始まりの物語
雨ヶ崎麗美という少女は一部の界隈では有名である。正しくいうならば『雨ヶ崎』という姓が、だろうか。十年程前から台頭し始め、今ではIT業界のトップをひた走る、押しも押されぬ大企業の社長の姓だ。一部の口さがない者達からは『成金』と蔑まれることもある。
IT業界では殊の外珍しい、上層部を親族で固める経営のやり口が風評を悪くしている部分もあるだろう。会社というものは信用で成り立っており、赤の他人よりは血の繋がりを信用するというレミの父親の信条が会社の形態に表れているのだ。
勿論、一代で財を成した一角の人物らしく柔軟な思考も持ち合わせている。遠くの親類より近くの他人という言葉は、それはそれで物事の真を突いていると考えてもいた。
なんにしても彼女の父親は日本で有数の大企業の社長であり、また大金持ちの部類に入る長者の一人であった。物心ついた頃から生活のスタイルが頻繁に変わるという、一般人では見られない体験をレミが受けたのは必然といえるだろう。そしていくら成金とはいえ、新進気鋭の企業から盤石な大企業に成長する頃には、当然の如く地位と権力は追いついてくる。
地位には相応しい礼節が必要とされ、ただのお転婆な小学生だったレミもいつしか社長令嬢としての嗜みを求められるようになっていた。けれど求められたから応えよう、などという殊勝な人物であればお転婆とはいえないだろう。『お嬢様』などという言葉とはおよそ無縁な彼女の奔放ぶりに顔を顰める者も少なくはない。
彼女はとても人好きのする人物だ。碧羅の天もかくやな彼女の笑顔は、見る人の口角を緩ませる安心感があった。彼女自身も人と接することを楽しみと感じ、積極的に他人へかかわっていくのは生来の性分ともいえるだろう。
しかし小学校を卒業するころには本格的に生活が一変し、大金持ちの常として他人の笑顔の裏を邪推してしまうことが多々あった。否、邪推しなければいけなくなったというべきだろう。彼女の本質は変わらずとも、何度も手痛い目にあえばそれは当然の反射として身についてしまうものだ。いくら父が笑って許してくれようとも、幾度も迷惑をかけてしまうことに彼女は罪悪感を覚えていた。
そんな生活を続けていく内に、レミはいつしか人の内面を感じ取れるようになっていた。悪意をもって接してくる人間にはなんとなく嫌なものを感じ、騙そうと接してくる人間がどれだけ笑顔を取り繕っても仮面にしか見えない。しかしそうであっても最低限の付き合いというのは必要だ。自由奔放でお転婆な少女は、気が付けば気質はそのままに翼を広げなくなっていた。
そして父親はそんな愛娘を心配し、地元から離れた高校へと入学させたのだ。顔見知りがおらず、かつ入学においては実力のみが優先される御訪浜学園へ。学校というものが神聖であるべきなのは確かだが、同時に上手く経営を立ち行かせるべき組織だというのも間違いではない。国立であるならばともかく、私学の一部ではコネと金が物をいうのは暗黙の了解といってもいいだろう。そしてこの学校はそうではない、ということだ。
幸いにしてレミは勉学面において優秀であり、彼女が嫌う金持ちボンボンの典型は御訪浜学園に入れる学力を持ち合わせる者が少ない。金と地位と権力に相応しい教養を目指す者は、逆に更なる高みを目指して此処にはこない。知り合いもいない新たな土地で、娘の望む交友関係が築ければいいという親心が今の彼女の状況を形作っているのだ。
金銭が絡むと人は変わる。嫌という程にそれを体験してきた彼女は、新たな学校生活においてはそれを隠すことにしていた。というより、そもそも自分から吹聴しなければ大金持ちであることなどそうそうバレはしないだろう。嘘を付くのではなく、積極的に言わないだけだ――と彼女は自分に言い聞かせていた。
期待と不安を同時に感じながら入学式を終え、本格的に授業が始まる次の日にレミは行動を開始した。友達作りは最初が肝心であり、機を逃してはいつのまにか自分以外でグループが出来上がっていたなどということもありえるだろう。
