6.その約するに従わば……
***
カチャカチャと音が鳴る。
手元の算盤の音。彼は無意識に目の前の帳簿に、計算した数字をかきつけながら、ブツクサと何かをつぶやいている。
「違う。違うなあ」
レックハルド=ハールシャーは、ブツクサ呟きながら計算を続けていた。
全部数字を書き終えたところで、ハールシャーは算盤をじゃらっと手で崩した。
その右手の指に、赤い石が嵌っている。例のグランカランの樹脂でできたという石は、あくまで冷徹に彼を見上げているばかりだ。
「わからねえ。どうしてもわからねえ。……呪文自体はわかったてえのに、なんで何も起こらないんだい」
ハールシャーは指輪を左手で撫でやりながら、深々とため息をついた。
「これは辺境古代語の一種だ」
と黄炎石のザナファルが教えてくれたのを思い出しながら、ハールシャーはため息をついた。
「辺境古代語の中でも特殊な文字で、あまり知っている狼人もいない。俺は読めるけれど」
拡大鏡を覗き込みながら、狼人らしい好奇心を覗かせて彼は言った。
ザナファルは狼人にしては冷静沈着であまり感情をあらわにしない男だが、別にずっとそういうわけではないらしく、こうしているところはほかの狼人達と同じでやたらと無邪気であどけない。
ええと、これは、などと言いながら、時々文字を読み上げているのか、ハールシャーにはわからない古代語の響きが、彼の口からとぎれとぎれに漏れる。
「バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール……。うん、そうだな」
「え? なんだって?」
ザナファルがようやく一つの文らしいものを仕立て上げて、満足げに頷いた。
「バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール」
「ばんあど?」
実際の辺境古代語は、なかなか巻き舌で慣れていないと発音しづらい。何かと器用なハールシャーですら、聞き取って完全にまねることができない言語のひとつだ。ザナファルが思わずちょっと笑ったので、ハールシャーはやや不機嫌に睨み付ける。
「辺境古代語は素人にゃ発音できねえんだよ。意味も教えろ」
「意味は、”その約するに従い、我に従い、我を助けよ”だ」
「ちぇ、なんだー、結構普通の意味なんだな。もうちょっと、こう、謎めいた感じかと思ってたぜ」
ハールシャーは、ちょっと拍子抜けしてしまったものだ。身を乗り出すのをやめて、その場にすとーんと座ってしまったが、
「呪文が書いてあると思っていたのか?」
とザナファルが言う。
「そうじゃねえかなーとは思ってる。が、でも、お前、それに触って呪文唱えたけど何も起こらなかったよな」
「あんたがやってみないとダメなんじゃないか? 俺は狼人だから。人間でないと発動しないのかもしれない」
「それもそうか」
そういわれてハールシャーは腕を組んだ。一理あるかもしれない。
「だったら練習しなきゃな」
「は?」
いきなり笑ってそんなことを言うザナファルに、ちょっと嫌な予感がしてハールシャーはぶっきらぼうに聞き返す。彼は無邪気に笑った。
「練習。発音がいまいちだから駄目だったとしたら、練習が必要だろう?」
「何?」
「今日は急ぎの仕事もないし、手伝ってあげよう!」
正直有難迷惑だったが、こういう時はやけに厳しいザナファルにより、練習をさせられたハールシャーだが、お陰で例の呪文の言葉はきちんと発声できるようにはなっていた。
「ちぇっ、まったく真面目なんだか頭筋肉でできてんのか、どっちなんだアイツは!」
ハールシャーは、そう吐き捨てて算盤を手元に置いた。
「ジャラジャラ音鳴らせて、何やってるんだ?」
不意にひょっこり顔を出してきたのは、ザナファルの部下の若い狼人だった。ザナファルが出かけるというので、数名ハールシャーの護衛に残してある。そのうちの一人で人懐こい若者だが、狼人の常であるように彼も好奇心旺盛。予想通りに目を好奇心にキラキラと煌めかせてこちらの様子を見ている。
