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苦手な方はご注意ください。

花の香りシリーズ

世界を終わらせる最後には、花の香りの口づけを

作者: 春夏秋冬

むかしむかし、ここからずうっと遠い国に、それは綺麗な海がありました。

朝には黄金に、昼は蒼穹に、夕方は赤金に、夜は白銀に燃え立つその海を、人々は神様の住まう海として大切にしていました。

海辺に立つ家々は、神様のお庭である浅瀬や砂浜を汚さないように、それでいて海のそばにあれるように、崖に木を打ち込み、そうして家を作って暮らしていました。

地を愛した人々は、谷に糸で地面を編み、引き裂かれた大地と大地を繋いで、そうして家を作って暮らしていました。

崖に住まう人々は、壁に張り付くようにして立つ家々を白で塗り、陽と月の光によってその色を変える海とともにその白壁を輝かせました。

崖に住まう人々のバルコニーには、たくさんの洗濯物を干すための綱が張り巡らされ、飛び疲れた水鳥たちはその綱で羽を休めました。


そんな崖に住まう人々は、ただただ海に恋い焦がれ、海を敬い畏れ、海だけを見つめていました。

そんな崖に住まう人々の中で、1人の女の子はいつも1人空を見上げていました。

海のように青いスケッチブックと黒いペンを持った女の子を、人々はエシと呼んで可愛がりました。なぜなら女の子の髪は夜の海のような白銀で、女の子の瞳は昼の海のような蒼穹だったからです。

そんな女の子が空を見上げれば、青い瞳は一層その深みを増し、崖に住まう人々は海の申し子として女の子を大切に守り育みました。

女の子の肌は陽に触れても焼けず、塩のような純白を保ち続けていました。

成長するにつれその美貌に磨きのかかっていく女の子に、人々は夢中になりました。

女の子は白ベランダのお姫様と呼ばれ、大切に大切に育てられました。









「…って話を聞いてたんだけどな?」


なにやら目の前で騒音を発し続ける物がある。

いつもならすぐに片付けられるというのに、こう長く騒ぎ続けるとは珍しい。


でもそんなこと、ドウデモイイ。


「ねえ、聞いてるー?」


真っ黒な空に、真っ赤な瞳。

私を睨みつけて身を焼き焦がす天の瞳。

それを、誕生日に与えられたペンで描きとり、写し取る。

それが、夜の白銀と、昼の蒼穹と、黒いペンと、青い海のスケッチブックを与えられた私の仕事。

空の陽を写し取り、人に与えるのが私の仕事。

空の陽の映し出すのは海の機嫌とこの世の未来。


「ぁぁ…」


くだらない、クダラナイ、くだらない、くだらない


「ねえ、君はいつになったら俺を見てくれるんだい?」


私を見ない人々なんて

私の見えない色なんて

私が見たことのない海なんて


消えればいい。








「わんっ」


ふと目線を下げれば、くりっとした瞳にすべすべの毛の犬がいた。

物語でしか知らない、綺麗な生き物。

低俗で強欲で下賤な地をはい海を嫌う生き物。


「…おいで。」


空から目を落とし、犬に手を差し伸べる。


「お前は私を迎えに来たのだろう?」


「わふっ?」


ぱったぱたと犬がしっぽを振る。

やはりそうなのだ。

この犬が、この犬こそが、私を殺しに来た(迎えに来た)御使いなのだろう。


「さあ、喉笛?手首?それともお腹?どこを食い破る?どこを引き裂く?それともこのベランダから身を投げようか?」


犬が硬直する。

恐れることはない、お前はお前の役割を果たせばいいだけなのだから。

初めて見た、人間と海鳥以外の生ある生き物。

こんなにも格好いい生き物がこの世に存在したとは知らなかった。

ふかふかの首回りに手を回し、相変わらず真っ黒な瞳を覗き込む。


「さあ、お前はどうやって私殺してくれるんだ?」







「ああ、久しぶり、だ、ね…?」


鳴き声に振り向いた私は思わず首を傾げた。

あの素晴らしくかっこいい犬、私に死を運んでくれる運命の獣と思って見た先には、あの犬によく似た、ぬいぐるみがぽつねんと置いてあった。

安楽椅子から立ち上がり、誘われる様にフラフラと犬のぬいぐるみの方へ近寄っていく。

ぬいぐるみに手を伸ばし、逡巡する。

犬から香る、独特な匂い。この匂いを、ここ数年よく嗅いだ気がする。

あの犬が現れる前から、定期的に。

煩わしくない騒音を伴って。


「…そんなわけないか」


崖っぷちの家。

逃げ場のない海と遥かに遠い空しか見えない白いベランダ。

海の色と陽の紋様だけを求めて私を囚える海の狂信者たち。

黒と白で構成された世界で、私を焼き焦がす唯一の紅。


私を煩わせ、私を苦しませる憎き世界。

この世界は、何とおぞましい。

何て残酷で、何て醜いのだろうか。

かつてスケッチブックに綴られたのは、海を愛し空を仰ぐ心優しき少女の祈りと祝福であった。

今、綴られるのは世界への呪詛。

ただ1人陽の言葉を読み解ける少女が、改竄しないと信じきる人々の愚かさへの嘲笑。


「海を愛し、恋い慕うなら…」


海に殺されるならば、本望でしょう?


