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人として生きたい  作者: 松吉なぎ
29/54

冷たい温もり10

今話は少し長く、次話は短くなります。

 夏の押し入れは湿気がひどく、暑さもあって呼吸するのが苦しくなる。しまってある冬用の羽毛布団と側面の壁の隙間に体育座りをしているからなおさらだろう。


 お父様は隠れんぼのときに見つけやすくするため、初めからすべての部屋の明かりを点けた。だから、押し入れの隙間からは光がわずかに入ってきている。その光が壁面の一部を輝かせる。私はその光の面を撫でるのが好きだった。ざらざらした壁の質感が手のひら越しに伝わる。暗い部分も同じような触り心地なのに光っている部分だけどこか特別に思えた。


「お風呂いっぱいになったよ」


 お風呂場に一番近い部屋に隠れているからお父様の声がよく聞こえた。


 お父様はすぐに動き出す。足音が近づいてくる。


 一番近くの部屋だから見つかればすぐに見つかる。逆に言えば、一度見つからなければ、当面の間は見つからない。


 お父様は私の部屋の前で立ち止まり、ドアが開く音が聞こえる。この部屋はリビングみたいなもので一番よく使っていたからドアの蝶番は摩耗して、甲高い音を鳴らしている。


 お父様が部屋に入ってくる。畳がきしむ音が押し入れの中まで届く。隙間から入ってくる光がお父様にさえぎられて影になる。鼓動が早くなる。


 部屋中を探す音がゆっくり聞こえる。丁寧に探しているのが音だけでも分かった。ただ、歩き方は引きずるように歩いていて、畳と足が擦れる音がうるさい。


 しばらく経って物音がなくなる。代わりに足の引きずる音が扉の方に向かい、甲高い音がまた響く。けれども、ドアが閉まるときの重い音はいくら待っても鳴ることはなかった。


 するとすぐに甲高い音がまた聞こえ、足を引きずる音が聞こえる。今度はまっすぐと押し入れへと向かっているようだった。


 だんだん大きくなる音、それが押し入れの前で止まる。体に力が入り、思わず目を瞑る。


 引き戸が開く音とともに瞼越しで光を感じる。


 強張る私の肩を叩いた。恐る恐る目を開けると、お父様がいた。前に比べて頬がこけて、やせ細っている。


「見つけたよ。小夜」


 お父様は優しく微笑む。


「どうして分かったの?」

「たまたまだよ。部屋の扉を閉めるときに、そう言えば押し入れは探していなかったと思って」


 私は変なこと考えず、違うところに隠れていればと思った。


 お父様は私をしばらく見つめていた。背面に光を浴びていて暗くなっている顔は、思い詰めているように見えた。


「行こうか」

「うん」


 お風呂に行くこと、そしてその先にある行為を想像しても恐怖や嫌悪を感じることなかった。食事をしたりトイレに行ったりするのと同じで、ごく自然の日常の一環のように思っていた。


 私はお父様が手を差し伸べるのを待って座っていた。けれども、お父様は私の顔を悲しげに見るばかりで一向に動く気配がない。


「ここから出してくれないの?」


 お父様は力なく笑ってから言った。


「もう僕には無理なんだ。小夜の力で立って、お風呂まで行きなさい」


 その言葉は衝撃的だった。お父様の腕に抱きしめられたり、抱っこされたり、まだまだお父様に甘えたかった。


「いやだよ、もっと抱きしめて、もっと抱っこして」


 私は泣きながら懇願したが、お父様が考えを変えることはなかった。


「生きるって言うのはそういうことなんだ。お母さんだって、そう言うよ」


 お父様はすぐ近くに飾られているお母さんの写真を見ながら誇らしそうに言った。


 私はお母さんが嫌いだった。お父様がお母さんの話をするときは決まって嬉しそうに話した。難しい話ばかりでよく覚えていないけど、いつも決まって小夜のお母さんはすごいんだよって自慢する。それがたまらなく嫌だった。


