定を話し終えた後すぐに解散になった。麗奈とはその後何も話さず、私はすぐに帰ろうと陽輝さんを探しにいった。


 校門付近に多くの保護者がいたのでその中に混ざっていると思ったけれど結局そこにはおらず、トイレにでも行っているのかもしれないと思ってしばらく待っていた。


 ところがいくら待っても戻ってくる気配がないし、このままここにいても埒があかないと思い校内を探すことにした。


 受験の時や制服の採寸以来で校内に何がどこにあるのか分からず、陽輝さんはなかなか見つからなかった。


 あちこち探し回った後、自分の教室は探していなかったことに気付き行ってみると、教室の前で先生と陽輝さんが何か話をしていた。


 先生は三十半ばぐらいの女性で、身長は百七十センチ半はあり、彫りの深い顔立ちをしている。遠くから見ると、決して小さくないはずの陽輝さんが背の小さな人のように見えた。


 私が近づくと足音に気がついて二人ともこっちを見た。先生は目を伏せ、陽輝さんは目を細めて睨みつけていたけれど私を見るなり目を見開いていた。


 すぐ陽輝さんは取って付けたように、「ではうちの子を頼みます」と、一言言ってから私の手を掴んで先生の前を後にした。


 あの時、陽輝さんと先生が何を話していたのか分からない。


 妹の子だからかそれとも単純に子供が好きだからなのか、私に注がれた愛情は疑いようのないものだった。だからもしかすると、入学式や入学説明会の日に何か一悶着あってあんな対応をしていたのかもしれない。


 陽輝さんがちょうど食べ物を飲み込んだので私は聞いた。


「さっき先生と何話していたの?」

「何って……小夜をよろしくお願いしますって頼んでいたのよ」


 陽輝さんは目を泳がせて、誤魔化すように口にご飯をつめた。


「でも、そんな風には見えなかった」


 陽輝さんは虚をつかれたようで返答に困っている。そして、ゆっくりと飲み下して落ち着き払った。


「子供がそんなこと聞いたってしょうがないでしょ」


 いつもなら何か聞いたら、きちんと返してくれるのに誤魔化される。これ以上聞いても何か答えてくれることはないと思い、私も口におかずを詰め込む。


 食事はいつも味気ない。しょっぱい、甘い、辛い、すっぱい、苦いと言った味は確かに感じるけれど、まずい、美味しいや何か食べることで幸福感を得られたことはない。これも実感がないから起きるのだろう。


 口の中に入っているから揚げを私は咀嚼する。醤油のしょっぱさ、肉の油っぽさ、カリカリとした触感、そういう要素にしか意識がいかない。これもお父様の問題が片付き、生きている実感が得られるようになれば、食事も違うものになるに違いない。


「ごちそうさま、私は先に食器洗っているから、食べ終わったら持ってきて一緒に洗うから」


 いつの間にか食べ終わっていた陽輝さんが食器を洗い場に持っていきながら言った。さっきのことを少し気にしているみたいで声が少し上ずんでいる。


「分かった」


 私も残っているご飯をおかずと共に食べてから、陽輝さんのところに行って食器を渡す。


「お風呂沸いているから先入って」

「うん」


 私が一階のお風呂場に行こうとすると陽輝さんから声を掛けられた。


「ごめん、小夜言い忘れていたけど、入学おめでとう。高校生はいろいろあると思うけど、私はいつだって小夜の味方だからね」


 きっとずっと言いたかったのに、私があんなこと聞くからバツが悪くなって言えなかったのだろう。陽輝さんは頭を掻いて目を逸らしがちに言った。


「私もごめん、陽輝さん」


 陽輝さんは微苦笑した。


 私はそのまま一階にある風呂場へと足を向かわせる。リビングから風呂場まではほど近く、リビングを出て廊下を歩くと左手にすぐにある。


 私は脱衣所に着いて、服を脱いだ。


 四月と言えど寒さは厳しく、空気が肌を刺すように思えた。


 私がお風呂の引き戸を開けると、温かな湯気が噴き出してくる。


 私は肌に感じる湯気の温かさと外気の冷たさを同時に感じながら、ゆっくりとお風呂場に入った。


 まず、シャワーを入れて体を温める。温かなお湯が体を包み、冷えた体にじんわりと温かさが伝わっていく。しばらく、体が温まってから私はシャンプーをして、リンスをする。


 髪の洗い方はお父様から教わらなかった。まるで大型犬をお風呂に入れるみたいに、たまにお父様との水浴びの後、水風呂の中で軽くシャンプーをして終わりだった。


 幼かった私の髪はそんなに長くなかったからそれでもよかったのかもしれないけれど、お父様の死後、髪をそれなりに伸ばすようになってからはそうもいかなくなった。だから陽輝さんが私の髪を洗ってくれた。今では見る影もないけど、細くつるつるした指が髪をこする感触を今でも覚えている。


