第七話 囚われし者
胃の中の物を全て吐き出しても、嘔吐感はなくならない。脳裏に焼き付いて離れないのだ。先輩の生首を持って微笑む加奈の顔がーー。そして、血まみれの部屋、飛び散る肉片と内臓が。
(……嘘であって欲しい)
心の奥底から、私はそう願った。でも……これは夢ではなく、現実の世界で起きたことだった。
「朔夜ちゃん、大丈夫? 落ち着いた?」
何度も嘔吐を繰り返す私を心配して、安藤は背中を撫でようとする。それは彼女親切心からかもしれない。しかし、この人はあの人たちの仲間だ!! あの人殺しの!!
「触らないで!!」
私は安藤の手を乱暴に振り払う。そして、このアパートから今すぐ出ようと、ドアに手をかけだ。ドアノブを回すと、意外にもドアはすんなりと開いた。私は転げるように階段を降りると、アパートの敷地から出ようとした。
(ーー!!)
その時、何かに弾かれて、私は体勢を崩す。何!! 嘘っ!! 私は敷地から出ることが出来なかった。目に見えない壁が、確かにそこにはあったからだ。
道が目の前にある。人が普通に歩いている。私は見えない壁を叩きながら叫んだ。「誰か!! ここから出して!! 気付いてよ!!」と。だが……目の前で歩く人には、全く聞こえないようだ。皆、素通りして行く。
「聞こえないわよ、朔夜ちゃん。ここと向こう側では、存在する次元が違うから」
私の背後からそう答えたのは、安藤だった。私は短い悲鳴を上げて、その場に座り込む。彼女の笑みは恐怖そのものだった。
「もし聞こえていたら、今頃、警察が来ているわ……あの時のようにね」
座り込んでしまった私の前に、安藤はしゃがむと言った。長い黒髪が地面につきそうになる。私は恐くて横にずれた。安藤は近付いて来ない。その距離感が、私に少し冷静さを取り戻させた。
『……あの時のように』
安藤は確かにそう言った。曖昧な言い方だが、私には、目の前に座って微笑んでいる彼女が何を言おうとしているのか、何となくだが分かった。
「…………十年前の?」
安藤は答えない。だけど、その悠然とした微笑みを見て、私は自分が間違っていないことを知る。
「ええ。怜子ちゃんは〈依り代〉に選ばれたの、人食い鬼のね」
安藤は表情を変えることなく言う。まるで挨拶するような言い方が、さらに恐怖を生み出す。言い方がどんなものでも、安藤は玲ちゃんの名前を確かに出した。
(ーー玲ちゃんが、人食い鬼の〈依り代〉に?)
それがどういう意味なのか、私はすぐに理解出来なかった。だが聞き覚えのある言葉を安藤は口にした。
〈人食い鬼〉という言葉だ。
私はその言葉をつい最近聞いた気がする。いや、最近じゃない。今さっきだ。それも夢の中で聞いた。僧侶や庄屋、村人たちが言っていた。『人食い鬼を封じ込めた』と。
確か……〈守護者〉にするために。
(あれは夢ではなかったの?)
「夢じゃないわよ。朔夜ちゃんが見たのは」
まるで、私の考えを読んだかのように、安藤は言った。
ゾクッと寒気が全身に走る。目の前にいるのは、果たして人間なのだろうか。私は安藤の背後に、一瞬だが、深い闇が見えた気がした。
「こんなところで立ち話も何だから、部屋に入ってお茶をしながら話をしない? 朔夜ちゃんも色々知りたいでしょう」
にっこりと微笑みながら、安藤はそう提案した。
私は首を横に振って拒否したかった。話はここでも出来る。先輩があんな無惨な姿で最後を遂げた、あのアパートに足を踏み入れたくはなかった。それよりも、ここから一刻も早く出たかった。そう言おうとしたことが、どうしても言えなかった。否を言わせない何かが……安藤の全身からあふれでていた。
私は二度と外には出られないのかな……。
先輩のように〈人食い鬼〉に食われてしまうの……。
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。少しでもひんやり出来たら、嬉しいです。