「お前のトコの帳簿合わせてやってたんだよ。あの野郎、こういう仕事苦手だろ。経費の計算何日分溜めさせてるんだ」
「でも、なんかぶつぶつ言ってたじゃないか?」
「俺はこういう計算しながら考え事してる方がはかどるんだ。色々悩んでるから、そうやって考えてんだよ」
ハールシャーは苦笑して大あくびをした。
「でも、全然解決しねえ。バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール。ちゃんと発音できてるのになあ」
「おお、うまいうまい。人間でそこまでうまいのは珍しいぞ!」
「だろ? お前のクソ上官の鬼訓練のたまものだよ」
ハールシャーは毒づきながら、指輪を机で叩きつつ嵌めなおす。
「なんで反応しねえかなあ、コイツ。つーか、ニセモノじゃねえのかな」
「どうみてもグランカラン琥珀だ。首領だって言ってただろう?」
「だけどさあ」
バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール。
口には出さずにそう唱えてみるが、変化はない。はあとハールシャーはため息をついた。
「アイツの解読が間違っているんじゃねえか?」
指輪を爪先でハールシャーは、三度小突いて苦笑した。しかし、その時、騒がしい声が彼の耳に入った。
「首領は留守だ! 許可なく立ち入るのは許さないぞ!」
「ザナファル将軍には後で説明する! 中に入れろ!」
入口の方でなにやら騒ぎが起きている。
「なんだ」
ばっと狼人の若者が身構え、ハールシャーは立ち上がる。
「ちッ、俺が生きてることがバレたか?」
これはマズイ。ザナファルは外出時に狼人の兵士を一緒に連れて行っていた。ここにいるのは、数名しかいない。多勢に無勢で踏み込まれると、いくら狼人とはいえ彼を守り切れない。
(どうにかして乗り切らねえと……)
頭を巡らせようとしたハールシャーの右手の中指に、そっとおさまっていた指輪の石。それが、かすかに光ったことに彼はまだ気づいていない。
***
バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール
遠いどこかから聞こえる呪文のような異国の言葉。
その約するに従い、我に従い、我を助けよ。
何故かその意味を彼は知っていた。幼いころに聞いた童歌で聴いたような、その言葉。まどろむ中で、自分に似た声で誰かが唱える。
「約束をしたからさあ」
その男が無邪気に笑う。
「オレはレックを助けるって約束をしたから」
――だったら、今すぐここから連れ出してくれよ。
約束をしたものを助けてくれるという、それが本当に呪文なら。
それを唱えれば、お前は戻って来てくれるのかい?
いつも振り返ると彼は後ろに立っていた。
休息して立ち上がって、歩き出す前に振り返って誰かを呼ぶと、彼は気軽に返事をする。
そのときに、あの時、自分がどんな光景を失ったのかはっきりと思い知らされるのだった。
――振り返っても、笑いながら返事を返す男はもういない。
バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール
わかっているのに、誰かが彼を呼んでいるようだ。
*
つかの間の眠りから覚めると、太陽はわずかに傾いていた。どれほど眠ったのかはよくわからないが、一時間前後ぐらいだろうか。
レックハルドはあくびをすると、泉からくんで水入れにいれておいた水を口に入れる。眠っているうちにかわいた喉に、それが染み渡るのがひどく気分がよかった。
イェームはというと、影の移動にあわせて、しつこく場所を変えながら木の影に潜んでいる。それも仕方のない事だ。狼人の宿命として、体の大きいイェームはまともに寝転がっていると、ふとどこかが木の影からはみ出てしまい、太陽の直射日光をまともに浴びてしまうのである。
(不器用な奴……。もっと工夫するとか考えねえのか?)