飾りと落ちた白いカードを、踏み躙って少女は嗤う。

少女の細くて白すぎる腕に抱きしめられた犬のぬいぐるみは、苦しそうな、悲しそうな顔をしていた。







「もうおやめください、若君」


「なんで?愛しの婚約者に会いに行くことの何が悪い」


せっせと長い髪を梳かす少年に、周りの者は困り果てていた。

海を愛し海に恋し、海だけに傅く誇り高き海の民。

神の海に仕えているのだと寡黙で閉鎖的な白い家々の住人は、唯一谷の民とのみ、交流をしていました。

彼らの住まう家の木や煉瓦は海辺にいては手に入れられないものだからだ。

海を臨み海を神聖視する海の民と、谷に根ざし自然と戯れる谷の民。

双方の考えの違いはあまりにも大きく、海の色を持つ少女と大地の神に愛された少年の婚約は形骸的な物であるはずだった。


黒に見紛う深緑の髪と、狼の様な金色の瞳。

明るく悪戯好きな谷の民の大切な若君は、なぜか最初から海の少女に執着していた。

男にしては長すぎる膝裏までに伸ばした髪も、微かに纏う谷の花の香りも、身につけた武術や知識でさえ、すべてがすべて彼女のために。


青いスケッチブックに、黒いペンでこの世の行く末を描くベランダのお姫様を谷の民は歓迎していなかった。

谷の民にとって海は魚や貝を恵んでくれる優しき父であり、獣や木の実を恵んでくれる大地は慈悲深き母であり、遥かに高き天はすべてを見守る祖父母であった。


「あの白ベランダのお姫様は人の言葉を介さないと聞きます。常に空だけを見上げて、誰の言葉にも反応しないと。どうか行かないでください、我らの愛しい若君。」


追いすがり、懇願する人々に向けられたのは、悲しみと、怒りと、微かな絶望。


「ねえ、君たちは俺のことも、人の言葉を介さないと思う?」


くるりとその場で回った少年は、もうそこにはいない。

見事な毛並みを持つ、精悍な若狼の放つ瞳の悲しさに、谷の人々は瞠目した。

大地の神に愛された者は、大地で生きる姿を2つ与えられる。

仲間思いで気高い狼の姿を持つ少年を、人の言葉を介さない獣だと思ったことのある者は誰1人いなかった。だからこそ、少年の問いに困惑した。

黙ってしまった谷の人々を放って、少年は屋敷を出て、糸で作られた架空の地面を強く蹴る。


ーーあなたには、わたしが、みえるのか?


ひどく伽藍堂な、不思議そうな、瞳をしていた。

海を閉じ込めた硝子玉の瞳は、俺が彼女を知った時にはもう遅かった。

彼女の心はすでに全てを諦め、絶望をも通り越してすべてに対して無関心であった。


ーーあなたには、わたしのこえが、きこえるのか?


抑揚のない、美しいだけの声をしていた。

海の輝きだけを集めて作り出された様な声は、俺が彼女を知った時にはもう遅かった。

彼女の心はすでに全てを拒絶し、死をも通り越してすでに消え去っていた。


「ぅぅぅ…ぁああおぉぉぁぁおぉおおおおおおん」


四肢で大地を掴み、海へと駆ける。

喉から溢れる咆哮は、どう考えても人の出す音ではなく、人の姿も人の声も持たないのに人の心を持つ自分が、とても残酷な生き物の様に思えた。



彼女には、人の姿と人の声と、人の心が与えられていたのに、彼女は人の心を持つことを諦めてしまったのだから。








「ねえ、お前に名前をつけてもいいかしら。さっき本を読んだのよ。『その死に名をつけるならば、絶望以外の何物でもない。』ねえ、面白いだろう?物語の人物は形なき死に名前をつけた…」


