【第三十一話】 油断
町は霧が濃く全体が白みがかっている。真一は肌寒さに耐え兼ね、ローブを重ね着した。いくらかマシになったものの、しっとりと湿った空気は肌にまとわり付く。
真一の肩にしがみ付くヨウも、小さく身体を震わせていた。息を吐けば白くなり、冷たい風が身体を冷やしてく。
「……静かな町じゃなぁ。前も霧のせいでほとんど見えんの」
言葉とともに、白い息がふわっと広がった。
ガナオンの屋敷を出ると目の前に大きな地図が立っていた。その地図をヨウが見て、真一は指示される通り進んでいる。
町全体が大きな岩がごろごろと存在し、それを縫うように道も細く入り組んでいた。家もその岩を切り崩したようなものばかりで、一見家には見えず岩ばかりが並んでいるようにも見える。足元も岩盤に覆われ、土や草などは一切ない。冷たい黒い岩があるだけである。
だがそれでも住人はいる。進む最中でも何度かすれ違うことがあった。手には金色に輝くフェル草を持ち、いそいそと家の中へと入っていく。岩の家の入り口は長い布で仕切られていた。真一はその隙間から、こっそりと覗き見てみた。仲のよさそうな家族三人が、フェル草を食べ物へと変え、それをおいしそうに頬張っている。よく見れば全員が黒い布を腕に巻きつけていた。
その光景に思わず頬を緩ませながら、そっとその場を後にした。――サモナーが住みやすい場所。作物が育てられないこの環境においては、サモナーは俄然有利だろう。ガナオンが言っていたことに間違いはなさそうで、住みづらい環境でも人々は強く生きているのだと真一は思った。
「……お、門じゃ」
しばらく歩くと目の前に柵の様な閉ざされた門が現れた。近づいて軽く押してみると、あっさりと開く。
「ここから山を下ればいいのか」
「そうじゃ。ひたすら下ればええ」
濃い霧と黒い岩がひたすら続く下り道。目の前には雲が広がり、町がかなり高い場所にあることを伺わせた。足元は整備などされておらず、ごつごつとした岩肌が靴底から感じる。それでも急な坂ではなく、緩やかだった。下は雲のせいで降り立つ地は見えない。本当にこの下に世界があるのかと思うほどだ。
「まぁ行くか」
荷物を担ぎ直し、真一は一歩踏み出した。
冷たい風が吹きつける。霧は相変わらず濃く、少し先は白い世界が覆っている。目印も何もなく、ただ坂を下っているだけだった。大きな岩や小さな小石が地面を覆い、殺風景な風景がどこまでも続く。
真一は足元を気をつけながら黙々と進んでいたが、ヨウは険しい表情で忙しく頭を動かしていた。
「……見張られとる」
「は?」
冗談を言っている風でもなく、真剣な表情で目を配らせていた。
「縁起でもねぇこと言うな。こっちは足元を気をつけるだけでも精一杯なんだよ」
しかし真一も何か違和感があった。白い靄の中から、何か気配を感じるのだ。
足を止め、周りの様子を見回してみる。――白い霧が覆っていて遠くまでよく見えない。近くにある岩や小石があるだけだ。しんとする空間に、耳が痛くなりそうである。それでも見えない視線を感じた。じっと様子を伺われているような見えない圧力だ。
鼓動が自然と早くなる。弓をぎゅっと握り締め、足を肩幅に広げた。目を配らせ周りに集中する。
「……お前の言ったこと、まんざらでもねぇな」
「じゃろう。気をつけろ」
静か過ぎる空間から、かすかに布がこすれるような音が聞こえた。ほんのわずかな音であったが、それは異常な音として耳に届く。
真一はすぐさま振り返った。
「なっ!」
目の前に水色のローブを着た者が立っていた。顔の目元は真っ白な仮面に覆われ、表情までうかがい知ることができない。