 リンスーをすすぎ終えて、私は体を洗う。入口の戸に付いているタオル掛けに石鹸を泡立たせる用のタオルがあり、それにボディーソープを乗せて泡立たせる。タオルはやわらかめのタオルを使う。叔母さんが言うには「肌が傷つくと歳を取ってからオバケみたいになるから、タオルはやわらかいのを使いなさい」とのことだった。


 私は体を撫でるように全身を泡に濡らした。自分の体を自分で触ると現実感がないせいか他人の体のように思えてくる。この体を撫でるこの手は、いったい誰の手なのか分からなくなる。そう思うたびに私はお父様の真実を見つけようと思い直した。


 体を洗ってから、顔も洗って湯船に入る。温かさが身を包む。


 私は湯船に張られた水が、私の入った衝撃で揺れているのをぼんやりと眺める。湯船に浮かぶ照明のオレンジ色は波のせいで滲んでいる。その波が収まり、滲んだオレンジ色が確かな形を持つまで私は波を見続けた。


 波が止まると、私はいつもやっているみたいに体を深くお湯の中に沈める。水中で上を見上げると水面が揺れているためにまたオレンジ色が滲んでいた。


 私は子供の頃を思い出す。力強い手、細い腕に押さえつけられて水を何度も飲んだ。


 何度も私はそれを再現しようと潜るけど、一度も成功したことはなかった。息が続かなくなれば体は勝手に浮かんで息を吸おうとした。体の生きたいという欲望が、私の真実が知りたいという渇望に勝さる。


 私の息はそろそろ苦しくなってやっぱり体が浮かんできた。水から顔を出すと、空気が私の肺を満たす。


 肩で息をしながら、いないはずのお父様をいるかのように見上げる。あの頃、いつだって見上げるとお父様の顔は陰に隠れて表情が分からなかった。あの時、どんな表情をしていたのだろうか。私にはそれを確かめるすべがない。


 扉の外で物音がして私は扉を見た。


「小夜、まだ入っているの?」


 扉にさえぎられて、ぼやけた声が浴室に入ってくる。


「もうじき出る」


 私が外に届くように少し大きな声を出すと、浴室に自分の声がよく響いた。


 私の返事に何か言いかけたように声を出して、「分かった」と返事をしてから去っていった。


 陽輝さんはよく自分の言いたいことを押し殺したようにして、自分の言いたかった言葉を飲み込んで、再度違う言葉にして私に話すことがある。


 ずっと育ててくれたのは事実ではあるけれど、やっぱり私にとって陽輝さんは叔母の陽輝さんで母だとは思えない。そういうところを陽輝さんも感じて、言いにくいところがあるのかもしれない。


 私は風呂を上がって、お父様が私を拭いたときを思い出しながら体を拭く。


 何度思い返してもあの手つきには愛情を感じさせるものしかなかった。それなのにどうしてお父様は私に非道な行いをしたのか分からない。


 子供を虐待する親のことを調べたとき、子供の時満たされない心があってそれがしこりのように残っていると子供に虐待する可能性があるとされていた。私はそれを知った時、陽輝さんにお父様のことを聞こうとして苦笑しながら言い淀まれて、曖昧にぼかされたのを覚えている。別にお父様の子供のころのことが答えづらいからごまかされたのではなく、お父様のこと自体を聞かれたくなかったのだと、「お父様」の言葉が出た刹那、瞬間的に歪んだ表情から伺えた。


 お父様の私への虐待はばれていることはなかったはずだと思う。私は何かされたとは言った覚えはないし、殴られたりはしてないから外傷もない。けれども、何かある。私にお父様のことを教えたくないだけの何かがある。私にはそう思った。


 私は考えながらも体を拭いて、パジャマに着替えて、髪を乾かし、部屋の明かりを消してから布団に入った。布団の中は、湯によく浸かり、火照った体には冷たく感じた。


 暗闇はかくれんぼの時、身を隠したあらゆる暗闇を思い出させた。流しの下、押し入れ、クローゼットの中、色んなところの色んな闇が私の目の前に現れてくるかのようだった。


 闇に光が入ってくるときはお父様に見つかった時で、その瞬間強張っていた体の力が抜けていくのを思い出す。


 隠れた場所から見つけ出されてすぐに、細く白い腕に抱き抱えられたとき、私は何を思っていたのだろうか。


 布団が冷たいせいもあると思うけれど、思い出された白い細い腕の虚像は、今日会ったあの子、浅川麗奈を思い出す。


 あの子に触れた時に走った予感、あの予感が確かなものなら私はきっと答えに辿りつくだろう。お父様に聞こうにももう聞けない真実に、陽輝さんに聞いても濁させる真実に私はきっと辿り着けるだろう。


 暗闇に目は慣れてきて、カーテンの緑色やベージュの壁の色がかすかに見えた。けれども、布団はまだまだ温かくならずに、これが温かくなる頃には私は寝ているだろうと思った。

お読みいただきありがとうござます。

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