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2.明日は今日より色っぽく

 男も女も、一番重要なのは色気だ、と彩子は思う。どんなに研究に明け暮れて二徹三徹していても、鎖骨がちら見えしていればそれはもう大拍手だ。それがあるだけで疲れた顔だって色っぽくなる。腕まくりだって最高だ。半袖なんてこの世から無くなってしまえばいい。腕まくり、どんな人間でも頑張っている感じと、けだるげな感じがでて、最高だというのが彩子の持論だ。大学の事務室のカウンターの向こうを通り過ぎていく30代の准教授は、そんな彩子にとって格好の目の保養である。くたびれたサンダルの訪れを知らせるかすれた音が聞こえると、彩子はそっと視線を上げる。


 もさもさな頭が、カウンター越しにゆさゆさと揺れる。メガネの向こうの少し不安げな瞳とであう。もじもじしているその男に、彩子は声をかけるでもなく、今日もその腕をチェックする。よっしゃ、今日も腕まくり。

「あの、書類を…」蚊の鳴くような声が降ってくる。

最初にこの人と話した時は、何を言っているかわからずに聞き返したものだが、今の彩子は違う。

「これですね、お待ちしていました」

にっこり微笑んで差し出した。ときめきを与えてくれた人間にはそれ相応の対応が必要だ。

「あ、どうも」ほっとしたように男も微笑む。「遅くなって済みませんでした」小さな声で続ける。そういうところも好きだ。

「いいえ、ただ締め切りは守ってくださいね。こことここに記入をしたら持ってきてください」シャーペンで手早く丸を付ける

「わかりました」鎖骨が上下する。うん、今日もいいくぼみ具合。「急いで…持ってきます…」

見とれていた彩子は慌てて返事をした「はい、おねがいします!」

引き返していくサンダルの音。この前より引きずってる?買い替え時じゃないだろうか。そういうところも、好きだけど。



「まったくさー、彩子はほんっと好きだよねー」昼休み、自販機の前で同期の瑞希がコーヒーを片手に吐き出す。恒例行事だ。

「いいじゃん人の好みなんだから」いつものバナナ・オレを握りしめ、彩子は反論する。

「まーたあんたのたまらない季節がやってきましたね、彩子さん」勝手知ったるという同期の言葉に、彩子はにやけた。「そうなのよ、瑞希さん」口調が完全に井戸端会議のおばちゃんだ。「白シャツ、最高!!」周りに人がいないことをいいことに腕を振り回す。

その様子をしり目に瑞希が熱いコーヒーをすする。猫舌のくせに粋がっちゃって。「ほんと、あんたのそういうところ意外だわ」瑞希の言葉に彩子は首を傾げた「え?」

「初めて会ったときはさ、うわーなんかできる女!って感じでお高く留まってるように見えたけど、口を開けばあの人のここがえろい、ここが素敵、あの鎖骨があの腰つきが・・・・って男女問わずなんだもん」やれやれといった体の瑞希に、彩子は憤る。

「えろい、ではなくセクシーと表現してほしいな!私のフェチズムはそんな俗語では表現できないの!!!」えらい違いだと何度言っても瑞希はわけがわからないという顔をする。いいんだ、私だけだわかって堪能できれば…涙をすするしぐさをしながら一気にバナナオレを飲み込む。事務室に向かって歩き出した。

「でもね、例のあの教授は別格なの、廃れた色気なの。それに比べて私の色気のなさ!・・・合コンでもえ、なんでこいつこんなとこいんのって顔されてばっかだし」

「ま、仲良くない人間にはあんた大抵バリア張りまくりだもんねー。」瑞希がため息をつく。「こんなに頭の中はえろえろなのにねー」

「えろえろ言うんじゃありません」めっ、と瑞希をにらみつける。「ちょっとでも色気出せたら、男の一人や二人ころころっと、ね」

「どの口が言うかー」瑞希がげらげら笑う。あけっぴろげな瑞希の性格が、彩子にはたまらない。これも一つの色気、と頭のメモ帳に書き留める。色気とは男女問わず。美しく人を魅了するものだ。