 お母さんのことを考えたらいつの間にか泣き止んでいた。そんな私にお父様はもう一度言った。


「行こう」


 目元をこすって私は答える。


「うん」


 立ち上がって、私はお風呂場に向かう。そのあとをお父様がついてくる。


 お風呂場のドアは開けっ放しでオレンジがかった光が漏れ出ている。


 私は脱衣所で服を脱いで先にお風呂に入って、お父様が来るのを待つ。


 振り返ってお父様を見ると、服を脱いでいた。


「何しているの?」

「何って、お風呂に入るんだよ」


 唖然としている私のことなどお構いなしに服を脱ぐと、お風呂場に入ってきた。


 私は湯船の方を指さしながら、


「これも私だけで入るの」


 と言うと、お父様は静かに首を横に振る。


「まずは体を洗わないと」


 言いながらお父様は扉を閉める。金属の音が小さい浴室にこだまする。


「自分で洗えるね?」


 お父様は置いてあるシャンプーを手に取ると、私に渡した。


 頷いて、私はしゃがんで頭を洗った。お父様がたまに洗ってくれるときはよく泡立ったけれど、私が洗うとあんまり泡立っていない気がした。


 しばらくすると、蛇口をひねる音が聞こえてシャワーの音がすぐに聞こえる。


 お父様はそのシャワーから出ている水を私の頭にかけると、温かい感触がした。水だと思い込んでいた私は虚を突かれて、思わず口を開けた。


 すかさず、シャンプーの泡が入ってきて苦い味が口に広がり、吐き気がして私は顔をしかめる。見兼ねてお父様は、シャワーを口元に持ってきたから口をすすぐ。


「小夜、次は体を洗う番だ」

「うん」


 ボディータオルに水を湿らせて、ボディーソープを泡立てる。やっぱり、これもお父様がやっていたよりも泡が立たない。


 体をごしごし洗っていくと前はうまく洗えるけれど、背中は手が届かなくてうまく洗えなかった。


「お手本を見せるよ」


 お父様が私の手からボディータオルを取り上げて、見本を見せる。タオルの端と端を持って、タオルを斜めにしながら背中に当ててごしごし擦る。


「ほら、やってごらん」


 渡されたタオルを受け取り、私もお父様のようにやるけれどどこかぎこちなくなる。力の入れ方が違うのか背中が痛くなった。


 それでもちょっとは泡に覆われた体を見ると、白い服を着ているみたいだなと思った。


 私はどうにか洗えた体をお湯で流す。白の服がお湯に溶けていった。


 体から剥がれ落ちるようにして泡が床に流れ、排水溝に落ちていく。それを見ていると、お父様が声を出す。


「顔は簡単だね」


 私は石鹸置きの石鹸を取って泡立て顔を洗う。これもあんまり泡立たないけれど、顔につければぬるっとした感触が顔を覆って洗えている気になる。まだ出しっ放しだったシャワーの方に顔を近づけて流し、目を開ければお父様は微笑んでいた。


 私がその顔をまじまじと見るけれどお父様は動きを見せなかった。


「お父様は洗わないの?」

「洗うよ。小夜はお風呂に入っていなさい」


 そう言われて小さな体で一生懸命跨ぎ、お風呂に入る。けれども、やっぱり水ではなくお湯だった。温かい感覚が体を覆う。


 お父様が頭を洗う。私よりずっと素早く手を動かして、頭を泡でモコモコにする。体を洗う。私よりずっと大きな体を私よりもずっと早く泡まみれにする。顔を洗う。私よりずっと大きな泡を作って、細くなった顔を白くする。


