1.隊商の首領(リャンティール)
隊商は、広大な砂漠を進んでいた。
十数名の一団は、ラクダや馬に荷物を載せて砂漠を進んでいる。
「よう、大丈夫か?」
青年はその隊商の一員だったが、最近雇われたばかりで当然砂漠を越えるのなど初めてだった。まばゆい日差しに目を細めていると、いつの間にか長が傍までやってきて、水筒を差し出してくれた。
すみません、と一言断ってから、青年は水を飲む。隣で彼も同じように水を飲んでいた。
「砂漠に入るのは初めてだったっけ? 今日は特に気温が高いから、キツイだろ」
「ええ。でも、この程度のことでバテるなんて格好悪いですよ」
「そんなことないさ。実は俺もバテそうだもん。実は俺は砂漠が苦手なんだよ」
彼はそういってにやっと笑う。
「ええ? どこが? 首領でも、バテることがあるんですか?」
笑いながら青年が尋ねると、彼は苦笑した。
「当たり前だろ。特に暑いところはダメなんだよ、狼人は。だから、俺も水分ちゃんと取ってないと、すぐ倒れそうになっちゃう」
「そうなんですかあ。でも、首領は、首領って呼ばれるぐらいだから、狼人の中でも強いんでしょう?」
首領。
彼はマゼルダ人の商人に雇われているといっていて、通常は隊商の長としてマゼルダ風に”サッポー”と名乗っていたが、身内の中では”首領”と呼ばれていた。
首領というのは、狼人の言葉で長を示す言葉であるらしい。というのは、青年もその男から聞いたことだ。
彼が狼人なのかどうか、本当のところは彼にはわかりはしないが、実際そういわれても納得するような気配を彼は備えていた。
緑がかった輝くような金髪に、若葉を固めて作った宝玉のような碧の瞳。頬には呪術めいた赤い顔料で描かれた模様。外見も、おっとりしているが黙っていれば凛々しい大男で、それは狼人らしい風貌には違いない。
しかし、噂で聞く狼人にしても彼は変わっていた。狼人は毛皮を纏って辺境の森にいるといわれているが、彼はこの通り、人間の世界の中で生活をしており、長く立派な剣を提げていた。マゼルダ人風の丈の長い紺の上着を纏っていたが、それには派手な金糸で独特の装飾がしてある。首元にはビーズをつなげて作った、少々魔術的な雰囲気の派手な首飾りをしていたが、彼が身に着けているとさほど派手にも思えずよく似合っている。
彼はそう尋ねられて、苦笑いした。
「どうかなあ。そりゃあ強いに越したことはないけど、そうでもないかもしれないさ」
「でも、首領って呼ばれるのは、強い奴だけなんでしょう?」
「強いだけじゃだめだよ。皆に支持される立派な男になって初めてなれるものなんだ。なろうと思ってなれるものじゃあないんだぞ。だからこそ、狼人にとって”首領”になることは、狼人の誉れなんだ」
でも、と彼は笑った。
「俺が本当はすごく強くて、立派な男なんだとして、そのおかげで首領って呼ばれるようになったんだとしたら、俺が偉いんじゃないよ」
意味が分からず青年がきょとんとすると、彼は柔らかく笑った。
「俺を首領にふさわしい男にした奴がいてね。そいつが一番偉いんだ」
*
「なんだありゃ……」
大きな砂丘を一つ越えたとき、目の前がいっそう開けた。
今まで必死で灼熱の砂の山を越えていただけに、砂丘一つ越えた後の景色は壮大で、おまけに地平線しか見えなかったときの絶望感といったらひどいものである。だが、今までずっとそうだっただけに、レックハルドはその光景に慣れすぎてしまっていた。
だから、今、目の前に現れた景色が信じられなかったのだ。
あまりにもそれは現実離れした光景で、幻か蜃気楼だとレックハルドが思ったとき、ちょうど横で声が聞こえた。
「ああ、やっと見えたんだ」
イェームがそれを見ながらため息をつく。
彼らの視線の先、要するに砂漠の尽きるところに、一本の木が立っているのが見えた。