レックハルドはややあきれながらそれを眺めた。布を使って日除けを作るとか、色々方法はあるだろうに、今まで見る限り、イェームはそんな工夫を考え付きもしていないようだ。不親切なレックハルドも、見ていておもしろいのでアドバイスはしない。
「おい、起きろ!」
レックハルドは呼びかけ、立ち上がった。イェームは返事をしないが、目は覚めているようだった。少しだけ顔をあげたのがわかったからである。レックハルドは旅支度を整えると、もう一度言った。まだ、イェームは寝転んでいる。
「さて、そろそろ行くぞ。今日は次のオアシスまで飛ばすっていう話だったよな」
イェームは答えず、いまだにぐったりと地面に伸びたままである。それに目をやったレックハルドは仕方なく彼のほうに歩み寄る。
「きいてんのか? 行くぞ。今日は次のオアシスまで行くって言ったじゃねえか」
答えはない。レックハルドはだんだんいらついて、ついには彼の腰辺りを蹴った。
「こら、何死んでんだ、お前は! 出発だっつってんだろが!」
「そ、そんな……。さっきオアシスについたばかりじゃねえのか?」
彼らしくもない弱弱しい声が、ひょろひょろと聞こえてきた。
「随分昼寝しただろ。さあ、行くぞ!」
「そ、そんなあ……」
絶望的な声をあげながらも、まだイェームはしぶとく木の陰にしがみついている。
(本気でばててるんじゃねえだろうな、こいつ)
レックハルドは軽く肩をすくめ、バケツを手に取ると泉に向かってそこで水を汲んだ。そのまま、頭に水をかけてやりながらレックハルドは、ため息をついた。
「狼人のくせに、意外に体力ないのな。 それとも暑いのがダメなのかよ?」
「お、狼人ってのは……、実は暑さにはとことん弱いんだ。もともと北辺に住んでたって話なんだ。だから、その、暑いと自由行動とかそういう統率がでたらめに…あ、いや、自由に行動ができなくなって……」
暑いので頭が回っていないらしい。何をいっているかわからないイェームを見て、軽く肩をすくめたレックハルドは、その顔に容赦なくもう一度バケツで水をかけてやった。
「ばててる狼人見たのは初めてだぜ」
「皆砂漠は苦手なんだよ」
ため息をつきながらようやく起き上がったイェームは、濡れた前髪を上げた。
「でも、オレはかなり耐性があるほうなんだぜ」
「でも、狼人って一生に一度はここを越えるっていうんだろ? じゃあどうやって……」
「あれは普通は、妖精が横についてるから。妖精は色々魔法も使えるからな、その気になればある程度の瞬間移動も……。それから、暑さ避けになる布とかな、そういうのを妖精が作ってきてくれるから平気なんだ。一人じゃ、とてもとても。あんた、やっぱり砂漠の人なんだな……丈夫……」
まだ目が回っているらしく、額を押さえたまま起き上がる気配がない。
「ロゥレンでもつれてくればよかったな」
「ああ、あいつはダメ。まだガキだし、使える能力が限られてるから。砂漠につれてくるのはまだかわいそうだからな」
ふとイェームがそんな事をいった。先ほどまでばてていたくせに、急に口調が滑らかになる。
「それに、あいつわがままだから、ここにきたら絶対帰るって言うに決まってるからな」
「ちょっと待った」
レックハルドは顎をなでた。詰問する者のようにイェームを見ながら、彼はこうきりだした。
「お前、どうしてロゥレンの事知ってるんだ?」
「え、あ、ああ。それは……」
イェームは、はっとして思わず言いよどんだ。
「い、いや、前に一度助けた事があるからさ」
確かにイェームはロゥレンを一度助けている。それは、レックハルドも知るところだ。しかし、それ以上に…。
「ほう、それにしちゃあまりにもよく知りすぎだな。どうしてわがままとか、能力が限られているからとか知ってるんだ?」
レックハルドは、軽くイェームを睨んだ。
