【第四十二話】 ヨウの記憶―2―
◇ ◇
朝の食事。普段なら、姫と国王の二人が顔を合わせながら食べる。しかし、その日は国王の姿がなかった。使用人に話を聞けば、体調を崩し部屋で寝ている、とのことだった。
大きなテーブルに一人姫が座り、呆然と耽っているとそこへ扉が開く音が響く。
「おはようございます、イッチ姫様。国王の代わり――と言っては何ですが、私がお食事をご一緒させていただきます」
ダック公爵であった。にっこりと微笑んだまま、姫の真正面の席へと腰掛ける。
今まで朝の食事には顔を出したことはない。驚いたが何とか軽く会釈をし、さっそく食事が始まった。
「……たまにはいいですね、イッチ姫様とお食事というのも」
スープもすする音を出すこともなく、上品に飲んでいた。
いつもなら国王と姫が互いの近況を報告し合う時間だった。この時間だけが、立場を忘れただの親子になる。――それが、目の前にいるのは疑念を抱いている相手。話すこともなく、姫は黙々と出された食事を食べている。向かい合わせに座る相手が気になり、食事の味さえも曖昧だった。
「……先ほどの連れの方はどちらへ?」
さっき見た男と使魔の姿がなかった。さほど気にすることでもないが、重くのしかかる空気を取り払いたかった。
「あぁ、一応あれでも使用人ですのでね。仕事をこなしていることでしょう」
その言葉に姫もそれ以上の言及はしなかった。
それよりも早く食事を平らげてしまい、と思った。机を挟んでいるとは言え、ダック公爵と対面という状況は落ち着かない。どこか観察されているように感じた。
いつもよりも早く食を進め、姫はダック公爵よりも先に立ち上がる。
「ではお先に失礼します」
「おや、お早いですな」
おじぎをし、さっさと部屋から出て行く。ヨウは振り返りダック公爵を見た。――変わった様子もなくスープを啜っている。表情からも何を考えているのかわからなかった。
しかし、それが逆にどこか心に引っ掛かり、妙な胸騒ぎがした。
いつもなら食事を終えると、すぐに部屋に戻っていた。が、今日は違う。姫の足は国王の部屋へと向かっていた。
「今ならダック公爵に邪魔されることはないわ。早く父上に会いましょう」
そう言いながら早歩きとなっている。広く長い廊下には兵士たちが間隔を空け立ち、姫が目の前を通り過ぎるたび頭を下げていた。姫はそれらに気を取られることなく、真っ直ぐ前を向いている。
出た部屋より、国王の部屋は城の最上部にある。その一つ下の階に姫の部屋はあった。自分の部屋を通り過ぎ、階段までやって来た。その階段の前には警備の兵士が二人立ち並んでいる。二人は姫に一礼すると、止めることなく階段を開けた。その間を抜け、姫は螺旋状になった階段を上って行く。頑丈な石でできた階段からは、上るたびに足音が短く響いていた。
「……父上は起きていらっしゃるかしら」
階段を上がると広い廊下に出た。しかし、他の階とは距離の短いもので、真正面に国王のいる部屋がある。左手には来賓を迎えるための部屋がある。
姫は迷うことなく、真正面の木製の扉へ向かい歩こうとする。――その時だった。
「イッチ姫様。国王様は今、就寝中でございます」
突然左手の扉が開くと、そこからあの仮面の男が現れたのだ。
姫とヨウは驚きの余り身を引いたが、すぐさま険しい表情となる。
「な、なぜこの部屋にいるのです! 王族でもない者がここまで来るとは、一体どういう用件なのですか!」
「……ダック様からのご命令なのです。貴方を見張るようにと」
冷めた眼差しだった。男の隣には、薄く笑みをこぼすトグがいる。
「トグ! どういうことじゃ!」
ヨウは肩から離れ、姫よりも前に出る。
先ほどのダック公爵の様子といい、目の前にいる二人といい、まるで姫が国王に会うことを予想しているようだった。どうにも腑が落ちないヨウはなお言葉を続ける。
「それほどまで、姫が国王に進言するのを邪魔したいのかの! 一体何を企んでおる!」
「さぁ。ただ、今は国王とその女を会わすのは都合が悪いのだ……そうだろう、ダック」
トグの視線が後ろへと注がれる。それと同時に背中に悪寒が走った。慌てて振り返ると、そこには腕組みをしてにやりと笑うダック公爵がいた。
「……イッチ姫様。あれほど注意を促しましたのに従っていただけないとは」