それはこんな遠くからでもはっきりと大きく見えていた。聳え立つ、といったほうがむしろふさわしいようなその大木には、ぼんやりとはしているが緑の葉がしげっているのもわかる。ここから見る限りでもそうなのだから、実物はとんでもなく大きいに違いない。
「あれが聖グランカラン、太母の大樹だよ」
「何! あんなにでかいのか!」
「まぁな。だから、あのグランカランは特別なんだ。だからこそ、太母だよ」
レックハルドは驚いたまま、しばらくそれを眺めていた。
手前の森がようやく見えるほどなのに、それよりもはっきりと見えている高層建築のような大木は、何か不思議な世界にでも迷い込んだような、奇妙な感覚を与えた。
その巨大さは、ある種の神々しさをもって神聖な気配を、彼のような男にも伝えている。
「あそこまで行くんだけど……」
「まだまだ遠いな」
レックハルドは軽くため息をつく。いくら見えているとはいえ、それが巨大だから見えているのと、近いから見えているのでは意味が違う。それを理解してしまうと、少しうんざりするものの、結局うなだれても仕方がないので、レックハルドは前向きに考える事にした。
「まあ、見えないよりマシだってことさ。目標が見えたんだからよしとしなきゃな?」
「そうだな」
イェームが喜び三分、疲労七分のため息をついた。
レックハルドは次に目を砂丘のすぐ下にやった。
低くなったところに、大きな水溜りが見える。ちょっとした湖といったところだろうか。
だが、その湖は少し変わっていた。いつもは、水があるところはたいていオアシスになっている。だから、緑の集まった場所がつまり水のある場所、なのであるが、ここの湖にはそうした緑がまわりにひとつもないのだった。言ってみれば、砂の中に突然水溜りが広がっているといった感じなのである。
「いきなり水があるとは変わってるな」
唐突に雨でも降って、ここだけ水が溜まっているのだろうか。しかし、水たまりというには大きい。
湖は、空の色を映して青く輝いている。何となく宝石を思わせる、深い青の奇妙な湖だった。イェームは、例の地図を広げながら場所を確かめる。
「見てみると、地図にも一応載ってるな。ええと、鏡の泉、か」
「鏡?」
レックハルドは訊きかえす。そういわれてみれば、なるほど、澄み切った水が空の雲まで映してまるで鏡のように見える。
「ちょっとよって休んでいくか」
「そうだな、疲れたし……」
イェームは地図をしまいこみ、そのまま歩き出す。レックハルドも、その後をついていきながら、ふと太母の大樹のほうを見た。
目指す太母は、砂漠の尽きるところで天に向かって聳え立っている。
その巨大さと荘厳さは、見るものを威圧していたが、それと同時に枝についた葉の色は、レックハルドの荒れた心を静めるように優しかった。こんなに遠くでもそう思うぐらいだ。近くにいって見上げるとどうなのだろう。
不思議なものだ。と、レックハルドは思う。
あのグランカラン、太母といえば、彼にとってファルケンを捨てた存在だ。そんな冷たい印象しかなかったのに、こうして見ると何故かみずみずしく温かみに満ちていた。
不思議だ。と、彼は改めて思った。
***
不思議だ。
こんな書状を読みながら、自分はどうしてこんなにも心を乱していないのだろう。
そこには、彼女の夫の死を告げる報が書かれているというのに、書状を受け取った時も、中を読み終えた時も、周囲に気遣われた時も、彼女はまるで心を乱されなかったのだ。
ただ、彼女の胸に湧き上がるのは、疑念だけ。
(不思議なものね。こんな文章読むと、ちょっとは不安になるのかなって思っていたのに)
そんなことを思いながら、メアリーズシェイルは、送られてきた書状にもう一度目を通していた。
「不思議なものね」
気が付くといつの間にか、暁のロゥザリエが傍に舞い降りてきていた。
「どうして今になって、”彼”が死んだってギルファレス帝国が言ってきたのかしらね」
