【第三十二話】 すれ違い
羽音にヨウは顔を上げた。
「……やっぱりひよこか」
「私はピィです!」
上空に大きな翼を広げているピィがいた。鋭い爪と黄色のくちばし。茶褐色の羽と、黄色い眼光。まさに鷹の姿である。
ピィはヨウから視線を逸らし、真下にいた真一を見下ろした。周りには空気の歪みがあった。おまけに動く気配もない。ピィは真一の前にいる男へと目を向けた。
見れば男はこちらを向き、口を開いたまま見上げていた。腕からは空間の歪みが発し、繋がるように真一の身体を包み込んでいる。
状況を理解したピィは、即座にぐっと翼に力を込め、羽ばたきの幅を大きくした。扇ぐたびに集まる風。感じる風の重さ。――敵はあの仮面の男だ。
「真一さんを離しなさい!」
力いっぱい叫ぶと、ピィは一気に翼を前へと扇いだ。
集められた風は大きな渦となり、風を切る凄まじい音を出しながら、小さな竜巻となった。目に見えるほど渦を巻き、まっすぐ使者へと向かっていく。
が、使者は避けなかった。平然と竜巻を見上げ、すっと片腕を上げた。
「シント」
使者の静かな声と同時に、空間の歪みが発生した。その歪みは波のように伸び、向かってくる竜巻と真正面からぶつかった。
その瞬間、突風が巻き起こった。
強烈な風は四方にちらばるように吹き荒れ、近くにいたヨウも飛ばされまいとぐっと羽根を広げた。強烈な風のあまり、顔の目の前を腕で覆う。その隙間から真一をちらりと見ると、相変わらず動かないままだ。あそこだけ別空間のように見えた。
一方で使者とピィは、互いに突風を受けながらもその場に留まっている。羽は突風でなびき、ローブは激しく揺れた。睨み合い互いに次の行動を伺っている。
と、そんな時、真一の腕がかすかに動いた。表情に変化がないものの、開いた手のひらを閉じようとしている。
――今ならシンイチを解放できるかもしれない。ヨウはそう思うや否や、ばっと両手を真っ直ぐ横へ伸ばした。
「インディションサモン!」
手の中に渦巻く空気がパンッとはじけ、そこから短剣が出現する。ぐっと短剣を握り締めながら、心で叫んだ。自分がなんとかしなければ――と。
一方で、ヨウの声に驚いたのか一瞬だが使者の気が逸れ、視線がヨウの方向へと向けられた。――それをピィは見逃さなかった。
上空から一気に使者を目指し急降下し、鋭い爪を向ける。羽音に気づいた使者は、はっと上空を見上げた。向いた瞬間、ピィはすでに使者の目の前にまで迫っていた。
頬に爪が触れる。鋭利な刃物のように、頬に真っ直ぐ赤い線が描かれた。と同時に、大きな翼は風を生み使者のバランスを崩した。傷から出る微量な鮮血が、再び上空へと舞い上がるピィと一緒に飛び散る。
使者の身体は後ろへと傾き、真一へと伸びていた腕が逸れる。すると、包んでいた歪みはパッと消えた。
歪みから解放された瞬間、真一はぐっと腕に力を込めた。血管が浮くほど拳を握り締める。と同時に地面を蹴飛ばし使者へと一気に駆け寄る。
倒れそうになる使者目がけ、真一は躊躇うことなく拳を振り下ろした。
バキッという骨と骨がぶつかるような音が響き渡る。使者は顔を歪ませながら地面へと叩き落ちた。
「……た、倒したか……」
張り詰める場の中で、最初に口を開いたのは真一だった。肩で呼吸を繰り返しながら、ひざに手を付き、苦しそうに顔を俯かせている。
動かせなかった身体は痺れ、力がうまく入らなかった。呼吸をなんとか落ち着かせた後、ぐっと腕に力を入れ、背筋を伸ばす。久しぶりに感じる冷たい空気が身に染みた。
「真一さん大丈夫でしたか?」
そこへピィが舞い降りた。黄色の瞳をまん丸と開け、真一を見上げている。
「あぁ……大丈夫だ」
「よかった。――この人も意識を失っているようですね」
仰向けに使者は倒れていた。目元は見えないものの、見える口元は小さく開き端からは殴ったせいか青く血が滲んでいる。意識を失ったのは、岩に頭を打ち付けているせいであるようだった。
真一はほっと安堵しつつ、浮かんでいたヨウを鋭い眼光で見上げた。
「おい、なんでお前逃げなかったんだ」