 私はそれをバスタブの縁に顔を乗っけて見ていた。


 綺麗さっぱり洗い終えたお父様は佇立して、私のことを見下ろす。そしてしばらく私を見つめた後、腰を下げて目線を私に合わせると、


「詰めて」


 と言った。


 私は端に体育座りするようにして詰める。お父様は反対側から入ると、ゆっくり腰を落としていく。張られたお湯は逃げ出していくように外へと落ちていく。


 向かい合うようにして私とお父様は見つめあった。


「今日はやらないの?」


 私の声がこだまする。


「うん、もう必要ないからね」


 お父様の声がこだまする。


 私には不思議だった。あれほど毎日のように私をここに沈めていたのに、どうして今日になって沈めるのをやめたのか。


「どうして?」


 お父様は答えない。代わって、私の言葉がなかったみたいに違うことを聞いてくる。


「小夜は僕のことが好きかい?」

「うん」


 私の声は耳が痛くなるほど、風呂場によく響いた。


 お父様は満足気に笑う。


「そろそろ出よう。小夜ものぼせるだろう?」


 お父様は言いながら立ち上がる。浴槽の底が擦れる音が響き、体からお湯が溢れるように落ちた。


 お父様は先にドアを開けて、置かれていたバスタオルを取り出した。私はそれについていくように、急いで外に出る。


 お風呂場の入り口にあるマットに乗っかり、いつものようにお父様が優しく私の体を拭いてくれるのを待っていると、お父様が首を横に振る。


「自分で拭きなさい」


 私も首を横に振る。


「いや」


 お父様は真顔になる。


「さっき頭にシャワーかけたり、背中の洗い方を教えたよね。本当はあれもしちゃいけないんだ。良いかい小夜、すべてのものに決まった時間が与えられているんだ。春に芽吹いた新芽が秋には実を付けるように、人もいつまでも子供ではいられないんだ。だから、自分のことは自分でしなさい」


 お父様は私の両肩に手を置いて、私の目を強く見つめた。その雰囲気に飲まれて、私は手に持つタオルを取って自分の体を拭いた。


「良い子だ、小夜。僕は体拭いたり、お湯を抜いたりするから先に着替えて頭を乾かしておきなさい」

「はい、お父様」


 私はお父様に言われた通り、箪笥から出した花柄のパジャマを着て、お母さんが使っていた鏡台に置かれているドライヤーと櫛で髪を乾かす。長い髪は一本一本が湿り気でくっついているけど、それを鏡で見ながら櫛でとかす。


 すべての髪が解けて、艶やかな光を放っていた。


 しばらく鏡を見つめていると、お父様がくる。もう風呂場に寝間着を用意していたらしく、裸ではない。


 濡れたままの髪は何だか若々しい印象を与えていた。


「僕は髪を乾かすから、小夜は先に寝室に行ってなさい」


 私は頷き、寝室に向かった。


 寝室は万年床が真ん中にポツリと置いてあるだけで、他に何もない。


 私は布団の隣に腰を落ち着ける。


 さっきまでいた私の部屋からはドライヤーの音が聞こえている。私はその音を聞きながら、ぼーっと白い壁と白い天井を見つめている。


 しばらくして音が聞こえなくなると、ドアがバタンと音を立ててお父様が歩いてくるのが分かった。足と床が擦れる音が狭い廊下に響いている。


 やがてお父様が寝室の扉を開けて、中に入ってくる。


「待っていてくれたんだね。ありがとう、入って良いよ」


 私が布団に入ると枕元のランプを消して、私よりずっと大きな体をもぞもぞとさせながら一緒の布団に入れてくる。お父様は体勢や布団の位置を納得いくまで直して、やがて満足して動きを止める。


 まだ入って間も無く、冷たさを帯びた布団の中で触れ合う肌の温もりが心地良い。


 私はお父様の肌を直接感じたくて、お父様の手に触れた。私はまた怒られるかとも思ったけど、そんなことはなかった。けれども、お父様は驚いたように手を引っ込めた。それからゆっくりと私の手を握る。骨ばっていて、大きくて、そして温かい手だった。