「しかも、メソリアと神聖バイロスカートに対して、援軍を要請してきたわ。弔い合戦的な大義名分を持ってね。彼は、メソリアとバイロスカートの宰相印を持っていたから……」
暁のロゥザリエは、傍から書状を覗き見てため息をついた。
「不思議なのは、あなたの方もだけれど」
「え?」
きょとんとして、彼女は赤い髪を揺らしながら振り返る。妖精のロゥザリエは、実年齢とは比較にならない子供っぽさをふと顔に浮かべて首を振った。
「とうとうそんな報告が来たものだから、少しは落ち込むかと思ったのだけど」
「あら、この間から彼が死んだかもしれないっていうのは何度も言われていたことよ」
とメアリーズシェイルは笑って書状を折りたたむ。
「逆に何故、今、ここで私にその報告をしてきたのか。その方が問題よ。……ギルファレスの帝王フェザリアは、一体どういうつもりなのかしらね」
「ええ」
そうこたえて、ロゥザリエはくすりと笑った。
「問題なのはそれ? 結局、あなた、あいつが死んだとは思っていないんでしょ? だから、そんなことを言っていられる」
「そうね……」
メアリーズシェイルは、苦笑した。
「ここまではっきり書かれているのだから、実際、彼がどうなったのかはわからないわ。ただ、私も、辺境の血を引いているから、直感は鋭いのよ。だからかしらね。ちっとも悲しくならないし、不安にもならない。今、敢えて彼が死んだことを喧伝するのは、かえって彼が本当は死んでいないのではないかと思えるのよ」
「そう……」
ロゥザリエは頷いた。
「それで、メルシャアド市に行くつもり?」
「断る理由はないわ。ただ、何も考えずに向かうことは、フェザリアの仕掛けた罠にはまりに行くようなものよ。彼は、おそらく私達メソリアや神聖バイロスカートをよく思ってはいない。だから、バイロスカートのサラビリア様がどうするかを見極めて同調するのがいいでしょう」
「神聖バイロスカートのサラビリア女王? ああ、あの預言の姫ね。……そうね、彼女なら……」
メアリーズシェイルは頷いた。
「彼女なら、本当に彼が死んだのかどうかを、きっと知っている」
「ふふ、ついでに答え合わせができるというわけね」
「ええ」
メアリーズシェイルの返事を聞いて、ロゥザリエは、ふとため息をついた。
「こちらも結構大変そうね。……うちも、色々とカタがついていないっていうのに」
「封印の話かしら?」
「ええそうよ。実は、森の中の妖魔の数が多すぎて、司祭だけでは、対処しきれていないの」
「酔葉のツァイザー様はどうしたの?」
筆頭司祭の名前を出したメアリーズシェイルに、ロゥザリエは首を振って苦笑した。
「あいつなら、まだ帰ってきていないの。もう、いつまで待たせるつもりかしらね」
「守護者の力を手に入れに行ったのだったわね」
「そうよ、十三番目の司祭、守護者……、けれど、そう簡単にはいかないのかもしれないわね。あの男でも」
「ふふ、ツァイザー様なら、ふらっと帰ってくる姿しか思い浮かばないけれどね」
不安そうなロゥザリエに、メアリーズシェイルは励ますように笑い、視線を外に向けた。
荒涼とした大地の向こうにメルシャアド市がある。砂塵が風に巻いて、世界がどこかくすんでいた。
***
湖のほとりで休んでいたところ、不意に物音を聞いてレックハルドは起き上がった。
おそらく、風の音か。そう思って音の方を見ると、急に黄色いもやのようなものが、地上から空高くまでかかっているのが見えた。
「砂嵐か?」
レックハルドは、水を口に含みながら訊いた。イェームは、少し表情を曇らせる。
「ああ、だったら厄介だな」
「どこかちょうど身を隠せるようなところを、探しておいた方がいいんじゃねえか」
レックハルドは言った。あまり激しい砂嵐なら、巻き込まれると厄介だ。ここは、辺境大砂漠、死の砂漠の中。他の砂漠の砂嵐と同じように考えてはいけない。