「それに、お前はレナルに言われてオレを助けに来たといったが、レナルはお前の事を知らなかったぜ? だったら、あの時、どうしてオレを助けに来た?」
「そっ、それは……。レナルが、オレの事を忘れてるだけで……」
「あいつは狼人にしちゃ、人の顔覚えてるぜ。それに、お前には色々聞きたい事がある。色々隠してるだろ?」
レックハルドは、しどろもどろなイェームを見て少しだけにやりとした。
「そういえば、お前、誰かさんと顔が同じなんだよなァ?」
がばっと起き上がり、イェームは慌ててレックハルドを見た。
「そんな愕然、ッてな顔するなよ。お前、わかりやすい男だな」
「な、何がだ」
今更イェームはごまかそうとする。その様子がおもしろくて、レックハルドは猫のような笑いを浮かべて意地悪く聞いた。
「声だけじゃなく、顔も一緒かってことだよ? なんだ、気づいてねえのか?」
「だ、誰とだ?」
「誰と? お前、知ってるんじゃないのか? 本人と会ってたじゃねえか」
わざわざ意地悪く首を傾げてやると、イェームは傍目にもはっきりと狼狽し始める。イェームはおそらくファルケンを知っている。それは直感でなんとなくわかった。大体、言われて困っているのが証拠だ。
実際にイェームとファルケンは確かに似ていた。感じだけなら錯覚を起こしそうなほどだったが、両者は似ても似つかない事もレックハルドはわかっていた。
イェームは、敵には容赦をしない。戦い一つにあそこまで心を砕いていたファルケンのようではない。細やかな事をあわせれば、違いはいろいろ見つかるだろう。それは、歩き方一つとっても。
イェームがまだ反論できずにおろおろしているので、レックハルドはにやっと笑った。
「まぁいいや。オレはお前が誰だろうがどうでもいいし、顔を隠すのは、色々理由があるんだろ。傷があるとか言う場合もあるし、もし、同じ顔の奴だったら間違われるのがいやだってこともあるだろう」
レックハルドはちらりと慌てるイェームを横目で見た。
(まあ、狼人だって全員兄弟みたいなもんらしいし、双子みたいなのもいないとも限らないしな)
血縁者、といっていいのかどうかわからない。太母によって生まれる狼人の生態は、レックハルドにとっても謎が非常に多いのだ。
(でも、ま、レナルもファルケンも同時期に生まれる狼人や妖精はいるっていってたし。兄貴みたいなものっていうのは、ありえなくもないんだろうなあ)
なんにせよ、イェームにはなにかしら、顔と身分を隠して辺境を捨てる理由があるという事は確かなのだ。
「お前の理由はどうこうきかねえつもりだがな、オレは詮索されるのが嫌えだから、他人も詮索しねぇようにしてるのさ。お前が面を隠す理由もきかねえことにしよう」
レックハルドは笑いかけながら、しかし、ふいにわざとらしく声を高めた。
「それに、もし、お前の顔がホントにあいつと同じなら、多分、お前の顔を直視はできねえからな。そうやってくれてたほうが、オレはいいぜ。別に気にしてねえよ」
レックハルドが少し明るく笑い飛ばすように言ったのは、もしかしたらごまかすためだったのかもしれない。
「そ、そうか……」
イェームが気づかわしげに視線を伏せる。レックハルドはハッと笑い声を立てた。
「そんな面するなよ。別にオレは真剣に話をしてるわけじゃねえんだからさ。狼人ってのは皆そうだな。真剣なときにふざけてるくせに、どうでもいいときにまじめになりやがる……。ほら、ぼやっとしてねぇで行くぜ!」
そういいながら、レックハルドは茶化すように鼻で笑う。それからふと足を進めた。砂漠の太陽が強い日差しを投げかけてくる。それにため息をつきながら、足を出しかけてレックハルドはふと振り返った。
「そういえば、だが……」
後ろでようやく立ち上がりかけていたイェームが、怪訝な顔をした。
「なんだ?」
「後々で少し聞いたんだがな、ファルケンはあん時、シャザーンって奴と戦ってたんだろ?」
「ああ、そうだな」