――そうして彼女は出会ったのだ。理解不能の隠微な少女達に。
おとなしそうな少女であった。小さい形で忙しなく視線を彷徨わせる少女であった。定まらない視線は不安と猜疑、頻繁に髪を撫でつけ肩を縮こませている様は警戒と拒絶。レミにとってあまり好きではない類の人物である筈だった。
しかしどうだろう、その観察眼に反してレミの心は彼女を信の置ける人物だと判断していた。不審と不信、慈心と義心が綯い交ぜになった不可思議な少女。
百合のように美しい少女であった。誰も彼もを理解しているような不敵な少女であった。見透かすような視線は自信と親愛、偶に髪をかき上げ腕を組みかえる様は鷹揚で泰然。彼女の知る単なる自信家とは根本が違った。
喋ればどうだ、その観察眼で量るつもりが量られている。自分の奥の奥まで、稚児を見守るように己が“値踏み”を楽しそうに見つめている。美貌と智謀、悟りと配意に長けた理解の及ばぬ少女。
今まであった誰とも違う、今まで接した誰とも似つかぬ人物が突如二人も現れた。元々自分の直感と好奇心に従って動く彼女は“普通ではない”不思議な少女達に魅せられた。特に妖怪や古い歴史に興味があったわけではないが、それに興味を抱く二人には惹きつけられる。
それが『雨ヶ崎麗美』という少女が『SFCS』を作る際に意欲的になった理由である。同好会の申請から許可までが異様に速かった理由は、父親が学校に寄付した大金の見返り――便宜を図ってくれたのだろうと彼女は察していたが、それくらいの不料簡なら、と口を閉じていた。
苦笑混じりに、見透かしたように笑う黒髪の少女には気付かれていたようだが。
――そうして、彼女の羽根休めの時間は唐突に終わりを迎えたのだ。
生徒会室。学校によっては多目的な用途に使用する部屋の一つ、というところもあるだろう。しかしこの御訪浜学園では生徒会に与えられる専用の部屋であり、過分ともいえる豪奢な装いでもあった。そこで喧々諤々と議論を交わしている五人の生徒がいた。
一人は勿論この部屋の主ともいえる生徒会長で、もう一人は役職である会計。残りは『SFCS』への予算を強請りにきた葵と、その研究会の部長であるみらい。そして何故かここにいる野球部の長である丸刈り頭だ。
「だからよぉ! 五十万はするところを俺の顔で三十万に負けさせたんだぜ? 野球部ってのは学校の顔みてえなもんだ! そこの設備を充実させるのは義務ってもんだろう! ピッチングマシンの一つや二つや三つはあって然るべきだと俺は思うぜ」
「それはあなたの都合であり、あなたがそう思っているだけですね。学校の顔が野球部だなどと思い上がりも甚だしい。先ほども言いましたが生徒の活動に貴賤などありませんよ。そもそも各家庭から徴収した学校のための予算を、生徒を選別して分配すること自体が既におかしいのです」
「だから生徒の選別じゃなくて部の選別だろうがよ! 評判ってのは学校にとって重要だぜ? 入学を希望する奴が多けりゃ多いほど学校の質も高くなる。だいたい入る奴からして入試で選別してんだから、不平等もクソもあるかよ」
「定員があるのですから実力順になるのは当然です。私の問題提起に答えているようで答えになっていませんよね、それは。私は『皆で均等にお金を出し合って買った林檎を、特定の人物しか食べられていない』ことに対する問いを掛けているのです」
「…上級生に対する口の利き方がなってないんじゃねえか」
「敬語を崩した覚えは一切ございませんよ。先輩殿」
舌戦を繰り広げているのは丸刈り頭と葵の二人。生徒会長を脅しに――もとい、直談判に来た葵とみらいを押しのけて、新しいピッチングマシンの購入を認めさせようと野球部部長が押し掛けてきたのだ。会社ではないのだから、アポイントメントがどうのというつもりは葵にもない。ただ先約を無視してまで無理を通そうとする不調法者に憤っているだけのことだ。
「生徒は平等であるべきです。教諭は公正であるべきです。生徒手帳にもきちんとその旨が書かれていますし、そもそも先輩として敬われたいならば相応しい振る舞いというものがあるでしょう。違いますか? 無理を通して道理を引っ込ませようとしている無頼漢さん。下級生ならば上級生に無条件で従うべきだとでも?」