「ダ、ダック公爵! いつの間に……!」
姫はダック公爵から離れるよう、少しずつ後ずさりをする。
しかし、国王の部屋の道を閉ざすように仮面の男が仁王立ちしていた。冷たく見下ろす視線に、道を譲るという考えはなさそうである。
張り詰める空気に姫は顔をしかめた。この立ち塞ぐ二人からは、簡単に逃れられるような気がしない。むしろ、何か嫌な予感がしていた。
ちらりと、木製の扉に目を向けた。――開かれる様子はない。
視線を逸らしダック公爵の後ろの階段に目を向ける。――階段の下には兵士二人がいた。
視線が泳ぐ姫に対し、ダック公爵がふっと鼻で笑って見せた。
「逃げる隙を伺っておられるのかな? 残念ですが、逃げようとも声を上げようともそれは無駄ですな。なぜなら、そんな暇を与えないからです」
「……え?」
その刹那、真後ろから空気が切れる音がした。と同時にヨウが振り返り羽根を羽ばたかせる。
姫が振り向き見たものは、トグが短剣を振り下ろそうとしている姿だった。――しかし、それをヨウが同じく短剣で受け止めている。二人の力で互いの短剣が震えていた。
「トグ! どういうつもりじゃ!」
「さすがに早いな。だが、お前一人では駄目だな」
「何っ!」
すると、トグの後ろから仮面の男が腕を伸ばした。手のひらの中、黒い空気が渦巻いている。それに触ってはいけない――ヨウはそう直感し、すぐさま身体を翻しトグに向かって剣を振り下ろす。
「馬鹿が! 目的はお前ではない! その女こそ真の標的だ!」
男の腕はヨウではなく、姫に向けられていた。トグの言葉に姫に視線を向ける。姫は目を見開き男を凝視していた。渦巻く手のひらが姫に触れようとする。ヨウはそれを阻止しようと、間に割って入ろうとするが、トグがそれを許さずヨウの服を乱暴に掴む。振り払おうとする間も、刻々と黒い渦が姫に近づいていく。
しかし、姫は至って冷静な表情で静かに言葉を放った。
「非礼な人。下がりなさい」
姫は手のひらを向けた。
まるで時間が止まったようだった。向けられたと同時に、仮面の男の身体が固まっている。必死に動かそうとし、身体の端々が震えているがそれでも動かない。
「シント」
その瞬間、男の身体が後方へと吹き飛ぶ。余りの勢いに男は壁に身体を強く打ちつけた。冷めた様子で眺める姫。ヨウはトグの腕を振り払い、すぐさま姫の肩に捕まった。
「ほう。やりますな、イッチ姫様」
振り返ればダック公爵が薄く笑みをこぼしていた。使用人が吹き飛ばされたというのに、何事もなかったかのように振る舞っている。それはトグも一緒で、後ろから二人を眺めていた。
「やはり、国王の娘となると移動魔術の威力も相当なもののようですね。予想以上で大変驚きましたよ」
「今の行動はどういうことでしょうか? 私に攻撃を仕掛けるなど、それこそ父上に申し上げなければならなくなりました」
毅然とする姫。不敵な笑みを崩さないダック公爵。ヨウは集中を高め、また攻撃を仕掛けられたときの場合を考えていた。すぐ目の前に立つダック公爵。彼の主魔術は一体何なのか。トグが仮面の男とダック公爵の、どちらと契約しているのかさえわからない。
吹き飛ばされた男も立ち上がり、乱れた服を整えていた。冷めた眼差しが、ヨウの背後からでも感じた。囲まれた状態であるが、ヨウは絶対に姫を守る覚悟でいる。
「……イッチ姫様の魔力、素晴らしいものだということが確信できました。殺すのには惜しいほどだ」
姫とヨウ、二人同時にぴくっと眉をひそめた。
「こ、殺す……じゃと?」
「本気で……。公爵、本気で私を殺そうというのですか」
見下ろすダック公爵の眼差しが、瞳の奥で冷たく光っていた。そのまま命を吸い取られそうな、どこまでも黒くそれでいて濁った色をしている。
公爵はふっと息を吐くと、軽く頭を振った。
「惜しいと言いましたでしょう。今、別のことを思いついたのです」
「……別のこと?」
すると、ダック公爵が視線を後ろへと向けた。
「……イッチ姫様。私は、ただ融資をする魔天族ではありません。ほしいものは何でも手に入れる。それが金だろうと、人だろうと、魔術だろうと……全てだ。そして今私が一番ほしいもの……」
姫は首を傾げた。眉をひそめ見上げる姫を、ダック公爵はゆっくりと見下ろした。歪む口元がゆっくりと開いていく。