レックハルドは顎に手をあて、ふと空のほうを仰ぐ。
「じゃあよお、そのシャザーンってのはどうなったんだ? まさか、ファルケンの奴がやっちまったってことはないだろうし」
イェームがぱちりと瞬きした。
「ファルケンが、最後に相手を道連れにしようとしたってのは聞いたんだろ? 何でそう思うんだ?」
「ああ、でも、いや、なんていうかだが、あいつ、そこまで冷酷になれるかなと思ってさ。戦えないからって、わざわざ自分を凶暴にしてたぐらいの奴だろ。多分、殺せないだろうなって思ってた。逃がしてやったんじゃないのか?」
「逃がしてやった?」
イェームが反芻すると、レックハルドは頷いた。
「もちろん、無意識だと思うけどさ。シャザーンってやつ、自分と同じような可哀そうな境遇の奴だろ。だったら、あいつはそこまで割り切れる奴じゃねえと思うんだよな。どっかでちょっとだけ肩入れしてたんじゃないかってさ」
そういい、イェームのほうを見る。彼の釈然としない顔を見ながら、イェームは言った。
「ファルケンが加減したかどうかはわからない。でも、多分、シャザーン自身は生きてると思うぜ」
「やっぱりか」
ああ、といい、イェームは立ち上がった。
「実は、あいつには妖魔が取り憑いていた。そのままのあいつなら司祭は逃さなかっただろうけど、今のあいつならしつこく追い回さないよ」
「妖魔がとりついてるってのは、感覚としては何となくわかるんだが…、あいつ操られてんのか? もしかして。前に話したときは、そんなに悪い奴でもなかったし……」
怪訝そうなレックハルドに、イェームは答えた。
「まあ、そんな感じだな。時々、不安定になっていた。妖魔のほうが強くなったり、アイツのほうが強くなったりはしていたけど。でも、あの妖魔は、すごく強い奴でさ、掲げる目標もすごい高いものだった。アイツはそれを遂行するのに妖魔に選ばれた狼人さ。だから、本当に要注意人物だったんだ。逆に殺されなかったのが奇跡だと思うよ」
「掲げる高い目標? それ、なんだよ?」
尋ねるレックハルドに、まだこっそり木の蔭にいるイェームは少しまわりくどい言い方をした。
「たとえばさ、どうせ、手に入らないなら壊してしまえっていう、そういう感情ってあるよな。そういうのが満たされなかったとき、ふと、なら全部壊してしまえばいいって思ったりすることもあるだろ」
「まぁ、自棄になったらそう思うわな。で、なんだって?」
レックハルドが先を促そうとする。レックハルドはすでに日の下に身をさらしているのでかなり暑いのだった。
「そういう気持ちが重なって重なって増幅したら、えらいことになるよな。もし、その手に入らないとか、思い通りにならないのが、この世の中だとして考えてみれば。この世界をぐちゃぐちゃにして、シアワセな奴をみんな不幸にしてしまえとか逆恨みする奴もいると思うだろ」
「早く本題に入れって。妖魔はつまり、世の中で自分よりシアワセな奴がいるのが気にくわねえ、だから、みっともなく逆恨みしやがって、世界を乱したいと思ってるってことだな。わかったから、次だ次」
レックハルドは少しいらだって来た。イェームは、すまねえと小声で苦笑しながら言った。
「まあ、でも、妖魔はそれ自体だと世の中を動かすほどの力はないからな。だから、人間や狼人なんかの力を借りないといけない。つまり、目標を達成してくれそうな奴を常々探してたわけだ。そこに、ちょうどシャザーンがいた。あいつは人間界にも辺境にも溶け込めずに、色々辛がって、常々、この世界をどうにかしたいと思ってる。ある日、そんな奴に目をつけた妖魔が、こう、あいつに吹き込んだ」
イェームは、はっきりといった。その声は、彼のものとは思えないほど冷たく朗々と響いた。
「『どちらにも入れないなら、その境界をなくしてしまえばいい。皆を共生させるように、どちらかを壊して混ぜてしまったら、お前の望む世界がやってくる』」
