靴
ロケ先で用意されていた、有名なブランドの、お洒落なサンダル。
15センチのハイヒールだって履きこなす私が、たかだか8センチのヒールで転けそうになるのは、履き慣れていたいことが1番の原因だろう。
靴擦れが痛い。この靴、歩くと足首の紐が、ぐっと皮膚に食い込んでくる。
いくら有名なブランドだとは言え、これはなかなか、売れそうに無い……いや、世のお洒落女子は気にせず履くだろうか。
今日はこの靴で、何時間もロケをしなければいけないことを考えると、なんて苦痛なのだろうと思う。
「リンリンたーん、準備ぉおけぇー? 撮影始めんよー」
甘ったるく話しかけてくる男性スタッフを一瞥して、溜息を吐きたいのを堪える。
こいつは、私がバスから降りた瞬間、サインを求めてきた厚かましい奴だ。
「……私、絆創膏買ってくる。マネージャーに伝えておいて」
「えっ、絆創膏? そのくらいなら、今すぐ僕が」
「良いの。私が行く」
スタッフの言葉を途中で遮って、私は歩き出した。
こういう奴は、相手が人気女優だからと、バカ高い絆創膏を探し求める阿呆でしか無いのだ。それなら、自分で行った方が、安上がりだし、何より早い。
ラフな帽子と、目元を完全に隠すサングラス。
近頃有名になってきた私が、帽子の中に髪の毛を入れるだけで、大抵の一般人はコロリと騙されてくれる。
人の印象とは、そういうものだ。
近くの薬局で、1番安い絆創膏を買う。
どうせ、靴擦れ用でしか使わないのだ。それなら安い方がお得だろう、と思いながら、足首に絆創膏を貼る。
そして、人気女優になっても、まだ、下積み時代の貧乏性が働いてしまう自分に気付いて、苦笑した。
薬局から出てくると。
「痛ダァッ!」
……目の前で大の男が、冗談かと思うくらい綺麗にすっ転んだ。
「…………」
ここはスルーすべきか、助け起こすべきか、暫し悩む。
まぁでも、助け起こすのも面倒だ、と思った私は、素通りしようと横道を通る。
「……んーっ?」
男が、もぞもぞと動く。
……都会から少し離れているとはいえ、誰も助け起こさないとは何事だろう。
他人というのは無情なものだな、と、自分のことを棚に上げながら、私はそう思った。
「目の前に、まるで白魚のような美しい脚がっ! おお神よ、貴方はワタシに何と素晴らしいものを恵んでくださったのだ! ハッこれは、その麗しき匂いを嗅げ、というお告げだな?!」
……なんなんだ、この変態は?
標的にされた脚の主が可哀想だな、とは思いつつ、私は足を早めた。
ロケが、あと1時間後に始まるのだ。このままでは遅れてしまう。今が旬の女優にとって、勝手に抜け出しロケに遅れるなぞという事があれば、取り返しのつかないことになる。
「ああ待って! 神の御御脚! せめて、せめてその脚で、ワタシのここを踏んでくださいっ」
マゾかよ、キショ。
そういう言葉をぐっと飲み込み、私は更に足を早める。
……あの変態、どうやら私の行く先へ向かっているらしい。
ああ嫌だ、いくら対象が自分では無いとは言え、まるで、自分が変態に追いかけられているようなこの恐ろしさに、誰が嫌悪を覚えないのかというものだ。
「待って待って、行くならこのワタシの股の間についているコレを踏んで行って……!」
訂正しよう。
変態じゃなくて、こいつはドマゾのド変態だ。
こんな変態が湧いているなんて、世も末だなとしか思えない。
ああ、喉が渇いた。さっさと帰って、あのスタッフに飲み物をねだろう。
「待って待ってってばぁ〜! ……うん?」
やっと、変態が黙った。
どうやら気配からして、もう私を追いかけるように這うのはやめたようだ。
「ねぇお姉さん」
ふむ、綺麗な脚の主は、やはりお姉さんだったか。可哀想だな。
「ちょっと、君のことだって」
「は?」
ぐっ、と何かが腰に巻き付いた。
……誰が見ようと一瞬で分かる。男の腕だ。
「……へ?」
「ねぇ君ってさ……野宮凛?」
「…………」
「この匂い……あと、この美しい脚の形とこのたわわに実った果実のような胸っ! やっぱ、今大人気の凛たん、だ!」
……ふむ。いまいち状況が掴めないが、ここは大声を出して周囲に助けを求めるべきか、男の股間を蹴り上げてでも逃げるべきか、それとも、つまらないロケに行くよりこの男の話を聞く方が、有意義か?