「この国と貴方の力ですよ」
「っ!」
はっと姫が息を呑んだのもつかの間、いきなり背中から羽交い締めされてしまった。
「な、何をするんですか!」
背中越しに睨みつける姫。羽交い締めしているのは仮面の男だった。無表情を崩さず、一向に姫を離そうとはしない。
「貴様ぁ! 姫から手を離せ!」
「ヨウ、貴様は黙っていろ」
男の腕を振り払おうとヨウが掴んだ瞬間、トグの拳が飛んできた。痛みと共に姫の肩からはがされ、そのまま冷たい床へと落ちてしまう。強い衝撃が身体全体に受けるが、すぐさま姫を見上げる。
姫は腕を無造作に動かし、何とか振りほどこうとしていた。それでも羽交い締めにする男の力が強くびくともしない。
「ヨウ!」
姫の顔は男の背中に隠れ見えない。それでも姫の悲痛な叫びがヨウを突き動かす。すぐに立ち上がり、空中に浮上した。
「イッチ姫様。移動魔術と言えど、腕を塞がれては使えないようですね。こうなれば、貴方もなかなか女々しい方だ」
男の背中越しにダック公爵の笑みが見える。薄らとし開かれた目は、姫を舐めるかのように眺めていた。そして、腕をゆっくりと上げその手が姫の頬に触れようとする――。
「姫に触れるな!」
自然と声が出ていた。その声は一瞬空気が揺らし、廊下にある窓ガラスが震える。トグはその瞬間身構え、すぐに男の背中に移動した。そして、ダック公爵の視線もヨウへと注がれた。先ほどまでの笑みは消え、殺気のこもったあの濁った目をしている。
ヨウはダック公爵の視線など気にせず、その腕目掛け飛びかかっていた。状況が悪いことや、相手が魔天族のことは頭に消えている。ただあったのは、姫を助けることのみ。
『この先も、ずっと一緒にいてくれる?』
約束を守るため。
「……ヨウ、冷静さを欠いたな。馬鹿な奴め」
トグが両手を突き出し、そこから炎を作り上げる。自身の身体よりも遥かに大きな炎。それを躊躇うことなくヨウへと投げつけた。
ヨウの目の前に炎が塞ぐ。熱気は近づくにつれ肌にヒリヒリと痛みを届ける。しかし、ヨウはまだ冷静だった。両手を突き出し、青い光の盾を作り上げた。それは炎の中でも消えず、熱気と炎を遮りヨウは炎の中を突き進む。そして、抜けた瞬間トグの身体が目の前にあった。
炎のせいで見えなかったのか、急に現れたヨウにトグは避ける暇はなかった。そのまま体当たりされると、身体が横へと倒れる。そしてヨウはそのまま男の背中に思いっきり体当たりをした。
「うっ」
その時、羽交い締めにしていた男の力が弱まった。その隙を姫は見逃さず、すぐさま腕を大きく手前へと引く。――腕が自由になる。
姫はすぐさまその場にしゃがみこむと、後ろへと転がるように移動した。姫の動きと同時に、結わえている髪が激しく乱れる。膝をついた状態からすぐに立ち上がると、木の扉に身体を向け走り出す。
――父上に……国王に知らせねば。
息が短く切れる。長くない廊下のはずなのに、目の前に見える扉が遠く感じた。あと五歩。あと四歩……。
「甘いわぁ!」
後ろから声が響く。と同時に、何か雷が落ちたような鋭い音が鳴り響いた。
ヨウは見た。
扉まであと少しの姫。その後ろから、ダック公爵が杖を振り上げそこに電撃が走る。その電撃はまるで意思を持っているかのようにうねり、先端は顔のように見えた。それが扉へと走る姫へと伸びていく。
腕を精一杯伸ばし、扉を開けようとする姫。しかし、その後ろ、電撃が大きな口を開け姫に襲いかかる。
「姫ぇぇ!」
ぶつかろうとした瞬間、辺り一面が真っ白に発光した。ヨウも目元を腕で覆う。
治まったあと、廊下は静寂した空間だった。あまりの静けさにヨウは恐る恐る腕をどける。
「なっ、姫!」
電撃が姫の身体全体を覆っている。ヨウはすぐさま羽根を広げ、姫に向かって飛んでいく。
姫は扉に身体を向けたまま身体が固まっている。目が虚ろでまるで意識がないように見えた。腕を伸ばす姿が痛々しい。すぐさまヨウは姫に触れようとした――しかし。
包んでいる黄色の刺々しい帯びは、ヨウの手を弾き飛ばしてしまった。何度試みようとしても結果は同じ。何度も何度も手を伸ばすが、全て弾かれてしまった。
「一体何をやった!」
振り返ったヨウは怒りをあらわに、ダック公爵を睨みつけた。見れば、帯びはそのまま伸びて杖に繋がっている。