思わぬ発言に、空中にいたヨウはすぐさま真一の近くへと舞い降りた。
「……なんでわしが逃げんといけんのんじゃ」
「は? 使者はお前を狙ってたんだろ? 俺がわざわざ身代わりになったのも、お前を逃がすためだったんだぞ」
「そりゃありがたいが、わしはシンイチを見捨てて逃げるような腰抜けの男ではないぞ」
その時、ぴくっと真一の眉が動いた。刻まれていた眉間の皺が少しだけ深くなる。
『お前が俺を助けようとするのは、お前が死にたくないからだろ』
ぐっと拳を握り締め、出そうになる言葉を飲み込んだ。
半ばヨウを睨みつける形で、真一は口を閉ざした。
本当の真意を問いたいと思うのだが、それを言葉として出す勇気がなかった。相手は目的を果たせばそれで終わりという考えなのかもしれない。その時に、それ以上の関係を感じていた自分の受けるダメージが恐ろしかった。
真一は苦々しい表情を浮かべながら、すっと地面に視線を落とした。
「なんじゃその顔は。……助けんほうがよかったのかの!」
ヨウはヨウで、助けたお礼の一言ぐらいは期待していた。
ムッとしたものの、ある程度真一がどのような人間なのか理解しつつある。こんな言葉を吐いたところで、また文句が返って来るだけのこと――そう思っていた。
しかし真一は、何の反応も示すことなく背を向けた。
荷物を拾い上げ山を下り始める真一。その姿をヨウはただ呆然と眺める――予想しなかった反応だった。
一体どういうことなのか、本当に助けないほうがよかったのか、ではなぜそう思うのか――疑念が次から次へと沸いて来る。
しばらくの間、その場に浮かんだままで後を追いかけることができなかった。ただ呆然と、遠ざかっていく背中に目を向ける。身体から一気に力が抜け、冷たい風が吹きつけていた。重い沈黙を流すかのように風は吹きぬける。その風に押されるように、ヨウはようやく前へと動き始めた。
明らかに様子がおかしい。何を考えているのか――そう問いかけようと口を開くも、背中が質問を受け付けていないような気がした。距離を縮め、いつものように肩へと身体を預けようかと考えた。しかし、それさえも許されないような雰囲気。ヨウはゆっくりと顔を俯かせ、真一の少し後ろを飛ぶことにした。
「ちょっと、ヨウ。真一さんの機嫌を損ねるようなことをしたんですか?」
ヨウの後ろからピィが小声で話しかけてきた。
「しとらんわい。わしが聞きたいぐらいじゃ」
ぶすっとしたまま、ヨウは前を歩く真一を見つめる。
話しかけられない。いつもと調子が違うのだ。今まで感じたことのない、重苦しい雰囲気だった。使者の魔術に何か仕掛けでもあったのかと思ってしまう。しかしそれはない。では、ヨウ自身が何か間違ったことをしたのか。――が、行ったことは真一を助けようとしただけ。そのことがヨウの考えを複雑にしていた。
「きっとヨウが悪いんですよ。心当たりがないだけでね」
「なんじゃそりゃ。お主、どうあってもわしを悪者にしたいんじゃの」
「……だって真一さんは意味もなく機嫌を損ねるような人じゃないですもん。きっとヨウが原因よ」
羽ばたきながらピィは横目でじろりとヨウを睨みつけた。ヨウは言葉を返さず再び前を見た。
真一の背中を後ろから睨みつけながら、ヨウはふんと鼻息をした。絶対に謝らない――とヨウは心で強く思った。
きっと機嫌が悪いだけ――だったらそれが収まるまでこの距離は縮めない。そう思い、ヨウは一定の距離を置いたまま話しかけることもなく、真一の後ろを付いていく。
「ヨウ、真一さんはこの世界の人間じゃないのよ」
しんとした中、ピィの声が響き渡る。その声につられヨウはピィに顔を向けた。
「きっと言わないだけで色々不安を抱え込んでいると思う。それに気づいてやれるのは、一番近くにいるヨウしかいないの。それなのにヨウが真一さんに意地を張ってどうするんですか」
真っ直ぐピィはヨウを見つめた。事実を突きつけられたような気分になり、ヨウは思わず視線を落とした。
「わかっとるわい……じゃけど、わからん故にわしもどう動いたらええかわからんのんじゃ」
