第四話 電話
「……朔…夜…どうしよう。先輩が……先輩が、隣の部屋に行ったまま戻って来ないの」
耳元から聞こえてきた加奈の声は、震えてか細いものだった。
「何があったの!?」
私は加奈に訊く。
「……先輩が遊びに来ていて、そしたら、隣から変な物音が聞こえてきて………きゃあ!!」
「ーーどうしたの!? 加奈!!」
私は加奈の名前を呼ぶが返答がない。その通話口から、ドン!! ドン!! という、何かを壁に叩き付けるような、誰かが壁を叩くような音が聞こえてくる。
(確か……隣は空室のはず)
加奈はそう言っていた。空室の部屋から聞こえてきた物音に、不審に思った先輩が見に行ったのだ。
私は思い出す。子供の頃、二○二号室に入った入居者が、すぐに引っ越して行ったことをーー。入居者は皆、壁から変な音がすると言っていた。変な気配がするとも、言っていた。不安が私を襲う。玲ちゃんのことが脳裏を過る。
「加奈!! 加奈!! 今すぐ、アパートから出て!!」
私はスマホに向かって叫んだ。
(加奈まで失いたくない!!)
私が何度も叫んでも、加奈からの返事は返って来ない。それでも私は、加奈の名前を呼び続けた。通行人が不審そうに私を見ている。他人の目など気にしてる暇はない。そうしているうちにも、壁を叩き付けるような大きな音が聞こえてくる。その間隔が、だんだん……だんだん……短くなっている。
「…………い………や………来ないで………来ないで……」
加奈の声が聞こえた。その声は小さくて、遠くに感じた。スマホは加奈から離れた場所にあるみたいだった。加奈のスマホから、幼馴染みの、親友の恐怖が、ひしひしと伝わってくる。
その時ーー聞きなれない音が聞こえた。
『……ごりっ、ごりっ、ごりっ』
何か硬い物を噛み砕くような音だった。
それと同時に、加奈の鋭い悲鳴が私の耳を突く。
そして唐突にーー電話が切れた。
私は踵を返すと〈裏野ハイツ〉に向かって走り始めた。
(やっぱり、あのアパートには何かがいるのだ!!)
何か……人間以外の何かが、あのアパートにはいるのだ。それが、加奈と先輩を襲った。そして、玲ちゃんを襲ったのだ。あの血だまりと、壁に続く血の痕を思い出す。
この十年……ずっと思ってた。私が遅れなかったら、玲ちゃんは今頃私と同じように大学生で、普通の生活がおくれていたに違いないと。加奈のように、優しい彼氏がいたのかもしれない。
私があのアパートに一切近付かなかったのは、罪悪感からだ。今も悔いている。何で私は、あのアパートはやめるうに、加奈に言えなかったのだろう。嫌われても言うべきだった。後悔で胸が押し潰されそうになる。
また私は、あの思いを繰り返すのかーー。
また、親友を救えないのかーー。
化け物に対しての恐怖と、加奈たちを失うかもしれない恐怖が私を襲った。今は何も考えない。自分に言い聞かす。恐怖を押し殺して、私は走るスピードを上げた。
(どうか、間に合って!!)
私は心の中で、加奈たちの無事を願った。
九時頃、加奈の電話が切れてから三十分ぐらいで〈裏野ハイツ〉に到着した。
四方をコンクリートの塀に囲まれた真ん中に、そのアパートは建っている。十年前と全く変わらない。見た目は古いアパートだ。電灯の明かりで、アパートが暗闇の中、ぽつっと浮き出ている。不思議なことに、アパートのどの部屋も電気が付いていなかった。そして、物音ひとつしない。その異様さに、私は思わず息を飲んだ。
恐怖で足がすくむ。だけど、このまま帰るわけにはいかない。私は勇気を振り絞って、アパートの敷地に足を踏み入れようとした。
その時だーー。誰かが、私の腕を掴んだのは。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。少しでもひんやり出来ますように。