レックハルドは、ふと息を呑んだ。
「そ、そんな単純で乱暴な……どっちかを滅ぼすって事じゃねえか、そりゃ……」
「でも、道は二つに一つになるよな。お互い協力し合って生きるか、それとも……」
「お互いつぶしあうか、か。協力し合えなければ、水の泡だな、その方法」
「そう。だから、アイツの本来の望みは、『辺境の消滅』なんだ。アイツはそれでうまくいくと信じていた。けれど、実際、わかるよな。そんなに物事は単純じゃない。ぐちゃぐちゃになったら争いがおこるだけだよ」
イェームは補足するように言った。
「あいつは辺境と人間の狭間で苦しんできただろ、それで、思いつめちまったんだなあ。辺境さえなくなれば、狼人と人間を隔てる壁がなくなるとかねがね思ってたんだな。でも、実行できる勇気はなかった。でも、それをかぎつけた妖魔がそう唆して勇気を与えた。それで、あいつが、その言葉を信じたとしたら?」
「封印を解いて、辺境がぐちゃぐちゃになっちまえば、人と辺境を分ける境界がなくなっちまって、万事うまくいくってか?」
イェームは頷く。
「実際、辺境がなくなって済む問題じゃねえとは思う。存在としての辺境がなくなるってことは、多分太母が枯れるってことだから、そんなことになったら正直何が起こるか、オレにも見当がつかねえよ。だけど、シャザーンは、ずっと妖魔にそれが正しいと吹き込まれてて疑うことはなかったんだ」
レックハルドは、深くため息をついた。何となくやりきれない気分になる。
「しっかし、そう考えるとちょっとあいつも哀れだな。許せねえやつだが、ちょっとは同情はするぜ」
イェームはちらりとレックハルドをうかがうように見た。
「でも、ファルケンも、そう、思ってたのかもしれないんだぜ? こんな世の中なんか、全部消えちまえばいいって……。あいつだって、一歩間違えば……」
「そういうってことは、お前もそう思った事があんだな?」
イェームは黙ったままである。レックハルドは、ふんと鼻先で笑った。
「そんな事、思うのは仕方ねえんじゃねえのか? ついでにオレはマリスさんに会うまでは、この世のオレ以外のもんは全部なくなってもいいと思ってたぜ。オレ達みたいな半端な野郎が、世の中にちょっと恨みを抱いたぐらい、どうしようもねえことだろ。オレが、あいつに同情したっていうのは、オレもそうなる可能性があったからだ。ファルケンやお前が、そう考えていたって、もともと、自分以外はどうでもよかったオレには責める権利はないぜ」
レックハルドは思い出したように付け加える。
「まぁ、さ。ホントになくなっちまったら困るんだがな。恨み言を言うぐらい、許してくれてもいいじゃねえか。な。ちょっとぐらい、許容範囲ってもんじゃねえの?」
「そ、そうか」
イェームは少しだけ安堵したように頷いた。
「そうか、許容範囲か」
ふと、イェームはレックハルドをしげしげと見た。なにか、おもしろいものを眺めているような、何か言いたそうなその視線に、レックハルドは気持ち悪そうに言う。
「な、なんだよ? 言いたい事があったらはっきりいえよ」
イェームは、ふっと感慨深げに言った。
「やっぱり、前々から思ってたんだけど、人間の中でも、あんたちょっと変わってるよな」
「な、なんだあ! その言い方は! オレを変わりもの呼ばわりするな! オレは普通なんだよ!」
すさまじい剣幕で、そう怒鳴ったレックハルドに少し恐れおののきながら、イェームは首を振った。
「い、いやその悪気はなくて、これは褒め言葉で……!」
「全然褒めてねえ! お前ら狼人に変わり者認定されたら、立ち直れねえってんだ! 撤回しろ!」
「えっ、撤回って、ちょっと……!」
詰め寄られて、イェームは慌てて木陰から飛び出した。
「そ、そろそろ、時間だよな。出発しよう、出発!」
「体よくごまかすな! すっとぼけやがって!」