 しばらく、お互いの温もりを感じながら暗闇の中で沈黙を保つ。時間が経つにつれて、部屋の壁に掛けてある時計の音が嫌に大きく聞こえて、煩わしく思った。


「小夜は温かいね」


 部屋に響く時計の音を打ち消すように、お父様の声が響く。


「ありがとう。お父様も温かいよ」

「……ありがとう」


 何か言いかけたように言葉を詰まらせながら言った。


 それからお父様は言葉を発さず、また部屋には時計の音が響いてくる。


「小夜」


 煮え切らない様子でお父様は語気を強める。


「はい」

「僕は君の親になれたのかな」


 私はさもありなんと思って答える。


「お父様はわたしの親だよ。だって、」

「だって、お父様だから?」


 私の言葉を横取りしたようにお父様は話す。


「僕はずっと悩んでいた。お母さんがいなくなってからずっと君の親を続けていたけれど、ずっと不安だった。君を育てる自信がなかったし、父親の実感が湧かなかった」


 お父様の手を握る力が少し強まる。


「何度も考えるんだ。もしも僕が女で小夜を産んでいたらって。そしたら否応無く、母である実感、親である実感が産まれたのではないかってね。でもきっとそんなことはないのだろうね。僕はずっと誰かに甘えているんだ。昔はお母さん、明夜にそうだった。今は小夜になった」


 お父様の声はだんだんと消え入るように力がなくなっていく。


 自嘲気味に笑っているのだろうか、声も出さずに肩を震わせている。


「どういう意味?」


 私の言葉に大きく息を吸って、大きく吐くと同時に言葉も吐き出ていく。


「つまり、僕は弱いんだ。明夜は強かった。小夜も強かった。だからこそ、頼ってしまう……」


 お父様の手は震えている。


 私はそれでもよく分からなかった。お父様のどこが弱いのか、なぜ頼った結果が水に沈めることになったのか。けれど、聞くのは無意味だと思った。


 私は知っている。お父様はきっと答えない。


 この答えは自分で見つけるしかないのだろう。たとえ何十年かかろうとも。


「頼って良いよ。私はお父様が大好きだから」


 私はお父様の手を強く握る。


 お父様は深呼吸を何度もして、落ち着きを取り戻してから言った。


「ありがとう」


 言ったきり、お父様はだんまりした。


 私はだんだん眠くなり、いつしか意識がなくなっていた。


 †


 眩い光で目が覚める。


 部屋の窓はカーテンが閉まっていなかったようで日差しが直接私とお父様の顔にかかっていた。


 布団の中から這い出て、立ち上がると大きく伸びる。それから、重い瞼をこすりながらお父様を見ると、とても穏やかな顔をしている。だから、お父様を起こすのを少し躊躇ったけれど、時計が12時近かったから起こすことに決めた。


 お父様の大きな体を私の小さな体で揺らす。その時に、私は違和感を感じた。


 硬い、私は揺らしている最中にお父様がいつもより硬いように感じた。


 絶対に起きるだろうと思い、布団を引きずるようにしてお父様から剥がす。寝間着姿のお父様が現れるけれど、起きる気配はなかった。


 私は昨夜握っていた手に目が行き、触ってみようと思った。


 お父様の手と私の手が触れ合う。


 冷たい、私はそう思った。でも、ほんのり温かくもあった。それは一緒に布団にいて、私の熱がお父様に移ったからだと思う。


 私はお父様の手を握ったまま体をまた揺らす。


 けれども、お父様は起きない。


「お父様、お父様」


 呼ぶけれど、お父様は起きない。


 私は何度も揺らした。何度も声をかけた。それでもお父様が起きることはなかった。


 小さいながらも、私はお父様が死んだことを何時間もかけてやっと理解した。


 そして、私は泣き叫ぶ。


 お父様の名前を何度も呼びながら、お父様の体を揺すった。


 お父様はここにいるのに、ここにはいないような気がした。


 小さい部屋に小さい私の声がいつまでも鳴り響く。

お読み頂きありがとうございます。

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