「む……まぁ、そこは悪かった。知り合いの伝手で良いピッチングマシンを安く譲ってもらえる話が出たんで急いで駆けつけちまってな。勇み足だった、すまん」
「はい、先輩。私こそ生意気な口を聞いて申し訳ありませんでした」
しかし相手も体育会系といえど、多数の部員をまとめる責任者の一人だ。どちらに言い分があるかなど明白であり、そして己の無作法を認められないほど狭量ではなかったようだ。彼に言い訳が許されるならば、それは先日に生徒会長へピッチングマシンの購入を打診したところ、その金額に対しネチネチと嫌味を言われたことが猪突猛進ぶりに拍車をかけてしまったというところだろうか。打診した時の金額から約四割もの値引きが実現したというのだから、これで文句はあるまいと喜び勇んで生徒会室の扉をくぐってしまったというわけだ。
「仲直りをしてくれて、僕もとても嬉しいよ。これで問題はないね? お帰りはあちらだ」
「いえ、先ほど申し上げかけた通り『SFCS』は活動予算の申請をします。書類は書式ともにきっちり仕上げていますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「こっちもよろしく頼む! 高すぎ高すぎ高杉晋作だのと好きに言ってくれたけどよ、こんだけ頑張ったんだから認めてくれるだろ? こちとらジャパネッツタガタより頑張ってるぜ!」
「…はあ。それで“はいそうですか”と言えると思うかい? 確かに今年は妙に予算が多いけど……無限にあるわけじゃないんだ。同好会という活動予算を認められていないところにこの費用は多すぎるし、野球部といえどたかが一つの備品にこの金額は……これもまた多すぎる」
葵と丸刈り頭のやりとりを迷惑そうに見ていた生徒会長は、口争いが終わった後すかさず退室を促した。いちいち予算の申請に付き合っていてはいくら金があっても足りないというのが彼の持論であり、そして確かな事実でもあった。予算の振り分けや追加の最終確認は学校側が行うものの、よほどおかしい部分が無い限りはそのまま通ることが常である。だからこそ気軽に通せないというのは生徒会長として当然の判断だろう。
古くなっているとはいえまだ数台あるピッチングマシンを購入する必要はないと考え、いつのまにできたかも知れない怪しい同好会などに割く予算など一円たりともない――そう考えるのはごくごく普通の感性だ。
「同好会に予算を割かない、というのはルールではなく暗黙の了解でしょう」
「消耗品じゃなくてこれから何代にも渡って続く備品だぜ? 初期費用がかかるのは仕方ねえじゃねえか」
「うーん……まあ、そうだね。じゃあ野球部に関してはあと一割、半額の二十五万円になるようその知り合いとやらに交渉してくれないか? それなら許可しよう」
「マジか! よっしゃ!」
「同好会については、そうだね……今年の文化祭でしっかりと活動の内容を見せてほしい。古典や古き良き芸能を調べ、保全するという活動自体はとても良いことだと思う。ただ簡単に成果が出るようなものではないし、僕以外を納得させるためにも活動実績は必要だ。こういう言い方は少々あれだが、入試トップである君を筆頭にしてメンバーそのものは優秀な人が多いみたいだから教師受けも悪くない。期待しているよ」
悪く言えば引き延ばしだが、要望をきちんと受け入れ落としどころろしても悪くない形――生徒会長の優秀さがうかがえる終わり方だろう。しかし、しかし葵はそれでは困るのだ。みらいのためにもそこを落としどころにはできない。先程丸刈り頭に揶揄したことを棚に置いて、彼女は道理を引っ込ませる。人が悪いとは思うけれど、生徒会長も悪い、と。
「…みらい。しょんぼりしてないで、ほら。『ああ、なんということだ! これほどの悲劇があるだろうか!』」
「へ? あ……ちょ」(ここでやんのかよ!? そこのハゲも見てんのに恥ずかしすぎるだろ! 頭沸いてんのか!)