その時ピィの身体がほのかに発光し始めた。それには視線を上げ再びピィを見た。
「召喚時間が切れるみたい。……ヨウが本当に真一さんを信用しなければ、真一さんも同じように信用してくれないですよ。とにかく、頑張ってね」
ピィはそう言い残し、羽を広げたままの姿でふっと消えてしまった。再び静寂な空間へと戻る。
前を見ればピィが消えたことに気づくこともなく、召喚主は黙々と歩いていた。少しだけ肩と頭が下がっているようにも見える。ヨウは深く息を吐くと、距離を詰めることなくその背中を追った。
使者が現れて以降、特に変わったことはなかった。周りに何もないくだり坂。あるのは足元に転がる大小さまざまな岩と、周りを覆う濃い霧ともや。真っ白な世界と足元には黒い岩盤。天と地が真っ二つに割れたような世界がずっと続いている。不快な音もない、人の声も聞こえない。ただ静かな空間が流れている。時折冷たい風が吹きつけるが、町にいた時よりもマシになっていた。背中を押すように、下へ下へと流れていく。
と、しばらく立ち霧が晴れ始めた。白いカーテンが払われ、目の前に現れたのは緑色の絨毯だった。――広大な草原である。真一は思わず足を止めた。
先ほどまで感じた風は冷たさをなくし、身体に染み渡るような温かな風へと変化している。その風が吹き渡り、草が波のように揺れていた。真っ青な空と緑色の草原、先ほどとは違う世界だ。風に煽られ、上に着ていたローブを脱ぐ。半そでの、皮膚に伝わる日光と風が気持ち良い。目を閉じ深呼吸をした。――心の中にあったもやもやとした感情が緩和されていく。
ヨウとは嫌でも一緒にいなければいけない。そう考えるとこの距離感を縮めないといけなかった。どうにも居心地が悪い。かと言って、こちらが素直に頭を下げるか、と言われればそれはできなかった。真一は真一で、ヨウが事実を言わないことに疑問を抱いている。
――自分が死ねばヨウも死ぬ、だから守っている。そう思うだけで胸が痛む。ぎゅっと拳を握り締め、ちらりと後ろを振り返ってみた。
ヨウもじっと真一を見ていた。無表情のまま、じっと。事実を言うような感じではない。真一から話しかけるまで待っている。だから距離を縮めてこないし、いつものように肩に乗らない。
真一は再び前に向きなおし、俯き加減にため息を吐いた。――やっぱりこの感情を隠し通すしかない。そう思い、再び振り向こうとした時だった。
「……あ、あやつは」
黙りこくっていたヨウが突然口を開いた。眉をひそめ振り返ってみれば、遠くを見つめ指差している。
「は、何だよいきなり」
吐き捨てるように言いつつ、指差す方向を向く。指は真っ直ぐ草原の中を示していた。
そこに目を向けていると――人影がいる。先ほどまでいなかったはずの人がいた。思わずぎょっとした真一だったが、その格好に見覚えがあった。目を細め再び人影を凝視する。
水色の服だった。ズボンと長袖のシャツ。何よりも目を引いたのは、顔につけている白い仮面だった。
「マスク……か? な、何でここにいんだよ」
笑いをかみ殺すかのように頬を緩め、急ぎ足でマスクの元へ向かう。港町シトモンで知り合ってから、いつの間にか姿を消してしまっていた。別れの挨拶もしていない。早く声をかけたいという一心だった。
一方、ヨウはいきなりのマスクの出現に疑問を抱いた。真一が走り出したので仕方なくその後ろを追うが、どうにも腑に落ちない。遠目から表情までうかがい知ることはできないが、異様な光景でだった。緑色の草原にぽつんとマスクだけが立っている。まるで待ち伏せしていたかのようだ。嫌な予感を感じながらも、徐々に近づいていく。
待ち構えているマスクはじっと真一たちを見ていた。口の端を持ち上げ笑っている。紫のツンツンと逆立った髪はそのままで、こちらへ近づいてくる真一を眺めていた。
草原に走る温暖な風。揺れる草の中、待つマスク。マスクは笑みを抑えることができなかった。真一もそのようだが、おそらく同じ理由ではない。マスクに再会の喜びはない。真実を告げたとき、真一がどのような表情、態度を取るのか、それだけが楽しみで仕方がなかった。