3.盗賊の女神/王国騎士団
商業都市ヒュルカのハザウェイ家の令嬢、マリスは、レックハルドにとって特別な娘だ。ファルケンには、のろけるように話したあの娘。単なる一目惚れだと話したけれど、あれは、本当は不正確だ。本当の出会いは、もっと入り組んでいる。
それでも、レックハルドにとっては、非常に大きな一つのきっかけだった。
とにかく、何故かわからないが、彼女だけは特別なのだ。
*
その日、レックハルドは仲間たちと一緒にヒュルカの資産家のハザウェイ家に忍び込んでいた。
都市のヒュルカには彼のような悪事を働く青少年も多く、組織化されている。レックハルドも組合のようなそれに入らざるを得ず、依頼された仕事は断れないこともある。
それはそういう仕事だった。一人ではけしてやらないようなことだった。
頭から土色の麻布を被ったまま待機していたレックハルドは、すでに作戦の失敗に気づいていた。
最初から、これはまずいと思ってはいたのだ。
第一、作戦からして馬鹿げている。
こういう大それた盗みを昼間に行うこと自体、レックハルドは反対だったのだ。やるならもっと綿密に計画を立てるべきだったというのに、強硬した仲間たちにうんざりしていた。
追い立てる犬の声がやかましい。
どうやら、ハザウェイ家は、家に私兵を飼っているらしい。それで、家を守っているようだった。ヒュルカではかなりの資産家のハザウェイ家だ。それぐらい予想してしかるべきだった。
足下に矢が飛んできた。その先がべっとりしているのは、痺れ薬か何かの毒がぬられているからなのだろう。向こうから、ふと、自分を呼ぶ声をきき、レックハルドは顔をちらりと上げた。
「レック! ちょっと手を貸せ!」
先に進んでいた仲間の一人が、犬に囲まれて必死に逃げている。それが自分を見て、助けてくれと言っているのはすぐにわかった。
しかし、レックハルドは、冷淡にそれをみやり、背を向けて走り出した。
「レックッ! てめえっ!」
後ろから非難に満ちた声が聞こえたが、レックハルドは軽く振り返っただけだった。
「ハッ、つきあってられっかよ! 死ぬなら一人で死ね!」
冷たく言い放ち、レックハルドは走り出す。後ろから、地獄に堕ちろ! と呪いの声がふりかかるが、彼はけしてためらわない。
「オレが同じ立場でも、そうしただろうがよ!」
知らず、口許に嘲笑いが浮かぶ。いつものことだ。別に心は痛まない。
そもそも、組みたくて組んだ仲間でもないのだ。ただ、今回の盗みに際して、組織の上の方が、彼の能力を買って勝手に組み入れたにすぎない。それで、裏切るも裏切られるもないだろう、とレックハルドは冷たい心で思った。
背後が騒がしいので、レックハルドはかなり離れたところまで走ってきた。レックハルドは一度そこで立ち止まる。周りは木々と草花が茂っていた。
それでもまだ壁の中。つくづく大きな屋敷だ。
近くの森と庭がつながっているらしいので、その辺にきているのだということはわかるのだが、どうやって逃げたらいいものか。
「まずいな、……迷ったか?」
レックハルドは、少し考えるようにした。念のために、顔には布を被って容貌をかくしてはいるから、一度逃げてしまえば問題はないのだが、捕まったらどうしようもない。
「さて、どうするか……」
戻れば捕まるだろうし、かといって闇雲に進むわけにもいかない。と、ふいに、後ろで足音が聞こえ、レックハルドは慌てて茂みの中に走り込んだ。だが、一瞬遅かった。
「どうしたの? そこに誰かいるの?」
女の声が聞こえ、明るい色の服が太陽の光に映えていた。
まずい、と慌てて逃げこもうとしたが、逃げるには時間がない。茂みに半分身を隠したまま、レックハルドは相手を伺った。
若い娘だ。赤っぽい髪の毛が、妙に印象的だった。
「ええ……、迷い込んでしまいまして……」
不審に思われるだろうな、と思いながら、レックハルドは顔を見せないように伏せてそう言った。どうにかごまかせればいいのだが。
しかし、女はこちらに近づいてきた。
「まあ、そうなんですか」
それは、お困りでしょう、という女の声に警戒心はなく、レックハルドは考えを改めた。どうやら、本気で迷子に間違えてくれているらしい。
これは使えるかもしれない、そうレックハルドは思った。
(ちょうどいい。このトロそうな女を騙してどうにか出口を聞き出して……)
あるいは脅すことも必要だろうか。レックハルドは、腰の短剣を握ろうとした。
だが、ふと、娘の明るい声が聞こえた。
「ここは、森と接しているから、そういう方も時々いらっしゃるのよ。貴方も森からいらしたんでしょう?」
