【第三話】 巨大カラス
廊下を駆け抜け慌てて道場を見た。目に飛び込んできたものは――道場に覆い尽くす黒色の物体だった。
「な、なんだこれ!」
よく見れば羽根のような形をしている。一枚一枚が黒光りをし、その物体は動いているようだった。全体を良く見るとば鳥のような足が見え、姿かたちも鳥のように見える。
一瞬その物体に目を奪われた真一だが、すぐさま正気に戻り道場全体を目で追う。
「先生! 先生どこですか!」
道場に埋め尽くされた黒の中で、先ほどまでいた先生の姿が見当たらない。嫌な予感がした真一は慌てて道場の中へと踏み入れようとした。――すると。
「ガアァァ!」
聞いたこともない叫び声が道場に響き渡った。思わず耳を塞ぎたくなるような不快な音。その音と同時に、道場を覆っていた黒色の物体が動き始め真一たちの方を振り返った。
鋭い嘴に真っ黒の瞳、尖った爪は道場の床をひっかきいくつも傷ができている。――見た目はカラスそのものだった。真一の身体よりも遥かに大きいカラスに圧倒されながら、手に汗を握り目だけで道場を見渡す。
「……おい、シンイチ! あそこじゃ、このカラスの向こうじゃ!」
ヨウは巨大カラスの足元を指差した。見ると、長く尖った爪のすぐ隣にうつぶせの状態で先生が倒れている。しかし、全く動く気配がない。
「先生!」
思わず叫んだ。しかし反応がない。その場へ駆け出そうと道場へ踏み込んだ瞬間――。
「ガアァァァ!」
カラスが再び叫び声をあげた。見上げる真一に対し、カラスは鋭いくちばしを真っ直ぐ向け、真っ黒な瞳で見下ろしている。
一瞬にして身体が金縛りのようになった。少しでも動けばやられる――そう思うと余計に足が床に張り付く。嘴の先端は細く光り真一の恐怖心を煽った。それに対し真一も何もすることができず、ただ冷や汗が流れるのを感じるしかなかった。
「こら、シンイチ! ひとまず逃げるんじゃ!」
一方でヨウは冷静だった。固まる真一の身体を、小さな手で何度も肩を叩く。何度か叩かれたとき、ようやく正気に戻った真一はとっさに身体を動かした。
その直後、カラスが真一目掛け一気に嘴を振り下ろす。
――間一髪、真一は体勢を崩しながらも避けた。尻餅をついた先――嘴が床を激しく破り突き刺さっている。
「なっ……。こいつ……何なんだよ」
「ひとまず廊下に出るんじゃ! シンイチは何もするな。このカラスはわしがどうにかする!」
耳元で叫ぶヨウに言われるまま、素早く身体を起こし廊下に出た。すると、ヨウは真一の肩から離れ前に浮かんだ。
一方カラスは突き刺した嘴をゆっくりと抜くと、真っ黒の瞳で真一たちをじっと見ている。カラスの足元に倒れている先生は、あのまま動いた様子もない。
「どうにかするって……。俺より小さいお前に一体何ができるっつーんだよ! 危ねぇから下がれよ! 誰か呼んだほうが絶対にいいって!」
「安心せい。小さかろうとわしも男じゃ。シンイチもあの爺もわしが助ける」
恐怖と焦りで汗びっしょりになっている真一とは対照的に、後ろ姿のヨウの声は落ち着きのある声だった。
ヨウは両手を真っ直ぐ左右に伸ばし、叫んだ。
「インディションサモン!」
叫び終えると同時に、それぞれの手にぐるぐると光が集まり始めた。手が見えないくらいの玉の大きさになったかと思うと急にはじけ、そこからいきなり鋭い短剣出てきた。
「カラス! わしが相手じゃ!」
「ガァァァァ!」
耳が痛くなるほど叫んだカラスに対し、ヨウは怖気ずくことなく真っ直ぐカラスに向かって行く。
一方カラスも、真っ直ぐ向かってくるヨウ目掛け嘴を勢いよく振り下ろす。が、しかし、ヨウはそれを予想していたかのように横へ移動すると、素早くカラスの後ろに回り込む。そして、頭に向かって短剣を突き刺そうと突進する。
だが、カラスが素早く頭を引いて避けた。ヨウは勢いそのままで止まることができず、横を通り過ぎ床に激突する。
「いたた……こやつ素早いの」
「馬鹿! 気を抜くな!」
「おろ……短剣が動かんぞ」
ヨウが出した二つの短剣が、落ちた勢いのせいで床に見事に突き刺さっている。ヨウは腰に力を入れ思いっきり引っ張った。それでもびくともしない。それを見たカラスがゆっくりとヨウに近づいた。ヨウは急に周りが暗くなったのをおかしく思い見上げると、鋭い嘴の先端が頭の真上にある。
「ぬ!」
カラスが頭を振り下ろそうとした瞬間、道場に弦をはじく音が響き渡った。
――バシュッ。
響き渡ったかと思うと、カラスののど元に一本の矢が突き刺さっている。
「ギャアアアア!」
断末魔のような叫び声が道場に響き渡った。カラスは苦しそうに左右に首を激しく振っている。足元はふらふらとして今にも倒れそうだが、大きく見開かれた瞳に生気は宿っていた。ヨウはカラスの様子をじっと見ながら、突き刺さっている二つの短剣を必死になって動かした。そして、ふっと軽くなったかと思えば二つの短剣がようやく床から抜けていた。抜けたのを確認し、すぐさまふらふらとするカラスに向かい飛び掛った。そして勢いよく短剣を振り下ろす。
カラスの脳天に二本の短剣を突き刺したと同時に、ヨウはすぐさまカラスから離れ足元にいた先生の袴の裾を掴み、廊下の方へ引きずり始めた。
「……シンイチ! 手伝わんか!」
真一は的を射った後のように、左手に弓を持ち右手にかけをしたまま呆然とカラスを眺めていた。
「え、あぁごめん」
正気に戻った真一は駆け足で先生の元へ行った。近くにいたカラスは突き刺されたままの状態で固まっている。
「先生! 大丈夫ですか!」
「とにかく、廊下に出るんじゃ」
ヨウに言われるがまま真一は先生の両脇に腕を入れ、引きずりながら先生を運んでいく。
「おい! あのカラスどうしたんだ? さっきまで大暴れしてたのに……全然動かねぇじゃねぇか」
「……見ておれ。今に消滅する」
やっとのことで廊下に出て、ゆっくりと先生を床に下ろした。かすかに寝息が聞こえているので、どうやら気を失っているらしい。真一はほっと胸をなでおろした。ヨウは再び真一の肩に乗り、真一は戸から半分身を出して道場のカラスの様子をうかがった。
突き刺さったまま動かないカラスだったが、突然その短剣からさらさらと砂のように崩れ始めた。真っ黒だったカラスが、黒い砂に変わっていく。
やがて、カラスは黒い砂と化し、そしてその砂は雪のように道場から消え去ってしまった。道場に残ったものは、カラスの鋭い嘴によってできた大きな穴と、尖った爪が床に残した、いくつもの大きな鉤跡だけだった。