声が聞こえているのか、ダック公爵の視線がゆっくりとヨウへと移る。皺が刻まれた顔、窪んだ目、端を持ちあがにやりと笑う口元。じっとヨウを見据え、ふっと鼻で笑った。
「言ったところでもう遅い。使魔、お前は死ぬだけです」
「何っ」
はっとすれば、男とトグがすぐ目の前に迫っている。トグの両手にある剣が冷たく光っていた。ヨウは姫の前に立ちふさがるように移動する。
避ければ再び姫が狙われるかもしれない。そう思いその場から逃げなかった。代わりに、両手を突き出し薄い光の膜を作り上げた。
それでもトグが突っ込んでくる。剣の先端は鋭く、この膜さえも切り裂きそうなほど光っている。そんな先端を向け躊躇うことなく、トグはヨウへと突き刺しにかかった。しかし、ヨウの魔力が勝っていた。
強固なものに見えた剣でさえ、ヨウの光の膜にぽっきりと折れてしまったのだ。剣を握り締めたトグが、信じられない様子で剣を見下ろしている。そしてそのまま視線を上げ、膜の向こうにいるヨウを睨みつける。
「……さすがだな」
ふっと鼻で笑うトグに、ヨウは眉をひそめた。――なんだこの余裕の笑みは。
次の瞬間、ヨウの真横にあの男が現れた。白い仮面は無表情のまま、手のひらの黒い渦を向けている。咄嗟にヨウも顔を向けたものの、トグがいるせいで動けなかった。
男は後ろにいた姫には目もくれず、真っ直ぐヨウに向かい手のひらを押しつけた。
「っ!」
ヨウは口を開いたものの、言葉にならなかった。触れられた瞬間異変が起こった。
男の手のひらは、ヨウの身体の半分を隠している。その下――腹部に何か吸い込まれるような感覚がある。身体の内側から全てを奪い去るような、思考までもが奪い去られてしまいそうな感覚。腕を伸ばしていた力もなくなり、がくっと腕を落とす。動かしていた羽根も力を失い、そのまま床へと落下した。
苦しい。呼吸をするための運動さえままならない。開けた口を閉じることさえできず、ただ短く呼吸をする。腕や足、羽根も動かせない。目を動かすのがやっとで、瞬きすらできなかった。
「ご苦労。お前たちは下がれ。私が手を下そう」
仰向けの状態で、ダック公爵の声だけが聞こえた。それと同時に、ゆっくりとした足音が廊下に響く。
――殺されるのか。
天井を見上げながら、ヨウは漠然と思った。何の飾り毛もない天井が最後に見たものになるのか。
どんどんと足音が近づいてくる。こつん、こつんという単調な音。自分の死期が近づいてくる死神の音。短い呼吸を繰り返しながら、視線をなんとか動かしていく。
焦点が合わないが、最後に見るものは決めてある。無表情な天井からじっくりと視線を移動する。その間にも足音はどんどんと大きく響いてくる。
――姫。
包んでいる黄色の帯が、ヨウの視界を遮ろうとしていた。それでも、一つに結わえている美しい黄色の髪ははっきりと見えた。
「ひ……」
――姫、申し訳ない。
そう言葉に出そうとしても、喉は言葉を通さなかった。苦しい胸に閉じ込めたまま。
――守ることもできず申し訳ない。
じっと姫の後ろ頭を見上げる。
姫も動けないのだ。発した言葉さえ届いていないだろう。それでも、最後に姿だけでも見れたことに少し胸が晴れる。だが、このまま死んでしまうことが情けなかった。
「さぁて。痛めつけるのも面白いですが、楽に死なせてあげましょう。私の気まぐれに感謝しなさい」
視界に不敵な笑みを浮かべるダック公爵が入った。言葉を言い返すこともできない。視線を逸らすこともできない。――ただ死ぬだけ。
その時だった。
視界にいた姫の身体から、突如黄色の帯が消し飛んだ。そして息つく間もなく、姫は振り返りヨウに向かって手を伸ばす。細い指がヨウを抱える。
何が起こったのかヨウも理解できなかった。天井が占めていた視界が、一変に姫の笑顔へと変わった。
あのいつも見た姫の優しい笑み。自分にしか見せない柔らかな表情。
「待っているから」
その瞬間、ヨウの意識は飛んだ。
目覚めたのは身体に受けた衝撃のせいだった。何が起こったのか理解できない。
思い出そうにも記憶がなかった。ただわかったのは、今近くに姫がいないこと。そして――ここがアラウではないこと。
目の前にヨウの姿に言葉を失う男――それが新しい契約者、真一との出会いでもあった。
◇ ◇