「それもそうだな。この湖の近くはなにもないけど岩場ぐらいあるかもしれない」
珍しく気を利かせたのか、イェームが立ち上がった。
「ああ、じゃあここで待ってるぜ」
「すぐ戻る」
ここはイェームに任せておいた方がいいだろう。レックハルドはそう判断して、再び座り込んだ。
ここは湖のほとり。座った拍子に、鏡のような水面に自分の姿が映ったのが見えて、何の気もなくレックハルドは湖を覗き込んだ。
澄み切った水の中には、命の痕跡が感じられなかった。清浄すぎる水には生命が住めないのだというのだが、そうなのだろうか。きれいすぎるが、何もない。その静謐さは水面にも及び、波紋一つない水面が鏡のように彼の顔をはっきりと映す。
砂で汚れたしろいターバンに、いつもの自分の顔が映っていた。
少し細い目に、悪党にも見えるかもしれない顔立ちは相変わらずだ。ふうとため息をつく。じっくり眺めた事はあまりないが、それにしても旅に出た割りには、変わり映えのしない顔だと自分で思った。イェームは彼をやつれたといったが、自分ではそうも感じない。辛い思いをしても、結局自分は何も変わっていないのかもしれない。そう思うと何となく哀しくなって、レックハルドは砂を掴んでばらっと湖に投げ込んだ。
細やかな砂で水面がかき乱され、映った自分の姿が乱れた。しかしそれもしばらくの間で、やがてもう一度鏡のようになる。
しかし、レックハルドは思わずぎくりとした。そこに映ったのは、いつか、彼の夢の中に出てきたあの男のようだった。真っ黒な服を着たレックハルドと同じ顔をした男の顔が、その水面に映し出されていた。
あの男は、名前を何だといったのだろう。
レックハルド=ハールシャー?
驚いて息を呑んでいるレックハルドの前で、その男はにやりとした。同時に、彼の手がそっと水面の中で伸びた。
「な……!」
レックハルドが逃げようとしたが、すでに遅かった。ざばりと水を割って、突然そこから手が伸びてきた。そして、そのままレックハルドの襟をつかんだ。
「うわっ!」
自分の影に袖をつかまれ、そのまま湖の中にすごい力で引き込まれる。必死に抗ったが、バランスを崩したのが早かった。そのまま引きずられ、ざばーんと大きな水音としぶきをたて、レックハルドの身体は湖の中に落ち込んだ。
けたたましい水音で、慌ててイェームはそちらを向いた。
「ど、どうしたんだ!」
慌てて叫ぶが、レックハルドの声は返ってこない。
「レックハルド!」
水面が乱れている。誤って湖に落ちたのだろうか。
慌てて湖の傍に駆け寄ろうとして、ふとイェームは異変に気付いた。唐突に視界が悪くなり、風の唸る音が聞こえた。はっとそちらを見ると、黄色い渦のようなものが、湖の向こう側、砂漠の向こう側からやってくる。
「砂嵐? そんな! さっきは地平線のほうだったじゃないか!」
イェームは少し青くなり、慌てて湖の方向に走り始めた。これは、異常だ。何か起こっているに違いない。
湖のほうの視界もきかない。レックハルドが、水の中にいるのか、それともほとりにあがっているのかすら確認ができなかった。
風が強い。
イェームの大きな身体ですら、まともに立っている事は困難になってきた。風の吹く方向に身体を屈めて抗いながら、イェームは進む。
「レックハルド! 無事なら、返事をしてくれ!」
この風では声も届かない。それがわかってはいたが、イェームは大声で叫んだ。黄色の砂の塊が、強い風と共に襲ってくる。まるで雪崩のようだ。
イェームは恐怖を感じ、とっさに顔の前を両手でかばった。
「レッ……ク……!!」
それ以上はイェームもいえなかった。そのまま、黄色い渦が一斉に彼に襲い掛かってくる。イェームは慌てて身をかがめた。その彼の上に、黄色い砂が覆いかぶさっていった。
*