少し考えた後、急に声を張り上げて役者染みた芝居を始める葵。みらいの手を取り、ああ、これはなんという悲劇だとベルサイユなローズ調でわざとらしく見せつける。生徒会長、丸刈り頭、そしてここまで一言も喋らなかった会計も何が始まったのかと目を丸くしていた。
「『ああ……私達の活動はやはり認められないのだろうか……“ジュリエット”』」
「ソウデスネ、ロミオサマ」(死にたい)
「ああん? なにやってんだお前ら。ごっこ遊びする年齢じゃねえだろ」
「葵君、これで予算は足りるのかい? なんならもう少し出せるんじゃないかな……どうだ、橘君」
「はい会長。五割増しまでなら大丈夫かと」
「ほぁっ!?」
女生徒二人が訳の解らない芝居を始めたと思えば、生徒会長と会計が財布のひもを緩ませた――どころか盗人に追い銭レベルで全開だ。丸刈り頭にとってはまったくもって意味不明のやりとりであった。彼から見ても生徒会長の提案と言い分は筋が通っていただけに、いったい何が起こったのかと奇声を上げた。
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます…」(いつまで抱きしめてんだ、おい離せビッチ)
「え? いや、は? 何が起きたんだおい…」
「今の芝居で芸能活動の素晴らしさをわかっていただけたのでしょう。流石は生徒会長です」
「いやいやいや」
「先輩も頑張ってくださいね。甲子園、きっと応援に行きますから」
「え、あ、おう…――っ!」(ぐおっ、やべえ可愛い…!)
疑問符だらけの丸刈り頭の手を取って、微笑みながらエールを送る葵。絶世ともいえる美少女にこれをやられては、青春真っ盛りで男所帯の彼には堪らない。先ほどの不審なやりとりは既に彼方へ吹き飛び、己の手と比べて当社比三倍以上に感じる手の柔らかさを堪能していた。
「では、よろしくお願いしますね」
「ああ。あと……こほん、えーとだね…」
「ええ、理解しています。“金輪際口にしませんし、これっきりにします”…あ、活動予算の話ですよ先輩」
「お、おお…?」
歯切れの悪い生徒会長に含みをもって答える葵。首を傾げる丸刈り頭にさらりと言い訳をして、彼女はみらいの手を取って退室しようと扉に向かい――くるりと振り返った。手には先ほど事務机から失敬した一本の輪“ゴム”。薄い桃色をした艶のある唇でそれを咥え、色気の混じった笑みで室内の“二人”に視線で言い放つ。
――“ちゃんと使いましょうね”
「~っ!」
「あぅ…っ」
ギクリと体を震わせる生徒会長と、顔を真っ赤に染める会計。よくわからないといった顔の丸刈り頭を尻目に、二人は生徒会室を後にした。成果はこれ以上ないほどに十分で、期待しながら待っている仲間達に胸を張って凱旋できる結果だろう。ただしやり口は胸を張るどころの話ではないが。
「やりましたね、みらい」
「あ……うん」
「これでゴールデンウィークには間に合いますから……そうだ、行きたいところももう決めてるんですよ。頑張ったご褒美に最初は私を優先してもらっていいですか?」
「え? う、まあ……みんながよければだけど」
「ありがとうございます――部長どのっ」
「うわわっ!?」(いちいち抱きついてくるんじゃねーよ!)