「じゃ、あの色気むんむんな教授によろしくね」「うっさいなー、もう彩子、無い色気を絞り出してがんばっちゃう!」人気のないことをいいことに瑞希と業務中には寒すぎる冗談を飛ばしあって別れた。いや、昼休みは業務時間外だしあと4分はある。我ながら変に浮き立ったテンションだ。春だからかなぁ。あ、そうだ自販機前のコピー機に資料置いたままだったと慌てて踵を返した途端、視界が真っ白になる。

「あ、すいませんっ」予想外に人に近づいてしまったことに慌てて彩子は飛びのいた。

見上げた先に、運命を呪いたくなるようなタイミングであの人がいた。分かりやすい、分かりやすいくらいこれはまずいしありがち過ぎる。


「あ、先生!どうされたんですかっ」自分で言ってて泣きたくなるくらい慌てている。どぎまぎして腕ばっかり見てしまう。いや、いつものことだ。

「先ほどの資料を…」そう言って、大好きな腕まくりが資料を差し出してくる。ああもうたまらん・・・って、いや、さすがの私でも今はそれどころじゃない。


「あ、さっそく…助かります!」受け取って軽く目を走らせる。「はい、たしかに!」にっこり笑ってみせた。はい、ありがとう。はい、さようなら。という大人なニュアンスを精一杯出した笑顔だ。しかし、彼は動かない。なんだ、電源がオフになったのか、それとも大爆発に向けての準備段階か。恐れおののくコンマ何秒かを経て、薄い唇が開いた「あなたにも健康的な色気が。。。あるんじゃないでしょうか」


鐘の鳴る音が聞こえた。これは試合終了のチャイムかそれとも…。

顔から火が出そうだ、いやこれは出てるだろう。心臓が悲鳴を上げてのたうち回っている。いや待てこれはあれかもしれない。ウエディング・ベルのなる音かもしれない。いや待ってって。そりゃあ私も適齢期で、周りはつぎつぎゴールインでご祝儀貧乏だけれども。

 しどろもどろしている彩子を置いて、「じゃ」とくたびれたサンダルの音が遠ざかる。ふと我に返ってその後姿を見つめた。ちょっとだけさみしそうに上下して去る腕まくり。


ここでやらねでいつやるか。踏み出せ一歩。彩子の中の何かがはじけた。白い背中に向かって言う。

「あの、先生はっ」そこではたと固まる。何を言うつもり?

もじゃもじゃ頭が振り返った。メガネの奥の表情は読み取れない。

「せ、先生は、彼女さんとかいいいいらっしゃるんですか」私は何を言っているのだ、奥様がいてもおかしくないというのに。自分の発言の低レベルさに胃の中でバナナ・オレが暴動を起こしかけている。

「いえ、いないですね…」ほらこれはあれだよ、妻ならいますけどってオチだよ!と勝手に結論に導き勝手に落ち込む。

「なにせ、枯れてますんで…」それは皮肉か、あてつけか。ええいもうヤケだ!

「そ、それならばっ」ぎっとにらみつける。いや、ここでこの顔はないわ、でもそれなりに真剣勝負だ。25歳、今ここで本気出す。「…今度、ご飯でも行って潤いを与えねばですね!?」ねばですねってなんだよ、もう死にたい。

「ねば、ですね…」男の人にしては長い指が答えをじらすかのように頭を掻く。その指を凝視しながら彩子は微動だにできない。

「今度、お誘いします…」そう言い残して白っぽい塊が遠ざかっていった。うわ、うわ、動揺で目がよく見えていない。


何かが始まった。やっぱり春だ。春が一番だ。

思わず握りしめた手でぐしゃっとなった重要書類を見て、これで会いに行く口実ができた、と興奮冷めやらない彩子は冷静ぶるのだった。


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