相変わらず花の匂いを纏う犬の胸元に、顔を埋める様にして抱きついた。

犬の毛皮はいつだって冷たい風に晒され続けたかのようにひんやりと冷たく、少女の陽に焼かれた肌を冷ましてくれた。

騒音を撒き散らすものは最近めっきり姿を見せず、花の香りと風の冷たさと沈黙だけを連れてやってくるこの犬を、いつしか少女は受け入れていた。


「お前の名前は何がいい?お前は私の死、私の終わり、私の迎え。私をこの世界から解き放つ獣。」


そう言うと、犬は黒い瞳を困ったように彷徨わせる。

耳はぺたんと垂らし、居心地が悪そうに身動ぎをする。


そんな犬を落ち着かせるように、逃さないように、私はさらに強く抱きつく。


「いいの、まだその時じゃないからね。その時になったら、あなたが私を殺してくれるのだから。私から強請るのは鬱陶しいだろう?だからそう…あなたの名は、イツカ。」


私は願った。呪った。恨んだ。

そしたら陽は応えた。

終わりを与えると。


きっとこの犬が私の終わり。私を終わらせてくれる、海に愛された私を殺してくれる存在。


「イツカ、イツカ、イツカ。」


いつか。いつかきっと。


私を殺してね、イツカ。








「やあ、元気にして…っ、ダメだ!!」


久しぶりに人の姿で白いベランダを訪れた日、目の前に広がったのはベランダの手すりに立つ、美しい少女。


胸に何かを抱くように猫背だった少女が、パッと花開いた。

広げられた両手、伸び上がる体。

俺は思わず彼女に飛びついて引き寄せていた。

勢いのままに尻餅をついた俺は、その光景に目を見張った。


空を舞うのは、複雑な紋様の描かれた幾百もの紙切れ。

その黒は、まごう事なき少女の黒ペンが描き出す色。


ならば、あの紋様は。


「…イツカ?だめだろう、引っ張っては。殺すならあの暗い穴へと落としてくれなくては…イツカ?」


暗い穴へと。

少女は少年が狼の姿…少女は犬の姿だと思っているが…狼の姿の時、楽しそうに死を語る。

そんな時、少女は海を暗い穴と表す。暗さなんてかけらもないあの美しすぎる海を。


「お前、イツカじゃないね。どきなさい。」


もがく少女を抱きしめた。

それに自分が気づいたのは、腕の中の少女が怒りに目を吊り上げて睨んできてからだった。


「離しなさい。」


「…君は、犬が好きなのか」


初めて、人の姿で少女と目があった。

少女が俺を認識し、俺に言葉をかけた。

それはひどく衝撃的だった。


「お前はイツカじゃない。」


繰り返す少女に、質問を変える。


「あの紙吹雪は陽の紋様か?」


「お前はイツカじゃない。」


「なぜベランダに立っていた」

「お前はイツカじゃない。」

「落ちてもいいのか?」

「お前はイツカじゃない、」

「なぜ海を嫌う?」

「お前はイツカじゃない。」


壊れたように繰り返す少女に、頭を掻く。

どうやらイツカ以外には応える気は無いらしい。

そもそも『イツカ』では聞く事もできないが。


以前贈った犬のぬいぐるみは、椅子を与えられてちょこんと座っていた。

首のリボンに添えていたはずのメッセージカードはどこにも見当たらない。


「…じゃあ、イツカになら話すのか、」

「お前は、イツカじゃない。」


それは肯定の同義。

俺は黙って、少女の前から立ち去った。









「ねえ、イツカ。今日もお前と同じ香りの男が来たんだ。あれは暇なのか?飽きもせず私に構って。ああ、イツカ、聞いてくれ。」


ちょうど男とすれ違うようになってきた大きな犬を抱きしめて、少女は歌うように繰り返す。



「イツカ、イツカ、聞いてくれ。陽の紋様が教えてくれた。

イツカ、イツカ、聞いてくれ。海を愛した神の言葉だ。

イツカ、イツカ、聞いてくれ。私は神と世界を憎む。

イツカ、イツカ、聞いてくれ。10と3日後の満月の日だ。

イツカ、イツカ、私の終わり、私の死、私のお迎え、私の犬。

陽の紋様が当たらなくなった。当たり前だ、私が改竄しているのだから。海の人々は殺すらしいぞ、海に放って供えるらしい。海の怒りを解くために、海の怒りを鎮めるために。

イツカ、イツカ、私は死ぬよ、10と3日後の満月の日に。」


今までにないほどまん丸な目をしたイツカに、思わず笑ってしまった。

翼も鰭も鱗もないこの獣は、きっと大地の神の眷属なのだろう。

海の神が私に死を与えてくれるわけがない。


「ねえ、イツカ。愚かだと思わないか?大切にしてきた白ベランダ少女に裏切られて、海の民は海の神の最愛を殺して、」


犬の花の香りに顔を埋める。


「世界を滅ぼす引き金を引くのだから。」






「若君、何をなさっておいでです。」


「君は覚えてる?すっごく昔、まだ俺が幼かった頃さ、海に行って、女の子を連れてきちゃったこと。」


「ああ、そんな事もありましたね。…この書庫にきたんでしたよね」


少年は書庫を漁っていた。

狼の姿で外を駆け回ることを何よりもの楽しみとする少年が、人の姿で本を読みふけることがそんなにも珍しいのか。朝から、空から槍が降るだの、谷の糸が切れて町が落ちるだのみんながみんな言いたい放題だ。


