第五話 掴む手
加奈から掛かってきた電話に、急いで〈裏野ハイツ〉に向かった私は、アパートの敷地に入ろうとした瞬間、いきなり腕を掴まれた。
(ーー!!)
私は心臓が止まりそうなほど驚いた。おそるおそる、私は後ろを振り返る。その瞬間ーー私は声にならない叫び声を上げた。
私の腕を掴んでいたのは、紛れもない、今はもうこの世にいない人だった。それは、私を愛し育ててくれた人だ。私は何度、その人に会いたかったことか……。私の腕を掴んでいたのは、三年前に亡くなった母だった。
母は何も言わずに私の腕を掴んでいる。しかし口は、しきりに動いていた。でも……母が何を言っているのか、言おうとしているのか、私には分からなかった。早口過ぎて、唇を読むことも出来なかった。聞こえない。読めない。それでも母が、このアパートに私を入れさせないようにしていることは、十分過ぎるほど分かった。
(それほど……危険なところなのかもしれない)
亡き母が必死で止めようとしている。娘を守ろうとしている。死して尚、私を守ろうしてくれてることに、私は涙が出そうになった。
「……お母さん」
私が声に出して、お母に呼びかけた時だったーー。アパートから、悲鳴が聞こえてきたのは。それは、加奈の声だった。
「ーー加奈!!」
私はアパートを見上げる。
アパートの外の通路の手すりを背に、加奈が座っていた。その目の前には、大きな黒い影が、今まさにーー覆い被さろうとしていた。
私は思わず、母の手を振り払った。尚も掴もうとする母に、私は「ごめん」と謝ると、アパートの敷地に足を踏み入れた。その瞬間にも、加奈は黒い影に引っ張られて、二○二号室に入って行く。加奈は必死に外に腕を伸ばしている。
「加奈!!」
私はもう一度、加奈の名前を叫んだ。加奈が一瞬、私を見た気がした。
私は急いで階段を駆け上った。後ろを振り返ることなく。だから気が付かなかった。私がアパートに足を踏み入れた瞬間ーー母の姿が消えてしまったことに。
二○二号室のドアを勢いよく開け室内に入った瞬間ーー室内の明かりが灯る。
むせ返る鉄分の匂い。そして私の目に映ったのは……無惨に散らばる肉片と、床と壁一面に飛び散った赤い血。
それから、転がっている男の首。
転がっている男の首の持ち主を、私のよく知っている。でもその顔は……人間がするような表情ではなかった。様々な負の感情の全てを織り込んだような、そんな表情をしていた。その目は、真っ直ぐに私を見ている。
私は手で口を塞ぐと、後ずさる。
「あたしを助けに来てくれたんじゃないの?」
思わず後ずさる私に、拗ねたような口調の加奈の声が聞こえてきた。私は顔を上げる。そこには、血塗れの部屋の中、悠然と微笑む加奈が立っていた。
「驚いた? ごめんね」
加奈はそう言うと、転がる先輩の頭を拾う。
私はその光景を見た瞬間ーー意識が途切れ、その場に崩れ落ちた。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。ひんやりしましか?