ようやく砂嵐が収まった。一面黄色い風が吹き荒れていたそこは、ようやく視界を取り戻す。
一面の砂の中から、ごそりと何かが動いた。砂をざあざあ落としながら、半分立ち上がった人型の塊は袖の砂を払った。
「あーあ、汚れちゃうし、口の中に砂は入るし!」
忌々しげにいって口の中に混じった砂を吐き出して、男は盛大に砂を撒き散らしながら立ち上がった。どうやら、かなり大柄らしく、かぶったその砂の量も半端ではなく多い。服の中に入った砂を払い落とし、また、顔に巻いた布を外しながら、周りに目を配った。
「おーい、皆、無事か?」
やや鋭い目をしているが、何となく愛嬌があるので恐くは見えない。どことなくおっとりとしたのんきな雰囲気があり、こんな災難にあった後にしては余りにも元気だった。
「何とか……」
下の方にいる青年が、砂をよけると、ひょろひょろした声を上げた。その背後では更にラクダと人と荷物が砂を被って黄色く染まっているのが見えた。とりあえずは無事のようである。彼らはどうやら砂漠を行き来する隊商の一隊のようだった。
男はここの隊長の長らしい。
「えーっと、全員いるかー? いーち、にー、さーん……」
彼はそういうと目をやって数を数えた。人数が足りているらしい事を確認して、ほっとため息をつく。
「まぁ、はぐれた奴もいないようだし、よかったよかった」
「砂だらけになってよかったとかよくも言えますねえ。首領」
青年はため息をついた。相変わらず、例の呼び方で彼を呼ぶ。
「そりゃあ、砂に埋もれちゃうよりマシだろ」
「それはそうですが……」
彼が狼人らしいというのは、青年も知っているわけだが、それにしても狼人というのは皆こんなものなのだろうか。妙に余裕がある。彼はそんな青年の思いなど知ったことじゃないので、顎鬚を撫でながらうーんと唸った。
「なんだか、お前たち雇ってから、砂嵐とか流砂とかよく巻き込まれちゃうなあ。運の悪いのが混じってるんじゃないか?」
「そりゃないですよ。首領」
青年の隣で、青年と同じころに雇われた男が不満げにいった。
「むしろ、首領の運が悪いんじゃないです?」
「そんなことないさ。それに、俺は、なんだかんだで悪運が凄まじく強いんだ。俺がいるからこそ、お前たちもいろいろあっても無事なんだぞ。多分そうだと思う」
そこは誇っていいのかどうなのか。しかし、首領は相変わらずのんびりとそんなことを言う。
「それじゃ、ひきつづき出発しよう」
「何、無茶なこと言ってるんです? 立て直しに時間がかかりますよ」
男はあきれ半分に彼に言った。振り返ると仲間達は、必死で散らばった荷物を直している。砂嵐で体力を奪われたのか、ラクダの陰で休憩しているものもいた。
「ラクダの積荷をやりなおさなきゃ無理ですし、それでなくても連中も疲れ果ててますよ」
「えー。そうなのかー。そいつは、困ったなあー」
全然困っている気配もない。ひどい生返事である。どこまで本気なのかわからない。
「まあ、急がなければならない場所ではあるんでしょうけど。ここは盗賊の溜まり場だってききましたしね」
「うん。だから急いだほうがいいかなって思って。でも、まあ、そんなにみんなが疲れてるなら、ちょっと行ったところのオアシスで一回休んでもいいよ。宿場町も近くのはずだけどさ」
首領は軽い口調で返す。
「でも、盗賊がいるって……。追いはぎにあったらどうするんです?」
彼らの話を聞いていた青年が、急に怖くなったのかそう尋ねてくる。
「その時は、つぶしていくしかないよな」
「つぶすって?」
「ちょっとは覚悟しとかなきゃなー。まあ、気合で乗り切れば大丈夫だろ」
いい加減な事を言って、首領は長い上着の前を開いて、腰の帯辺りに差した剣の柄に手をやる。男は両手もちの大剣を提げているほか、短剣を二、三本つるしているのが見える。のんきな割には、結構な重装備だ。
「俺も一応頑張るからー」