「全く笑わないあの子にさ、俺、頑張って物語を読み聞かせたんだ。まあ、正確には俺の創造の、絵本だったけどさ。」




まだ、あの海の少女と婚約を結ぶ前だ。

狼の姿も人の姿も、とにかく大地が愛おしくて、日々が楽しくて、全てが輝いているように思えていた頃のこと。

俺は走って遊んで飛んで跳ねて、そしていつしか白い石の中に迷い込んだ。

狼の姿の俺を、谷の民は怖がらず、むしろ美しい幸いなる獣として扱ってくれた。だから、俺は海の民がなぜ起こって追いかけてくるのか理解できなかった。

逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。

パッと開いた視界に飛び込んできたのは、俺たちを支える糸のような白い髪と、俺たちを見守る空のような丸い瞳を持ち、心をなくした人形だった。

この世界に存在する色に、染まることを拒絶したかのような、色を持つ人形だった。


「くぅんっ…」


その異様さに、世界を全身全霊で拒絶するような少女のあり方に、俺は恐怖した。

それでも、俺を見て拳を振りげない少女のいる白い白いベランダへと、飛び込んだ。


「にっ、逃げよう!!!!」


助けを求めるはずだった。

恐怖を感じていたはずだった。

その頃の俺はまだ、人の姿も獣の姿も完成していなくて、俺は獣の姿でも人の言葉を話すことができた。

突然飛び込んできた人の言葉を話す小狼に、少女は目を瞬かせた。


「あなたには、わたしが、みえるのか」


「見えるよ、見える!ねえ逃げよう、早く逃げよう!」


「あなたには、わたしのこえが、きこえるのか」


そして少女は、俺に頷いた。




「驚くなんてものじゃありませんでしたよ、あの時は。私たちの大切な小狼の若君がどこの誰とも知れぬ幼女を連れてきてしまったのですから。」


今更ながらに当時のストレスを思い出したのか、しきりに胃のあたりをさする側近が遠い目をする。

…うん、彼には散々迷惑をかけてきた。


「悪かったって。それで、あの時俺は、」




小狼と特異な色を持った少女が逃げるのはさして難しいことではなかった。

海の民の目も心も、いつだって海へと向いていたし、陽を読んで運命を知ることのできる少女と獣の嗅覚と本能を持つ俺にとって、ただの人間の網をかいくぐる事は造作もなかった。

あの時の2人(おれたち)は、幼くて、小さくて、神に近い場所にいたから。

少女が長くは走れないことは、そのあまりにも細く白い足を見ればわかったから、俺は野の狼に手伝いをお願いし、少女を狼に乗せて谷へと連れ帰った。あまりにも目立つ少女の髪は、狼の通る道を駆け抜けてきたせいで茶色く染まってしまっていた。

大地の神の恩寵を一身に受けて贈られた俺が、幼女を誘拐してきたのを見て、俺の側近は卒倒しそうになった。彼の心配をつゆ知らず、俺は当時隠れ家にしていた書庫に少女を誘った。

俺と少女は話した。

ぽつぽつと、ぽつぽつと。




「うっかり書庫を覗いて驚きましたよ。狼と美少女が向かい合って…悲しい問答を繰り返していたのですから。」




「なんで君は笑わないの?」

「笑う意味ってなに」

「なんで君はなんの匂いもしないの?」

「必要ないから」

「なんで君はあんなに寒くて怖い場所にいたの?」

「そう望まれたから」

「なんで君はそう望まれたの?」

「海の色を持っていたから」

「なんで君は海の色を持っているの?」

「海の神に愛されてしまったから」

「なんで君は海の神に愛されたの?」

「憎まれてたんじゃないの」

「なんで君は海の神に憎まれたの?」

「私が私だったから」

「なんで君は君なの?」

「私であれと願われたから」

「なんで君はそう願われたの?」

「海の民は海を欲していたから」

「なんで海の民は海を欲するの?」

「美しいものを所有したいから」

「なんで美しいものを所有したがるの?」

「それが美しいからでしょう。」

「なんで?」

「美しいものは美しいでしょう」

「なんで?ぼくたちは大地を所有しようとは思わないよ。大地と寄り添って生きるだけで幸せだよ、なんで所有したいと願うの?」

「そうあれなかった末路が海の民」


「どうして?海の民が望んだのが海なら、なんで君が囚われなきゃいけないの?」


「海の色を持って予言ができたから。」


「そうじゃなくて、なんで?き、み、が、囚われなきゃいけないの?」


「だからそれは、」


「海と海の民に、君は関係ないのに、なんで?君は何も悪いことをしていないのに、なんで?」


「…私だって、知りたいよ。」


「きみは、きみ自身は何を望むの?」


「……わからない、もう、何も」


その言葉は、たぶん、彼女の砕け散ってしまった心の最後の欠片の輝きだったのだと思う。




「総毛立ちましたよ、自分より遥かに年下の子供達が話している内容に。神に愛された2人の子供が、神に近い幼子が、話していい内容ではありませんでした。私たちが神に愛された子として大切にしていたのに、その子供の中身がそこらの子供と同じ幼子だということを失念していたことに誰も気付けなかった。」