レックハルドは、砂を蹴り上げながら相変わらず不機嫌にぶつぶつと続ける。イェームは、どうしたものかと思いながら、砂がかからない距離をとりながらそうっと先を進み始めた。
「あ、ちょっと待て」
「え?」
いきなり呼び止められてイェームはきょとんとした。
「お前、さっき、そのままのシャザーンなら司祭は逃がさなかったといったな。だったら、今逃げているシャザーンは、もしかして妖魔がいないのか」
「ああ。……シャザーンには妖魔が憑いていた。そのままなら司祭は妖魔ごとアイツを殺すようにしただろうけど、実はあの時、ファルケンが”祓って”いた。だから、司祭は奴を深追いしてない」
「祓う?」
レックハルドは、驚いた様子で尋ねた。
「あいつにそんな力があったのか?」
「さあ、どうかな」
イェームは目を伏せた。
「祓うことができるのは、限られた狼人だけだけど。……偶然あいつは最後にシャザーンの妖魔を祓った、らしい。俺も詳しくは知らない。だけど、祓ったおかげであいつは逃げられたんだとおもう。そうじゃなければ、もっとしつこく司祭に追われて生き延びられなかったと思う」
「そっか、なるほどな。ファルケンらしいよ」
レックハルドは苦笑した。
「そうかい?」
「ああ、アイツらしいよ」
レックハルドはにっと笑った。
「でも、安心したぜ。アイツが最後に相手殺してたんじゃなくて……。アイツには人殺しとか全然似合わねえからさ」
「そうかな」
「ああ」
レックハルドは空を見上げて頷いた。空はあまりにも青く深い。
「それだけでも、ちょっと救われた気分だぜ」
今、後ろを振り返っても、もうファルケンはそこにはいない。ただ、砂がさらさらと流れるだけだ。彼が「行こうぜ」と呼びかける相手は、そこにはもういない。
過ぎ去ってしまった事がどうにもならないように、彼の姿はそこにない。最初からいなかったかのように、ただ砂が流れるばかり。
でも、とレックハルドは思うのだ。
自分には、前に進むしか道がないという事だ。過去を振り返っても、後ろを見てもファルケンはいないし、自分のやってしまった事は変わらない。元はといえば、それを変えるためにここに来たはずなのに、最初は後ろしか見ていなかった。
いい加減、前を見ようとレックハルドは思った。
後ろを振り返ったところで、彼と話はできないのだ。進むことで、彼ともう一度対話ができるのかもしれない。
今、彼が最期に何をしたのか分かったように。
それが、自分に決着をつけ、ファルケンに対してしてやれる唯一のことかもしれないと、砂の大地を見ながら、レックハルドは何となく思った。
「どうしたんだ?」
ずっと佇んでいたせいか、いつの間にやら近くにやってきていたイェームが少しだけ心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「なんでもねえ」
砂丘の向こう側の空は青かった。黄色い砂の表面を風がなでて風紋を作っていく。それを踏みしめながら、レックハルドは言った。
「さあ、行こうぜ」
レックハルドが呼びかけると、イェームは、にっと笑ったようだった。レックハルドの機嫌がそこそこ直っていたので安心したのかもしれない。イェームは、力強く答えた。
「ああ。そうだな」
***
バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール
その響きは呪詛ではない。懇願するようにでもなく、ただ、親しみを込めて響く。
その約するに従い、我に従い、我を助けよ。
その訳された言葉の響きは、妙に重く、けれど、その真の意味は、もっと軽い言葉だ。
バンアド・ゲンアドール、ゲンジュチャヌオール
自分に似た声の男が記憶の底で唱える言葉。
それは、ただ、昔の狼人が友人に協力を求めるときの合言葉。
約束された友人からの、その返事はただ一つ。
――私はお前を助けてあげよう。