「一応……」
軽い調子の首領に一抹の不安を覚えるが、この体格とこの装備。もしかしたら、すごく強いのかもしれない。いや、そういうことにしておこう。精神的な安定のために。
青年がそんな不安を覚えているのを知ってか知らずか、首領は遠くを眺めていたが、ふとあれっと声を上げた。
彼は目を細める。何かを見つけたのかもしれない。
「どうしましたか?」
「いやー、あそこに人が倒れてるみたいに見える」
そして、ちょいと青年に視線を投げやる。嫌な予感がして、彼は身を引いた。首領は予想通り、天真爛漫な笑みを浮かべて言った。
「あ、そーだ。お前、ちょっと行って助けてきてくれよ」
思ったとおりの言葉に青年は首を振った。すっかり疲れているから向こうまで歩きたくないのもあるし、それに大体さっきここには盗賊がいるといったばかりである。もし、それが盗賊の罠だとしたら。道で倒れている人間を助けようとして、みぐるみはがれる話しなど、世の中にあふれかえっている。
「そ、そんな……。盗賊だったらどうするんですか? いきなり切りかかってきたら……」
青年は不安そうな顔をした。首領は軽く肩をすくめる。
「大丈夫だよ。そんな簡単に死なないって! 怪我したらしたらで、手当ぐらいはしてあげるし、万一の時も骨ぐらい拾ってあげるってば。こういう経験を通して、度胸をつけて一人前の男になっていくらしいぞ。お前にはちょうどいい試練じゃないか?」
首領は、穏やかすぎていっそ不穏な笑みを浮かべた。
「ま、これも修業の一環ってやつだ。行ってみよう!」
「えええ、い、嫌ですよ」
「えー、そんなに嫌なのか? せっかくの機会なのになあ!」
完全に腰が引けている青年の様子に、首領はちぇっとつまらなさそうに舌打ちした。
「仕方がないなあ。それじゃあ俺が行ってくるか。ここで待ってろ」
首領は、その大柄の身体をひょいとそちらに向ける。紺色の長い外套が翻り、金で縁取られた呪術めいた文字がその裾ではらはらと揺れた。ざくざくと砂を踏みながら進んで、彼は砂丘の上に立った。視線の向こうに濃紺の外套が見えた。
ああ、と彼はふと息をついた。
「なるほどね、そういうことかあ」
彼にしかわからないつぶやきを一言つぶやいて、彼は再び歩き出す。外套の裾を相変わらず翻す。ふいに何かが剣とぶつかってカランと音を立てる。彼の腰には、金属でできた提灯が吊るされていた。
その提灯のことを、辺境の言葉で魔幻灯という。
慌てることもなく彼は倒れている誰かの元に歩み寄った。
「おーい、おーいっ! 生きてるか―い?」
どこかから響いてくる人の声のようなもので、レックハルドは目をあけた。
何となく間の抜けた声。どこかで、聞いたことがあるような。
「おーいってば。熱くないのか? 顔?」
そういわれてハッとした。砂が直に当たっている顔に熱を感じた。
「あちちっ!」
慌てて頬を離しながら、レックハルドは手を突いた。砂を払い、よくもこんなところで気を失って入れたものだと感心する。もう少しで火傷するとこだった。
砂を払いながら、レックハルドはある事を思い出し、はっと顔を上げた。
先ほど、自分は湖のほとりにいた。そして、湖の中に誰かの顔を見たのだ。そして――。
「あ、あれ? オ、オレは、水の中に落ちたんじゃあ…」
だったら、ここはどこだろう。レックハルドはきょろきょろと辺りを見回す。周りには砂しかないが、先ほどの場所と何となく違っているような気がする。それに、落ちたはずの湖が見当たらない。それに。
「イェーム……。どこいったんだ?」
あの覆面の狼人の姿もない。砂嵐に巻き込まれたのだろうか。
不安になり、レックハルドは慌てて膝を突いて起き上がると、砂を払った。頭にも服の中にも随分と砂が入り込んでいた。地形が砂嵐のせいで変わったのだろうか。
「それにしては、変わりすぎじゃないかい?