取り敢えず、話だけでも書いてやろうか。
掴まれたその腕を無理やり離して、私はそいつと向かい合う。
「お前は誰だ」
「……え? あ、そうだね、自己紹介は必要だよねぇ……僕は、田中待広だお♪」
たなかまちひろ? 田中町、広い?
「何それ?」
「えっ知んない?! 今話題のアニメ映画作った、名監督だよ!?」
「私は知らない」
「ウッソーッ?!」
ふむ。この男、五月蝿い。その上ちっとも面白く無い。
「嫌い」
「なんで初めて会って早々、嫌われたのかなぁ僕は?!」
「黙れ」
「もうヤダこの子! いや無愛想なキャラってのは知ってたけどさ?!」
「私を知ってる?」
「そりゃ知ってるよ! 世界に通用する名女優、野宮凛のことを知らない奴とか、どんだけ社会問題に疎い奴だよッ!」
叫ぶな、五月蝿い。
……でも、脚が綺麗とか、名女優とか言われると、照れる。
「…………ありがと」
「……唐突なデレッ?! 凛ちゃんのせいで、僕はすっかりツンデレ萌えだよ、全くもう! 好き!」
「五月蝿い」
「いやーっ、冷たい〜んっ!」
ゴロゴロゴロ、と地面に転がる男。
「ねぇ変態、夏なのに、転がって熱く無い?」
「変態?! 凛ちゃん僕の名前聞いても関係無しに、僕のこと変態って言うんだ、うわーん! でも美女に変態って罵られても、ご褒美にしか聞こえないよね、どうしよう!」
「変態、情緒不安定? お医者さん、呼ぶ?」
「お巡りさんじゃ無くてお医者さんってとこが、これまた嫌だなぁ! 職質受けなくて済むけど、それ絶対精神科だよね? 僕、精神科嫌いだよ!」
五月蝿い男。まるで蝉みたいだ。
よくよく見るとこの男、蝉みたいな色した眼鏡をかけている。
「……変態、蝉?」
「え待って、それどういう事?!」
ああ、そういえばロケがあった。
早く帰らなければならない。
「私、マネージャーに怒られるから、帰る」
そう言ってから、……少しだけ気になって、男に問う。
「変態、迷子? お巡りさんに、言ってあげる?」
「いや迷子って歳でも無いし、そもそも迷子じゃ無いしね! 心配無用だよ! 敢えて言うなら、ツンデレ気質の無愛想な不思議ちゃんを楽しみたいなあ! デートしない?」
「しない」
じゃあね、と歩き出せば、男はハッキリとよく通る声で、またね、と言った。
振り向けば、大きく手を振っていた。
ロケ地に帰った私は、ふと自分の脚を見る。
成る程、確かにこれは、綺麗かもしれない。
食事制限、適度な運動、睡眠に、外出時間と入浴時間等。
全て、他人に決められた、他人の為の体。
私の為だと嘯きながら、他人は他人の為に私を整える。
いつも不満に思ったし、時には激しい怒りを覚えた。
でもまぁ、そんな体でも、褒められるのは……悪く無い。
私は、思わず口許を緩ませた。