第八話 人食い鬼
結局私はまた、二○一号室に戻って来てしまった。
恐怖で押し潰されそうになる。このアパートから出られない以上、このアパートの住人に逆らう訳にはいかなかった。もし逆らったら、先輩みたいになるかもしれない、そう思ったからだ。それだけは、絶対に嫌!! だから、機嫌を損なうようなことは出来ない。それに、目の前にいる黒髪の美女から、逆らえない何かを感じていたのも、確かなことだった。それは恐怖からなのか……。私には分からなかった。
安藤は私の目の前に、コーヒーが入ったカップを置くと、ぽつりぽつりと話始めた。
「……朔夜ちゃんがみたのはね、この場所に起きた、遠い昔の出来事よ」
遠い、遠いーー昔。
五百年ぐらい前の話だ。
あやかし、妖怪、魔物、様々な名前で呼ばれる異界のモノと人間の境が曖昧な時代に、その惨事がこの地で起きた。
異界のモノの住む世界と人間が住む世界の壁が、突如として消え失せ、二つの世界が繋がってしまった。人間界に解き放たれた異界のモノは、水を得た魚のように人々を襲い、その血と肉を喰らった。村に流れていた小川は真っ赤に染まり、至る所で鉄の匂いがした。戦う術のない人間はなす術がなく、大勢の村の者がその犠牲になった。それは隣の村まで及んだ。
だがその異界のモノが唯一、入って来れない場所があったーー。
それは神社だ。
僅かに生き残った村人たちは、神社の中で息を潜めて、異界のモノが去るのを待った。穴が塞がれない限り、去ることはないのに。嵐が通り過ぎるのを待つように、ただじっと……待ち続けた。その間も、異界のモノは穴を通り、この世界にやって来る。
誰もが絶望にうちひしがれた時だーー。
村人の前に一人の僧侶が現れた。藁をも掴む思いで、村人たちは僧侶にすがった。
その思いに答えた僧侶は、生き残った村人たちにこう言った。
「穴を塞ぐ方法はある」とーー。
そのためにはまず「人間と密接な関係にある、あやかしを捕まえる必要がある」と、僧侶は言った。
僧侶の言葉に、一人の村人が反応した。「思い当たるモノがいる」と。それはこの神社の裏山に住む一家の主だった。大きな対格に、赤い髪、そして赤い目をしていた。髪の毛を隠していたが、ちらりと見えたと村人は言った。
これで救われる。村の生き残りたちは色めきたった。そして僧侶と共に裏山に入り、一家を襲撃した。
そして捕らえられたのが、一匹の鬼だった。
その鬼はかつて人だった。だが度重なる飢饉の中、その男はあろうことか、友を喰らった。
そして男はーー人鬼になった。
強烈な飢えに襲われる度に人を襲い、喰らっていくうちに、その男は人鬼から人喰い鬼へと変貌した。
だが、一人の人間の女性を心から愛し、人の心を取り戻した人食い鬼は、その女性のために人を喰らうのを止めた。強烈な飢餓が人食い鬼を襲ったが、鬼は耐えた。愛する者を失う恐怖に比べれば、飢餓などとるにたらない。そして人食い鬼と女性は、人里から離れた場所に住み、子をなし、慎ましやかだが幸せに暮らしていた。人を喰らうのを止めたせいで、鬼の力は、その大半を失っていた。それでも鬼にとって、その生活は幸せなものだったに違いない。
しかし、僧侶と村人たちは、その慎ましやかな幸せを奪い去った。
村人と僧侶は、鬼の妻と子を人質にとり、その身柄を押さえた。
そしてーー。
家族の見ている目の前で、人食い鬼を穴に落としたのだ。すぐさま僧侶は、その上に結界を張り、村人たちは大岩を動かし、蓋をした。
愛する家族を護るために鬼は戦うしかない。結果、それが結界を護ることとなる。傷付いても……傷付いても……死なない不死身の肉体を持つ鬼は、戦い続けた。戦い続ける他道はなかった。
ーー〈守護者〉として。
「……それが、朔夜ちゃんが見た夢の話」
安藤は淡々と、私に話して聞かせた。でもそれが本当なら、疑問が残る。
「このアパートの敷地に、大岩が見当たらないけど?」
「ええ、ないわ。取り壊されたの。六十年ほど前にね」
そう言うと、一口、コーヒーを口に含んだ。私もつられるように、コーヒーを口に含む。
「結界を張って以後、この土地は鬼の子孫たちが代々守ってきたの。神社を建てて、大岩を奉ってね。それがせめてもの、村人たちの優しさだったのかもしれない」
「優しさ?」
もし、彼女の言うことが本当のことだったとしても、私はそれのどこが優しさなのか分からなかった。その気持ちが伝わったのだろう。
「その当時、土地を持つということは、すごいことだったのよ。特に、故郷を捨てた者にとってはね」
人食い鬼と共に生きる。それを望んだ女性は故郷を失うことになっただろう。住む土地を転々としてきたに違いない。そう考えると、私は彼女が言おうとしていることが理解出来た。
ただ……安藤が浮かべたその笑みは、まるで泣いてるように、何故か私の目にはそう映った。
(この人は……今までどんな生活をおくってきたの?)
私は目の前にいる黒髪の美女を、不思議な思いで見詰めていた。
安藤は話を元に戻す。
「……六十年ほど前、突然、金融屋が現れたの。そしてこの土地は自分たちのものだと言った。証文を根拠にね。証文には、鬼頭一徳という名前が書かれていたわ。賭け事で作った借金のかたに、神社の土地建物を抵当にいれてたの。借金取りは、今すぐ立ち退けと迫った。従わないとこうなると言って、ガラの悪い連中と一緒に大岩を動かしてしまったの…………」
そしてーー惨劇は再び繰り返された。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。少しでも、ひんやりして頂けたでしょうか。