「でも、お前は気づいた。だから、俺を普通の子供のように育ててくれて、あの子をすぐに追い出したりはしなかった。」




空っぽで伽藍堂で透明で透き通った少女の瞳に、感情の欠片、心のかけら、想いの欠片が揺らいだことに俺は見惚れていた。

そんな俺たちの静寂をそっと断ち切ったのは俺の守役をしていた男だった。

いつだって俺に傅いて俺とは失礼にならないようにと、目を合わせなかった男が、俺の目を見て俺の名を呼んだ時、俺は人の姿に戻っていた。

俺の目が潤み、俺の目が溶け、俺に男が触れた時、獣と神に引きずられていた俺は、確かに人間に引き戻された。

男に愛用のスケッチブックと黒いペンを持ってきてもらった俺は、拙い言葉と幼い画力で頑張って物語を語った。





むかしむかし、ここからずうっと遠い国に、それは綺麗な海がありました。

朝には黄金に、昼は蒼穹に、夕方は赤金に、夜は白銀に燃え立つその海を、人々は神様の住まう海として大切にしていました。

海辺に立つ家々は、神様のお庭である浅瀬や砂浜を汚さないように、それでいて海のそばにあれるように、崖に木を打ち込み、そうして家を作って暮らしていました。

地を愛した人々は、谷に糸で地面を編み、引き裂かれた大地と大地を繋いで、そうして家を作って暮らしていました。

崖に住まう人々は、壁に張り付くようにして立つ家々を白で塗り、陽と月の光によってその色を変える海とともにその白壁を輝かせました。

崖に住まう人々のバルコニーには、たくさんの洗濯物を干すための綱が張り巡らされ、飛びつかれた水鳥たちはその綱で羽を休めました。


そんな崖に住まう人々は、ただただ海に恋い焦がれ、海を敬い畏れ、海だけを見つめていました。

そんな崖に住まう人々の中で、1人の女の子はいつも1人空を見上げていました。

海のように青いスケッチブックと黒いペンを持った女の子を、人々はエシと呼んで可愛がりました。なぜなら女の子の髪は夜の海のような白銀で、女の子の瞳は昼の海のような蒼穹だったからです。

そんな女の子が空を見上げれば、青い瞳は一層その深みを増し、崖に住まう人々は海の申し子として女の子を大切に守り育みました。

女の子の肌は陽に触れても焼けず、塩のような純白を保ち続けていました。

成長するにつれその美貌に磨きのかかっていく女の子に、人々は夢中になりました。

女の子は白ベランダのお姫様と呼ばれ、大切に大切に育てられました。


一方、谷に住まう人々は、大地に寄り添い、大空に見守られ、大海の恵みを与えられてのびのびと過ごしていました。

そんな谷に住まう人々の中に、1人の少年がいました。少年は犬の姿と人の姿を持っていて、大地の神様に愛された少年は、1人の守役以外をそばに近づけずに、いつだって空を見上げていました。

数多の動物に愛され、守られ、野を駆け、山に遊び、川と戯れる少年を、人々はイヌと呼んで崇めました。

人々に傅かれ、動物たちにも仕えられ、なんだか疲れてしまった少年はある日お散歩に出かけました。野を超えて、山を越えて、谷を渡って、川を遡って、

そうして見つけたのは、真っ白な建物の連なる崖でした。

海の人々は犬の少年を悪い狼だと思って怒って追いかけ回し、少年はびっくりして白い迷路を逃げ回りました。助けて、助けて、そう思いながら走っていた少年は、突然広いところに飛び出しました。


遥かに高い空を見上げていた少女に、少年は声をかけました。逃げよう、ここから逃げようと。

空を見上げていた少女は、地をかける少年に頷き、真っ白建物から逃げ出しました。

少年の友達の狼に乗せて、少年と少女は逃げました。

逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて、

そして2人と1匹は広いお花畑につきました。

月光に照らされて、白い花の輝くお花畑で、少年と少女は疲れて座り込みました。

少年は少女やお花や狼を、いつも持ち歩いているスケッチブックに、黒いペンでうつしとりました。

少年と少女は幼くて、まだ小さくて、少女の体も少年の心も、生まれ育った場所から逃げ続けるにはまだ早かったのです。

花を、狼を、少女を、思い出を

写し取った少年は、少女にスケッチブックと黒いペン、そのどちらをも渡しました。

いつか大人になって、きみが望んだら、僕が力を得たのなら、いつか必ず迎えに来るよと。

君の望みを僕が叶えてあげるから、君が笑えるように僕が頑張るから、だから忘れないでと。

それから数年後、少女が本当に耐えられなくなった時、





「やっぱり、そうだ。そうだった。」


「何がそうなんですか?若君?」


「ねえ、覚えてる?俺のとこにお前が黒いペンとスケッチブックを持ってきて、俺があの子に物語を語ってた。」


「もちろん覚えてますよ。あのかわいそうな子への、若君の心遣い…そう、いえば」


「あの時、あの時、俺たちは、俺たちは間に合わなかった。黒いペンと、スケッチブック。それだけは渡せた、あげられた、だけど、」


剣戟と怒号、響くのは悲鳴。

あの物語は書き上げられなかった。

叶えられるかわからないあやふやな約束と、わずかな優しさと夢を見せた。

それだけで、それ以上を与えることができずにあの女の子は連れ帰られてしまった。


そうして、もう一度会ったあの子の瞳には。



ひとかけらの心さえ、残ってはいなかった。


世界を呪い、拒絶する呪詛を謳うあの子の持つスケッチブックは、



俺のあげた森の緑ではなく、海の青い青い、青をしていた。











「なぜ陽の紋様を読めないのだ?」


「海の色を持ちながら欠陥品だなんて」


「あれは海の神に捧げようじゃないか。神はきっとお喜びになられる。心のない人形だろうと、見目だけは美しいのだから。」


「ならば、海に捧げずに姿かたちだけとってはおけないだろうか。」


「いや、我々の私情で動いてはならない。あれは素晴らしい供物になる。」


騒音がする、雑音がする。

私の髪に、瞳に、手が、舌が、息が、触れて舐めて、近づいて、離れて、


ああ、憎い、この世が憎い、

黒と白と陽の赤だけしかないのに

何が海の色だ、何が神の色だ

所詮この世には陽の赤しかないではないか


ああ、早くきて、私の犬。私のイヌ。

私に終わりを連れてくる、私のイヌ。

早くきて、私は待っているから

私はいつまでも待ってる


はやく、はやく、はやく私を、



コロシテ?