じゃれついてくる葵を手で牽制するみらいだが、悲しいかな体格の違いと運動神経の違いは抵抗を無意味にした。ひとしきり戯れ合った後、みらいはふと気になったことを問いかける。
――行きたいところってどこ?
その問いに葵はにこりと微笑んで、名を口にした。
――茨城県は笠間の膝元、稲荷の名所。『天狗』の伝説が残る奇祭の地――『笠間の愛宕山』と。
茨城県笠間市には、知る人ぞ知る珍妙な奇祭がある。笠間の稲荷といえば全国においても有名であり、知識にある人も多いだろう。そしてその近く、愛宕神社にて毎年その祭りはとり行われる。日本三大妖怪にも数えられる『天狗』――それがかつて人間のために行っていた祭りを再現した奇妙な風習だ。
天狗といえば日本各地に伝承が残る程に有名であるが、人間と同様にその性格は千差万別だ。排斥主義を徹底している者もいれば、石槌山の天狗岳に住む天狗のように人に優しい天狗も多い。そしてこの祭りを始めた天狗達はその点に関して日本有数ともいえるだろう。
奇祭――『あくたい祭り』は日本人形の元来の意味に通じ、鳥取の『雛送り』などに見られる『肩代わり』の典型のようなお祭りである。街から山へ練り歩く天狗達に人間が罵声を浴びせ悪い気や穢れを移そうというものだが、雛送りなどと違うのは“天狗が強い”という、まさにその一言に尽きるだろう。
天狗は妖怪の中でも“格”の高さが上位に位置している存在だ。故に人間の悪い気や穢れなど天狗はものともしない。だからこそ人間達も安心して罵声を浴びせ、そして罵声を浴びせられようとも笑って許していたこの山の天狗は、今でも語り継がれる程に穏やかな気性といって間違いない。
けれどそんな天狗達も時代の流れには逆らえず、この山から姿を消した。現状行われている祭りは単なる真似事に過ぎず、天狗達が行っていた祭りとは効果が雲泥の差といってもいいだろう。人間達が“天狗に扮した人間”に罵声を浴びせているだけで、儀式的な効果はほとんど無いといっていい。むしろ天狗に扮した人間の方に穢れが溜まってしまっては害にしかならないのだから、効果があってはこまるというものだ。
とはいえ祭りというものは行うだけでも意味があり、笑い、熱気、歓声は悪い気を吹き飛ばして祓う効果も少なからずある。
――そして、そんな祭りを芦屋川みらいは幼い頃体験した。とはいっても実際に参加したわけではなく、天狗に悪態をつく人々を楽しそうに見ていただけのことだ。暴言は飛び交うものの、それを言い放つ者にも受け取る者にも笑顔が絶えない。子供心にはさぞや奇妙に見えたことだろう。
芦屋川みらいという少女は素直で優しい、そして好奇心旺盛な子供であった。人通りの多い祭りで親とはぐれてしまった時も、恐怖より興味が勝るほどに。
街を練り歩く天狗達の最終地点は山の上であり、整備された道以外は少々荒れている。標高そのものは非常に低い山であるが、天狗が住処にしていただけあって、一歩道を外れると中々に迷いやすい。しかし彼女は、都会では見られない生い茂る山に興味を示しそちらに入り込んでしまったのだ。そしてそれが彼女の不運の始まりでもあった。
外れ道の奥に佇む小さな社。誰にも気付かれず、誰にも立ち入れはしないこの社は、今この瞬間だけは――みらいが近くに来てしまったその瞬間だけはその姿を現していた。数年に一度の数分に立ち会えたというのは奇跡といえなくもないだろう。しかし結果だけをみれば間違いなく悲劇であった。
好奇心は猫を殺すというが、彼女の行動はまさにそれだった。遠慮なしに社へ入り込み、祀られている天狗の面に触れてしまったのだ。それどころか、手にもつ仮面を被り、誰かに自慢でもするかのように無邪気にはしゃぎ――数瞬の後に我を失い人形のように立ち尽くした。そしてすぐ後、社に入りくる一つの影。白を基調とし、ところどころに赤い装飾が彩られた着物を纏った十五歳程の少女。
