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人として生きたい  作者: 松吉なぎ
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水の囁き4

 病院は日もすっかり暮れてしまったため、月光のもと闇の中でそのくすんだ色を際立たせている。あたりの静けさも相まって現実感が妙にない。


 河川敷を離れてから病院に着くまでの麗奈は、まだまだ体調は優れてはいないものの歩くのや話す分には何の問題もない程度に回復していた。


 私は麗奈がまた頭痛が起きて頽れないように、気を配りながら柵を越えて暗々とする病院の敷地に入る。


 いつも帰るときはこのぐらいの暗さではあったけれど、麗奈の懐中電灯のおかげで歩くのには問題なかった。その懐中電灯も麗奈の体調よろしくうまく点かずにこの暗闇を歩く羽目になった。


 暗がりの中、月明りだけを頼りに一足ずつ足を踏み出し私達は駐車場を抜ける。足に当たる雑草はいつもよりも青臭く、妙に滑らかで柔らかく感じ、人に足を掴まれているような気になる。


 私は麗奈がその手に掴まれて死の国に引きずり込まれてしまうのではないかという妄想に囚われる。どこまでも深い奈落の底に連れて行かれてしまうのではないかと。


 けれども、私の妄想とは違い麗奈はまっすぐに前を見据えて一歩一歩確かめるように歩いている。


 私達は普段の何倍も時間をかけて外付けの螺旋階段にたどり着く。赤錆色の階段は月光の下といっても暗く、ほとんど黒に見えた。段差もその黒に隠れたように見えなかったけれど、足元に気を使いながらも錆びついた手すりを辿れば、一番上の扉まで歩いていけそうだった。


 私は麗奈が階段から落ちても助けられるように後ろを歩く。


 階段を登る足音は、耳が痛くなるほどの静寂を切り裂き、私達の来訪を告げる鐘の音のように思えた。


 扉の前につくと、ドアノブが月明かりに照らされて薄く光っていた。暗闇に浮かぶそのわずかな光に向けてゆっくりと歩いていき、たどり着く。少し重いドアを私が開けると暗くて何も見えなかった。


「この暗さだと、壁伝いに歩いても危ないんじゃない?」


 私はおもむろに麗奈の顔を見ながら聞くと、考え込んだ様子で答えない。見かねて私は提案した。


「懐中電灯直せないの?」

「接触不良なら治せると思うけど、あまり期待はしない方がよいと思うよ」


 麗奈は早速懐中電灯を出して、何度もスイッチを押したり、電池を入れなおしたり向きを変えたりした。けれど、努力むなしく明りは点かない。


「今度は小夜がやってみなよ」


 麗奈は懐中電灯を私の前に出したので、受け取ろうとしたら手が滑り懐中電灯が落ちてしまった。


 階段にプラスチックの高い音と鈍い鉄の音が響く。壊れていないのか確かめると、壊れている個所はなかった。「ごめん」と一言言うと、麗奈は「大丈夫」と短く答えた。


 私は麗奈がやっていたように懐中電灯の電源を入れ直すところから始めようとスイッチを入れる。と同時に、明かりが点き下の黒は赤錆色に戻った。


「これで行けるね」


 麗奈はそう言ってから私の手にある懐中電灯を手にして、扉の中の闇を照らした。


「行こう、小夜」


 麗奈は先に中へ入りながら、手を私に伸ばした。その手を握ると、前よりも冷たくて前よりも細く感じた。


「うん」


 中は埃っぽく、空中に揺蕩っている塵が光に照らされては星のようにキラキラ輝いていた。


 私と麗奈は暗闇を明りでかき分けるようにして屋上まで歩いていく。前来た時も響いていたローファーの音は相変わらず響き、音が闇に溶けていくようにこだました。


 屋上へと続く階段に着くと、麗奈は急に足を止めた。


「どうしたの?」

「聞こえない?」


 麗奈は耳を前に突き出すようにして、私の顔を見上げた。


 私は何がと、言いかけて、その音の存在に気が付いた。歩く音のように周期的に繰り返される甲高い音、小さすぎて何の音かは分からないけれど、その音は明らかに屋上から聞こえてきている。


 麗奈は訝しみながら、片手で懐中電灯を握り直し、もう片手では私の手を強く握りしめて屋上へと続く階段を上がっていく。私の歩く音がさっきと同じだったので、何段か上がってすぐに私の方を向いて鼻に指をあてた。


 ゆっくりゆっくりと音をたてないように細心の注意を払って、屋上まで上がっていく。


 次第に小さかった音は大きくなっていく。傷ついた動物の鳴き声のようなか細く、か弱い声が私と麗奈の耳に届けられる。麗奈はその音に覚えがあるらしく、顔をしかめた。私は何の音か聞こうと思ったけれど、その言葉を飲み込んだ。


 屋上の踊り場に着くころにはその正体も分かった。女の人の声だった。


 私がその声の持ち主を思い出すより先に屋上一個手前の踊り場に着く。麗奈は私の手を解き、屋上のドアから漏れる月の光だけを頼りにして懐中電灯をしまう。


 上を見ると、月の光で階段が凍り付いたように白くなっている。


 扉の前に着くと、足元の磨りガラスの音が出ないようにつま先立ちでガラスをよけて歩き、二人で月光が漏れている割れた扉の隙間から中を覗き込む。


 月明りだけの薄明かりで、及川さんと平岡さんがあられもない姿で抱き合っているのが見える。及川さんの日に焼けた肌は薄明りのためいつもより黒く、平岡さんの肌はいつもよりも暗く、くすんで見える。


 二人は名前を呼びあい、お互いがお互いの体を愛撫しあいながら、声を漏らしている。


 麗奈を見ると、今までで見たことのないほど目を鋭くさせながら、体を震わせていた。


 しばらくその光景を見ていた後に、麗奈はいつの間にかに出していた懐中電灯を片手にして私の袖をつかんで下に降りる合図をした。


 私はそれに従って、ガラスに気を付け足音を立てずにゆっくり降りようとする。でも、麗奈は迷いもなくガラスを踏みながら足音を立てて私より先に階段を下りていた。


 後ろで聞こえていた音が止まる。私はあの二人にばれてはことだと思い、急ぎ足で麗奈の後を追いかける。


 力強く、わざとらしくその後も麗奈は地面を踏みつけるように歩く。その調子で足早に階段を降り、廊下を進み、螺旋階段を下りて入り口までたどり着く。


 そこで麗奈は初めて口を開いた。


「あの人達がどうしてあそこを知ったかは知らないけど、人にはねそれぞれの領域があるの。私達には私達の世界が、彼女達には彼女達の世界がある。彼女達は表の世界で大手を振って歩いていけるけれど、私達は暗闇の中でひっそりと身を潜めている。平岡さんと及川さんはそれを乱した。私はね、小夜、あの人達を許さない」


 薄く笑った姿が、月光に白く染められておどろおどろしかった。


「何をするつもりなの?」


 私は自分が教えたと言うのは憚られて、心を悟られないように平静を装い質問した。


「私達も同じことをするだけだよ」

「同じって?」

「決まっているでしょう。あの人達の世界を見えないところで汚してやるの」


 麗奈は目を細めながら答えた。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければご感想、ご意見賜われましたら幸いです。

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