「7日後の満月には何がある?」


「7日後、ですか?それなら海の民の祭典があります。海の神に供物と祈りを捧げて、願いを叶えてもらうそうです。」


昔のことを調べるのに想像以上に時間がかかってしまった。

俺が昔語った物語は、影で聞いていたこの男がメモして、さらにわかりやすくまとめてくれていた。

だからその物語が最後まで語れなかったことも、約束の詳しい内容も、思い出すことができた。

それより手こずったのは海へと向かう地図だ。

あの幼い日に少女を連れ出してから、海の民は谷の民を警戒するようになった。そして、俺とあの子が婚約した今もあの崖の街に行く時は目隠しをされて移動している。


このままでは、間に合わない。

間違いなく、あの子は供物にされる。

最近白ベランダのお姫様の予言が当たらなくなったと海の民が話しているのを聞いた。

壊される。

かつて心を叩き壊され砕き壊され、それでも足らずに欠片の一つまで取り零すことなく消された少女が。

あの子の魂を、ギリギリでこの世に引き止めている器が壊される。


許してはならない、あの日、あの夜、たった一晩で俺はあの子に恋をした。

山頂の岩が転がり、川を、滝を、遠く旅して海へと流れ着くように、渇いた獣が本能的に水を求めるように、たった一晩で俺はあの子に恋をした。

それから、婚約をして、もう一度あの子にあった。


砕かれた心を綺麗さっぱり失ったあの子の悲しさに、寂しさに、痛々しさに、俺の恋は愛へと変わり、


そしていつしかあの子は俺になっていた。

あの子は俺、俺はあの子。

海に愛されたか、大地に愛されたか。

きっかけがあったか、なかったか。


ほんの僅かな違いで、俺は人を愛し愛され温かさを知った。

あの子は人を憎み呪い、冷たく冷たく壊れていった。


「俺は、迎えに行かなくちゃいけない。あのときの、約束の通りに。」









スケッチブックを繰る。

陽の紋様が描き出されたそれを見て、ビリビリに引き破る。

1枚、また1枚、もう1枚。

何度もしっかり確認して、破っては海へと舞い落とす。

いつしか癖になったその作業をしていると、なぜだか口の中に甘い匂いが広がる。

これはあの匂いだ。

私に死を運んできてくれる、私を迎えに来てくれた犬の匂いだ。


イツカ、イツカ、イツカ、イツカ、

イツカ、私を迎えに来て、私を迎えに来て、


私を、あなたの元へ逝かせて、イツカ。


破って、破って、破って、破って、

ページを繰るたびに黒いペンが書きなぐった陽の紋様が現れる。

どんなに破っても、どんなに繰っても繰っても、現れるのは陽の紋様。


イツカ、イツカ、イツカ、イツカ、


いつか、わたしを、あなたのもとへ、いかせて


体がどんどん軽くなる。

もとより空っぽだった胸がさらに空虚に、冷たい空気で満たされていく。

あと3日、それで私は死ぬ。

海に捧げられて、この世を終わらせる引き金となる。

そして、イツカ、私のイヌが私を迎えに来る。


「早くきて、イツカ。私を殺しに来て、私のイヌ。」












「さあ、神の愛した海に、海の神の元へ帰る準備が整ったぞ。」


「ああ、もったいない気もするな。あの海の色を丸々海の神に捧げるのは。」


「それなら半分だけ分けていただけばいいのではないか?我々と、海の神とで半分に。」


「それはいい考えだ!」


積もったスケッチブックの山の中で空を見上げていた私を、騒音が蹂躙した。散々賛美していた膝裏までの髪が背中までに切り落とされた。

時は来たと、私は黒いペンを握りしめた。


世界よ滅びろ、色よ失せろ、海の荒れ狂い命を押し流せ

終わりのイヌよ、私を迎えに来て

世界が憎い、海が憎い

私を見ない者たちが憎い


「やはり素晴らしい色だ!夜の海の色、天上の白銀!これこそ神の色!」


「まるで海に触れているようじゃないか。なんと、なんと美しい!」


私の声を聞かない者たちが憎い

私の体を蹂躙する者たちが憎い

私を壊し歪めた者たちが憎い

私を愛した世界が憎い

私を愛した海の神が憎い


「おいおい、まだ残っているじゃないか。昼の海の色、蒼穹も海の神と俺たちとで半々だろう?」


「そうだったそうだった、浮かれすぎてしまったな。ああ、この白金は1人に数本、この蒼穹は町の宝にしよう。」


「新しい器は持ってきたぞ!欠陥品を取り押さえておけ!」


私の肌を焼く陽が憎い

私の瞳を舐める人々が憎い

私の髪を引っ張る人々が憎い

私から色を奪った全てが憎い

私を苦しめる私には見えない色が憎い。


「早く抉り出せ!」


「早く、早く俺たちのものにしろ!」


「そもそもこいつが占有してるのがおかしかったんだ!」


イツカ、イツカ、早く私を迎えに来て(コロシニキテ)







太鼓がなる、法螺貝がなる。

海を讃える賛美歌は厳かに

海に焦がれる恋歌は高らかに

海を渡り空に舞い上がり、大地を駆け抜ける

左目を失い、長かった髪を半分に切り取られ、

殴れ蹴られ踏み躙られてボロボロの体を、

美しいだけの衣装で包んで、


白いベランダのお姫様は、粛々と崖の淵へと運ばれる。


「海に愛され、海の色を持ち、陽の紋様を読み解く白いベランダの姫を、海の神にお返し致す。」


祝詞が読まれ、重なる歌に熱狂が混じる。


イツカ、イツカ、どこにいるの?