「おーい、そこの人」
急に声が聞こえ、レックハルドはびくりとした。死の砂漠はそもそも人が通りかかるはずのない砂漠だ。イェームはともかくとして、他の誰かから声をかけられるなどありえない。
だが、そういえば先ほどから声は聞こえていた気がする。
レックハルドは、やや警戒しながら振り返った。
振り向くと砂丘を、ざざっと足を滑らせながら降りてくる男が一人いた。光の照り返しがきついところにいるので、目を細めてみても男の容貌はわからない。だが、一応は人間のようだった。すぐに襲ってくる気配もないので、レックハルドは少し安心してゆっくりと立ち上がった。
男は素早くこちらに近づいてきた。普通の人間より足が速いような気がする。
「ひどい砂嵐だったな、大丈夫だったかい?」
優しく声をかけられて、レックハルドは顔を上げる。どこかで聞いたような声だったが、特には気にもかけなかった。それよりも、砂嵐という言葉が気にかかる。もしかして、自分が水の中において気を失っている間に砂嵐が起こったのかもしれないと思ったからだ。だとしたら、イェームとはぐれた可能性が高い。
「ああ、オレはなんとか。それより、オレの連れを……」
顔を上げながら、イェームを見なかったかどうか聞こうとした。だが、彼の言葉はそこで途切れた。
レックハルドははっと息を呑み、目の前の男を凝視した。
今は近くに寄ってきている男の顔がはっきりと見えていた。
緑がかった金髪に、透明な碧の瞳がこちらをみている。頬には赤い顔料で独特の模様が描かれ、大柄な身体をわずかに傾がせたまま突っ立っている。
どうやら狼人らしい。だが、レックハルドが驚いたのは、男が狼人だということにではない。
その男の容貌が、絶対にここにいるはずのない男と全く同じだったからだ。
鋭いようで、でも穏やかな瞳と、そして狼人にしては割合精悍な風貌。のんびりした感じのする表情に、見覚えがある紋様がいつものように描かれていた。
「お、お前ッ、……ファ……ファル…!」
名前を思わず飲み込んだ。そんなはずはないからだ。たとえ、姿が同じだとしても、ここに彼が現れるはずもない。あの時、ファルケンは確かに死んだ。ここに現れるはずもない。
レックハルドは目を皿のようにして相手を見た。イェームかもしれないと思いながら、だが、素顔をさらさないイェームが平気でこんな事をしているはずもないとも思った。それに第一、はっきりとイェームではない証拠が彼にはある。
レックハルドは、狼人の腰に目をやった。そこには大きな剣が提げてあったが、それと一緒に提げているのは見覚えのある魔幻灯だ。ところどころひっかき傷があるのも、よく見おぼえがある。まるで彼が持っていたあの魔幻灯そのままだ。
彼にしては珍しく、混乱で頭の中が整理できなかった。ただ、真っ青な顔をして、レックハルドは震える口でどうにか声を出す。
「ど、どうしてここに、いるんだ……! どうして、お前がここに…!…」
にやっと男は笑う。人のよさそうな顔だが、ちょっと悪戯っぽく、その男は笑った。
「どうしてって?」
見覚えのある顔で、全く見覚えのない表情をしながら、男は言った。どうやら、彼はレックハルドの言った言葉を、この砂漠で人がいることを不思議がっていると勘違いしたようだった。
「あはははは、ここにどうして人がいるのかって? まさか、あんた、”死の砂漠”じゃないんだから……、ここに旅人が通りかかっても当然だろ。ここは、カルヴァネスの西のデラビュ砂漠だぜ。俺達みたいな隊商の通り道さ」
死の砂漠ではないといわれても、レックハルドには何の事かわからない。死んだはずの男を前にして、レックハルドはただ男が自分の反応を見ながら、楽しそうに笑い飛ばすのを黙ってみていた。
「なんだ、顔色悪いなあ。ゆーれーでも見たような顔することはないじゃないか。安心しなよ。俺は狼人だけど、そんなに怪しいものじゃないさ」
その男の表情は、どこか自信に満ちている。それは、彼の知る同じ顔の男の表情とはかけ離れていた。
「俺は、魔幻灯のファルケン。辺境古代語では、ファルケン=ロン=ファンダーン。この隊商の長だ」