間違いなく使者である。
使者は口を真一文字にしたまま、腕を伸ばしている。その腕は真っ直ぐヨウへと向けられた。
「アビシャス」
静寂した空間に使者の詠唱が響き渡る。伸ばされた手のひらから空間の歪みが真っ直ぐ伸びていく。あまりに唐突なことで、ヨウはそれを見るだけしかできなかった。もう目の前に空間の歪みが迫る。これに捕まれば終わる。頭で理解できても身体が反応し切れなかった。
もう駄目だ。そう思った矢先だった。
ヨウの身体に手のひらが押し当てられた。その手のひらは力強くヨウを跳ね飛ばす。思わぬ方向からの力にヨウはあっさりと肩から離された。
何が起こったのか。飛ばされる中、ヨウは反射的に背中の羽根を動かし空中で止まった。そしてすぐに、振り返る。
歪みは真一を捕らえていた。
真一の足元には荷物が散らばり、腕はヨウを払った格好のまま固まっている。歯を食いしばり、頬は微かに動いていた。
「シンイチ!」
ヨウの叫びに、かすかに真一の口元が動く。一方で使者は舌打ちをした後、顔をヨウへと向けた。仮面で覆われているものの、苛立っているのか唇を噛み締めている。が、すぐにもう片方の腕をヨウへと伸ばした。そしてすぐに詠唱した。
しかし、今度は歪みのスピードは遅く、ヨウは軽々と避けることができた。避けると同時に真一に近寄り、手を伸ばした。が、歪みは真一の身体全体を覆っている。触れようと歪みに手を伸ばすと、指先が痺れたような感覚となり触れることができなかった。
「シンイチを元に戻せ!」
使者に向かって叫ぶものの、使者は再びヨウに向かって魔術を仕掛ける。いくら近距離とは言え、ヨウは素早く避けることは楽に行えた。何度も何度も使者は魔術を繰り返し、その度にヨウは避けた。次第に歪む空間のスピードは落ちていき、真一を束縛している歪みも緩くなっていく。避けながら真一を見てみると、固まっていた腕や足元が動き始めている。
このまま避け続ければ使者の魔力がなくなるかもしれない――そう考え避けることに専念した。使者は軽々と避けるヨウにひたすら魔術を向けた。使者の抑揚のない詠唱が、静かな空間に響き渡る。――そこへ。
「にげろ」
真一が顔を向け言葉を発した。魔力が弱まっているらしい。それでも顔は険しいまま、自由が効かないようだ。
「さっさと、逃げろ」
「馬鹿もん! お主はどうするつもりじゃ!」
「う、っせぇ!」
じりじりと真一の腕が下がっていっている。それが自身の力なのかははっきりとしないが、もう少しでローブのポケットまで届きそうな位置までになっていた。
もう少しで動けそうだ――そう思いつつ空中に止まっていた。その時だった。
「アビシャス!」
はっきりとした使者の声が聞こえた。今までの詠唱とは比べものにならないほどの声量だった。はっとヨウは顔を向ける。と同時に、真一の身体が一瞬自由になった。
真一はポケットに手を入れ召喚本を取り出した。すぐさま本を開き叫んだ。
「プレサモン!」
使者の気が一瞬逸れた。それを見逃すことなくヨウはすぐさま身体をねじり、空間の歪みを避ける。歪みはヨウを捕らえることなく、そのまま空へと伸びていき消えた。
一方真一からは眩い光が発生していた。使者はその光に向き直り、ぐっと向けている腕に力を込めた。厚さを増した歪みが真一に届き、手から召喚本が落ちていく。召喚した格好のまま真一はぴくりともしなくなってしまった。
「シンイチ!」
ヨウはすぐさま飛んで行き、落ちた召喚本を拾い上げる。開かれたまま落ちた召喚本は、一番最初のページであった。
「……このページは」
血のついたページをじっと見つめる。そこに、バサッという羽音が上空から聞こえた。