私を殺すイヌよ、私に死を与えるイヌよ。


まあいい、これで終わる。

これでいい。


「さあ、さっさと飛べ!」


「海に身を捧げることを光栄に思いなさい!」


「ママぁ、うみのかみさまになにをおねがいしよう?」


「金と女と酒、金と女と酒、金と女と酒、」


「あー、どうしよう!ドキドキしすぎて死んじゃいそう!」


ならお前が死ね。

いや、そんな呪詛を今更口にする必要なんてない。


空を見上げる。白い月。

前を見る。暗い穴。

風に吹かれる髪を見る。白い髪。

痛む瞳は、ただの黒。


「さあ、逝こうか」


崖っぷちへはあと3歩。

1歩、2歩、


「俺は大人になって!」


それは、白い花の香り。


「きみが望んで!」


振り向けば、そこには、大きな狼に乗った、青年。


「僕は力を得たから!」


手に携えたのは、月光に輝く白い花。


その髪は、森を思わせる、


「迎えに来た!今日がいつかだ!約束の時だ!言って!君の願いを!」


ああ、幼い少年。ふとすると子犬になってしまう少年。

私を見て、私を呼んで、私を聞いて、私に触れた、


私のイヌ。


少年が駆け寄ってくる。


これが終わり、これが最後。


あなたに見送られるなら、この痛みも憎しみも、それだけではなかったと、思える。


「言って、言うんだ!君の願いを!!!!僕は君を迎えに来たぞ!!!!約束の物語の通りに!今度は、今度は君が約束を果たせ!!!!」







剣戟の音、血の匂い、ガタガタと書庫が揺れて、屋敷が揺れる。

谷に張り巡らされた糸が撓み、揺らぎ、少年と少女が書いていた物語を読ん否応なく終わらせる。

少年と少女が食べていた、月光花の砂糖漬けまで、倒れてしまって、


「いたぞ!海だ!海の青だ!」


「連れ戻せ!早く!」


「ゔうぅぅぅぅ!!!がるるるるる!!!」


少年は小狼の姿に変化して、精一杯少女を小さな背中に隠す。

書庫に充満するのは、甘い甘い花の香り。

暗い書庫に散らばるのは、月光花の砂糖漬け。

書庫に指す月明かりだけが、少年の金色の瞳を燃え上がらせる。


「おい!また狼だ!」


「いや、今度は小さい!死ね!穢らわしい獣め!」


「きゃうんっ!」


弾き飛ばされた少年は、取り押さえられる少女にもう一度かけもどる。

途中で、少年の大切な黒いペンを咥えて。

少女に思いっきり、飛びつく。

触れたのは口、双方から香る、月光花の砂糖漬けの、甘い甘い、花の匂い。


「っ!」


「持って行って !いつか!大きくなって強くなって迎えに行くと約束するから!君は君の願いを言うと約束して!!!ぎゃんっ!」


「この畜生め!さっさと帰るぞ!こんな穴倉にいては汚れる!」


押し付けられた黒ペンと、必死に手を伸ばして拾ったスケッチブック。

また逃げられてはたまらないと、海の民は少女のわずかに残った心をきれいに消し去ることにした。

崖に戻った少女は、殴られ、蹴られ、踏みにじられ、食を与えられず、水を与えられず、苛まれ虐め抜かれて、そうして心を失った。

そして、心を失った少女の前で、少女の心を救うはずだった森の緑のスケッチブックは、ビリビリに引き裂かれて、海の藻屑と相成った。

月夜の光に照らされて、白い白い花弁のように、月光花の砂糖漬けのように、光を湛えるその様をみて、


少女は甘い匂いを感じた。





「君の!君の願いは!」


剣の抜く音、弓矢を構える音、


「また来やがった!穢らわしい獣め!」


「殺せ!殺せ!殺せ!ころせ!」


騒音と言いながら、甘い匂いを纏う青年の声は、届いていた。確かに、私に。

匂いと、犬の姿と、犬のぬいぐるみ

ひんとはたくさんあったのに。



でも、ごめんね、



足を踏み出す、最後の1歩。


少年の手が伸ばされる


「わたしの、」


弓が引きしぼられる、大きな狼が遠吠えをする


「願いは、」


雪崩れ込んできた狼たちに、海の民が応戦する。


わたしの願いが、やっと叶う、

世界が憎くて世界が呪わしくて、大嫌いで、


ようやく、殺してくれるのね


ああ、願いを言おう。


崖の淵を、ついに蹴る。







「助けて」






…え?ちがう、わたしの願いは、わたしのねがいは…?