『そこな童よ。何故ここにおる』
『…』
『中てられとるのう。人避けを張りなおしとる瞬間に紛れたのか……まったく、儂も大した力を振るえぬというに厄介事を持ち込んでくれたの』
『…』
『“それ”は此処の天狗達が人間のために遺した面ぞ。罵声と共に吐き出された穢れは、祭りという儀式を介しその面に溜まるようになっておる。そのままでは溜まる一方故、数年に一度儂が龍脈の力を借りて浄化しておるのじゃ』
『…』
『“あくたい祭り”……すなわち“悪態”祭り。その面には悪態の気が詰められておる。人間が被ればどうなるかなど知れたものじゃ』
『…』
『気をやりよるな……と言うても無理な話か。さて、どうしたものかの…』
立ち尽くす子供を見ながら頬を掻く少女。そしてその眼には憐憫や同情の光が灯っていた。
『頼まれて神の真似事なんぞしとるがの、今の儂はただの妖怪じゃ。力も相応にしか使えん……面のような無機物ならばともかく、人間の体に龍脈など通せば大惨事じゃ。浄化はできん』
『…』
『…すまぬ童よ。やはり時間でしか解決はせぬじゃろう。穢れが抜けきるのに百と余年といったところじゃろうか…』
少女は暫し考えた後、やはりどうしようもないとため息をついた。
『できれば足繫く神域や聖域と呼ばれる場所へ通うてほしい。少しは呪いの抜けも速まる筈じゃ。ここで起きたことは覚えておらぬじゃろうし、覚えていてもらっても困るが……せめてそういったものに興味を持つよう暗示をかけておこう』
『…』
『…悪態しか吐けぬままで人の世を生き抜くのは辛かろうな。せめて……そうじゃ、妖怪としては力になろうぞ。幸いにして儂は天邪鬼と呼ばれる妖怪でな。“口に出そうとした言葉を逆転させる”ことができる……少々使い方は異なるが、悪態を心に留めておけるようにしておこう。歪な形ですまぬが、それが精一杯じゃ』
『…』
『穢れは神気にて祓われる。それと……呪いを受けたままでは難しかろうが、人を愛し、人に愛されよ。それこそが穢れともっとも対極に位置し、特効薬となるものじゃ』
『…?』
『そろそろ正気に返りそうじゃの……儂は普段、笠間稲荷の方におってな。時間が経てば変わるものもあり、変わらぬものもある。ぬしの“それ”が変化しないとも限らん。またいずれ……そこにおいで。待っておるぞ』
天邪鬼と名乗る少女。人の禍にしかならない妖怪の名を冠する少女。けれど彼女はそこらの魑魅とは“格”が違う。『原初の天邪鬼』――元々は高天原の神の一柱であり、妖怪に身を堕としたとはいえただの“鬼”とは一線を画す。妖怪が神格を持つことは古い伝承にもよくあり、その逆も然り、神が妖怪に堕とされることもよくある。彼女は後者だっただけのことだ。
毘沙門を嫌い、大国主を嫌い、天津神も国津神もことごとくを毛嫌いしていた少女。しかし彼女は今ここにいて、神の代わりを務めていた。
そして彼女は、呪われた哀れな少女を社の外に出して別れを告げる。どうか幸あれと、どうか達者で……と。
これこそが『九曜葵』が読んだ『芦屋川みらい』の歪んだ記憶。自覚すらしていない忌まわしい記憶。そしてだからこそ葵は研究会にこだわった。『覚』である自分よりもなお嫌われる『天邪鬼』。交友関係の狭い少女では導き出せない呪いの解決法も、古く力を持つ友人が多い葵からすれば“当て”も“伝手”もいくつかある。
けれど理由も話さずみらいを連れまわすことは難しく、葵はどうしても『SFCS』を形にして“当て”にみらいを連れていきたかったのだ。
そう――心の歪んだ優しい少女のために。