見えない傷3
私が座った席は廊下側の前から二番目の席だった。廊下側の壁は床から私の肩ぐらいの位置までがコンクリートで出来ていて、そこから上には窓があり外からも中からも見えるようになっている。
同じ教室の子達は教室の中に次々に入ってくる生徒を見つめていた。入ってくる生徒の反応はみんなまちまちで、堂々と視線の中を歩く者、不安げにチラチラとこちらを見てくる者、緊張しているせいか見られていることにも気付かない者に大体分かれていた。
私の場合は見られていることに気付いて立ち止まり、教室を見渡してどんな子がいるのかをあらかた把握した上で教室に入った。ずいぶん長いこと観察していたせいで、私は周りから奇異の目にさらされた。
みんなきっと敏感になっているのだろう。周りと自分が同じになっているか心配でたまらない。だからちょっと変わったことをする子を見つけただけで驚いてしまう。でも、そんな子ばかりがいるここに、私の探しているような子はいるのだろうか。
また新しい子がやってくる。やや猫背気味のせいもあってか低い背がより小さく見える。ショートボブの前髪は眉のあたりまで伸びていて、そのすぐ下にあるトンボ眼鏡から覗いている瞳はクリクリとしている。
窓越しの彼女は真っ直ぐ前を向いて歩きつつも、教室の様子が気になるのか横目でチラチラとこちらを見てくる。
扉が開かれて、彼女が入ってくると誰とも目を合わせずに、またチラチラと周りを伺いながら自分の席の場所を確認しだす。ようやく見つけた座席を何度もあっているか確認しては、おどおどしながら席に座る。彼女が座ったのは右端の前から三番目の席、私の後ろの席だった。
みんな多かれ少なかれ不安を抱いているものだけれど彼女ほどはいかない。何が彼女をそこまで憶病にさせるか分からないけれど、暴力からは遠い存在だと思った。
彼女のお陰か、みんなの緊張がややほぐれたようだった。確かにあんなに不安がっている子を見てしまえば、自分達が感じている不安なんてたかが知れているって思うに違いない。
生徒たちはその後も来るけれど、やっぱり彼女ほど不安げな子はおらず、多少の不安や緊張感をもっている子ばかりだった。
私は反対側の窓の外を見る。ここからだと有名企業の大きなビルが一つだけ見えるだけだった。学校がビルより小さいせいもあってちょうど見下ろすように立っている。側面に立ち並んだ窓ガラスにはまだ十分に登っていない太陽の光が反射してキラキラと光っている。
学校が小さいせいもあって全体像が見えなかったけれど、もっともらしい姿だと思った。国の今を支える人々の働いている建物が、国の未来を支える私達のことを見下ろす姿というのは、父が子を見下ろすように自然で本来あるべき形を取っているように思えた。
しばらくその様を眺めていると、反射した太陽光の橙色からお風呂場の橙色の灯りを思い出し、お父様との水浴びの記憶が蘇る。
私を押さえつける細くて力強い腕、鼻や口にむせ返るほど入ってきた水、荒く苦しくなっていく呼吸、様々な微細な情報が頭の中を鮮明に駆け巡った。
お父様の虐待を思い出すのにしばらく夢中になっていたため、ふと我に返った時に今が何時だか気になった。辺りを見回し時計を探すと、みんなの様子がおかしいことに気付く。みんなあっけらかんとして廊下側の窓の外を見つめていた。
私もその方向を見ると女の子が歩いているのが見えた。背は少し高く、濡れたように真っ黒で艶やかな髪は胸まで伸びていて、前髪は眉のところで切り揃えられている。切れ長な瞳も髪に倣って真っ黒で澄んでいる。ただ肌はまるで死人のように白く、黒い髪と瞳も合わさると妖しく映えた。
彼女はゆったりとした歩調でドアの前に向かいながら、顔は私の方を向いていた。彼女は教室に入ると迷わずに私の前に来た。窓から入って来たビルの反射光が白い肌を輝かせていた。
彼女は私をじっくりと観察してから悠然と口を開いた。
「あなた、さっき何を見ていたの?」
あまりにも唐突で返答に手間取っていると、彼女が付け足す。
「今さっき窓の外を見ていたでしょう。何を思って何を見ていたの?」
私は「ある思い出に浸っていただけ」と、言おうとしたけれど、人とあまり話さないせいか自分のことを詳しく話すのが躊躇われて別の言葉を選んだ。
「何も、ただ目線をそこに置いていただけ」
彼女は少し面を食らった体で口を微かに開けていたが、それはほんのわずかですぐにクスクスと笑い出した。
「あなた面白いのね。初対面なのに随分と対応が冷たい。あなたがこの風景を見ていないのは分かっているの。だから、何を思っていたのか聞きたかった」
彼女こそ初対面の対応とは思えないような遠慮のない言葉をかけた。
私はそれでもお父様のことを言うのは躊躇われた。
彼女はしばらく答えを待っていたが私が答える気がないと悟ったようだった。
「答えたくないならもういいよ。でも名前くらいは聞かせて欲しいかな」
私はそれには躊躇せずに答えた。
「有藤小夜」
「私は浅川、浅川麗奈」
浅川麗奈は私に手を伸ばしたのでその手を握った。その手は細くてなめらかで、死人のように冷たかった。でもその冷たさが何だか懐かしいような気がした。それがお父様に関することだというのは何となく分かった。けれど何となくとだけでそれがいつどこでのことなのかは思い出せない。
「これからよろしく」
「こちらこそ浅川さん」
「麗奈で良いよ」
麗奈は微笑んだ。
「分かった。麗奈」
「ありがとう。小夜」
私には名前を読んだだけで感謝されるいわれが分からなかった。
「ありがとう?」
「何かおかしい?」
「私は感謝されるようなことはしていない」
麗奈は右の手のひらを上に向けてから声を出す。
「だって名前って大切だもの。私が私であることの、私が生きていることの証拠だから。それに難しい話をすれば、感謝してくれる誰かがいてくれることが、私がここに生きている証明にもなると思うの」
私は話す相手がいなくちゃ話せないのだから当然だと思った。
「あたりまえのことじゃ」
「そっ、当たり前だよ。でも、その当たり前が大切なことなんだ」
私にとっての当たり前はお父様のことを考えることだから確かに大切なことだと思った。
「それは分かる」
「それも分からないと思ったけど意外だね」
麗奈は頬をあまり上げずに目だけを細めるようにして、薄く笑った。
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