わたしの願いは、死ぬことじゃ、


「うん、わかった。」


唇に触れるのは、口の中に差し込まれたのは、甘い甘い、月光花の花弁。


狼の腕力で体が引かれる。

その反動で、彼我の位置は入れ替わる。

青年が笑う。


月の光に白銀に輝く海を背景に。

森を思わせる深緑の髪と、狼を思わせる金の瞳を輝かせて。


わたしの足は地面につき、狼たちがわたしの衣を噛んで引き止める。


そして、わたしのイヌは、わたしを迎えに来てくれた人は、


わたしの願いを叶えてくれる人は、


夜の白銀の海へと落ちていく。





そうして、大地の神と谷の民に愛された

美しく優しく花の香りを纏う狼の青年は


夜の白銀に呑まれて消えた。











私が気づくのは、あまりにも遅かった。

彼が気づくのも、あまりにも遅かった。

私たちはいつだって遅くて。


犬のイツカであり、私の婚約者であり、大地の神に愛された狼であり、私が殺した優しい青年が死んでから、5年の歳月が過ぎた。


海の民は怒り狂った海に飲み込まれ、

泣き叫んだ大地に封じられた。


私は大地の裂け目の谷の、彼が住んでいた屋敷の一室を借りて、毎朝海に彼の姿を探しに行っては、また戻ってくるという生活を繰り返している。


「あなたたちは、私を憎まないのか」


「何を憎む必要があるのです。群れの仲間は望んであなたを助け、あなたは群れの仲間の望み通りに助かったではないですか。」


大地の神に愛された狼である男は、あの日茫然自失となった私をここまで連れてきて、谷の民たちは彼らの最愛を殺した私を受け入れてくれた。


「私が彼を殺した。私が気づくのが遅かったから、彼は死んでしまった。私が独りよがりで周りを見なかったから、海の神は私を縛るものを壊し滅ぼしはしたけど、彼を返してはくれなかった。」


私が願ったのは、私を捕らえる世界の破滅。

海の民もあの崖に張り付いていた家も、もうない。


願いは叶った、叶ってしまった。


「ねえ、海に連れてってくれないか。」








いつもは、朝に来て、夕方には帰る。

夜の海を、彼を飲み込んだ白銀を見に来るのは5年ぶりだった。

私をここまで送ってくれた男に感謝を述べて、しばらく1人にしてくれるようにと頼んだ。


あの大きな狼は優しい。

初めて私があの谷へ逃げた時も、私を受け入れて守ってくれようとした。

そして、おそらく私の考えていることに気づいて、なお私を1人にしてくれている。


彼は命をかけて、海に願った。

海はそれに応えて、海の民を滅ぼした。


ならば。


「私の命をかけて、あなたを引き戻す。」


あなたは愛されている。

あなたは帰る場所を持っている。

あなたの帰還を待つ人がいる。



ふと、甘い匂いを嗅いだ気がした。



「…行こう、逝こう、今度は私が、君を取り戻す。」


ゆっくりと歩き出す。

崖の淵まで、月の光を浴びて。

1歩、2歩、3歩、4歩。


崖の淵までは、あと3歩。


笑みが零れる。


「帰ってきて、私を迎えに来て、私、何度だって約束を果たすから。」


1歩、2歩、


「俺は大人になって、」


…花の匂いがする。甘い甘い、花の匂い。


「君が望んで」


足が止まる。でも振り向けない。

ここ数年、何度も気配を感じて振り返った。


「俺は力を得た」


何年間も、いつか、いつか君が現れるんじゃないかと、何度期待して振り返っても、君はいなかった。

だから、だって、君はいるはずがなくて。


「迎えに来たよ、約束通り。今日がいつかだよ。約束の時だ。さあ、君の願いは?」


後ろから、頭をこすりつけられる。

その体温は、間違うことない、あなたのもの。


1歩、2歩。ゆっくりとあとずさる。

白銀の海からあとずさってあとずさって、振り向いたそこには。


「僕と君が書いた物語。海の神はあの供物を気に入ってくれたらしい。海の民を滅ぼして、崖の街を押し流して、君の傷を治して、俺を生き返らせて、俺を地上に戻して、それでなお、あと一つ願いを叶えてくれるらしい。」


ああ、愛おしい人。

5年ぶりに見たそこには、深緑の毛並みを持った、金の瞳の大きな大きな美しい獣。


「さすがに、死者を生き返らせることは難しくて、人としての俺は死んだけど、狼としての俺はまだ生きてる。さあ、君の望みは?」


たとえ姿が獣だろうと、あなたはあなただ。

帰ってきてくれた、戻ってきてくれた、生きていてくれた。

何度も何度も、約束を果たしてくれた。


人の心を失った人の形をした私を、

人の形を失って、人の心を持ったあなたが助けてくれた


「わたしのっ、わたしの、願いは!」










かつて、海と谷とを隔てた森は、誰も立ち入ることを許されない神域となっていた。

海の神と、大地の神と、空の神に祝福された森には、今日も狼の群れが駆け回る。


一際大きな深緑の狼が、小狼に囲まれながら、そばで眠る雌狼の額を舐めた。その狼の瞳は、片方が翠、片方が黄金。

木漏れ日のように、わずかに黄金の混じった白銀の毛並みの狼の瞳は、片方が蒼穹、片方が黄金。


二頭の狼は寄り添いあい、口を触れ合わせた。

風に、大地に、甘い花の匂いが香る。

二頭は静かに目を閉じた。


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