「えっ、あ、ああ、そうです。も、森の方から迷ったんです」
優しい声色が突然そんなことをいったので、思わずレックハルドの手は短剣から離れた。
どうしようかと迷ったが、おっとりとして優しい女の声色を聞いて、レックハルドはなぜか短剣をにぎる気をなくしていた。それは、娘の声には一分の敵意もなかったからである。それに、この声はほんのりと甘く、闘争心とかそういったものをなくしてしまうものだった。
「まあ、それはお困りでしょう。また、今日は悪いときにいらっしゃったのね……」
若い女はおっとりと首を傾げた。レックハルドはうつむいたままだったが、長くてくるりと巻いた髪の毛が、ひとふさ肩から落ちるのが見えた。
「迷ってお困りなのなら、本当はお茶でも……とお誘いしたいんですが、今は、盗賊が入ったといってお屋敷中大騒ぎなの。間違えられると厄介でしょうし、このまままっすぐに走ってください。そうしたら疑われることもないと思いますわ」
「えっ、ああ、は、はい……」
(逃がしてくれるつもりなのか? この女……)
変な娘というか、世間知らずというか。
レックハルドは、何故か相手を信用する気になって、脅すだの騙すだの、そういうことをしようと思っていたことを忘れ去っていた。
ふと、レックハルドは、ちらりと布の間から相手の顔をのぞき見た。彼もこの世間知らずな娘が、一体どんな顔をしているのかと気になったのだ。
まず、目の大きな娘だ。と、思った。それから、巻き毛の紅い髪が肩の下でふわりとしているのに気付いた。
端正な美人というよりは、優しくて可愛らしい感じの女性だ。それなのに凛とした気品のようなものもあって、でも、全体的にはふわふわとした印象で。
昔、草原にいた頃に、一度だけ見た外国風の写実的で優しい顔の女神像に少し似ているような気がした。
ともあれ、そこにいるのは、少なくともレックハルドが今まで会ったことのないタイプの女だった。
その優しい表情に、気遣うような微笑がのっていたが、レックハルドと目があった瞬間、彼女がにこりと笑ったのに気付いた。最初、それを惹きつけられたようにみていたレックハルドは、その微笑が間違いなく彼一人のために向けられていることを知った時、思わず動転して慌ててしまった。
顔を覆っていたせいで、彼の顔が急に赤くなったことに誰も気づいてはいないはずだ。
ただ、何故か、ひとときもそこにいてはいけないような気がして、彼はそのまま走り出した。
「し、失礼します!」
「あっ! 待って! そっちは……!」
慌てて駆けだしたレックハルドには、後ろからの声の続きが聞こえない。そのまま、娘が指さした森の中に逃げれば良かったのに、動転した彼はそのまま元来た道をもどってしまった。娘は何か叫んでいたが、走り去るレックハルドには聞こえない。
目の前から犬の吠える声と矢の飛んでくる音が聞こえ、ようやくレックハルドは自分の間違いに気づいた。
「しまった! ……うっかりして!」
再び、矢と犬の中に突っ込んでしまったが、レックハルドは引き返さなかった。引き返せば、先程の娘と鉢合わせしてしまう。それだけはダメだ。
「畜生! このまま逃げ切ってやる!」
レックハルドは、森の中に逃げ込んで、そのままつっきることにした。一見冷静な頭とは裏腹で、心の中はひどく慌てていた。
正直、自分でもどうしてこんな風に慌てているのか意味がわからない。ただ、一つ言えるのは、自分は今まであれほど優しい笑みも、綺麗な目も、多分見たことがなかったということだけだ。
美人を見たことはかなりある。実際、言い寄ってきた女も何人もいるし、どちらかというとモテる方だとも思っている。この間遊んでいたあの女だって、世の中では結構な美人の域に入るだろう。
ただ、あんな風に、自分に目を向ける娘はいなかった。どんな綺麗な娘でも、小汚い盗賊で裏切りの常習者の彼に、一度は軽蔑の目を向ける。言い寄って来る女の目には、時に別の恋人への当てつけの色が見えることすらある。だから、彼はその目を向けられる前に、自分から彼女たちを切り捨ててきた。
しかし、先ほどの令嬢の視線は、一体なんだろう。どう考えても不審者の自分だったのに、けして彼のことを汚れた物を見るように見なかった。こんな不審で小汚い自分なのに、その目には、気遣いと親愛以外の他意がなかったのだ。
(あああ、どうしよう!)
レックハルドは、絶望的な気持ちになった。
よりにもよって、金持ちのお嬢様をみて、こんな気分になるなんて、なんて分不相応な。大体、自分はこんな青臭い感情、とっくに捨てたはずじゃなかったか?
それも、よりによって、よく知らない娘に一目惚れだなんて!
「オレ、あの人に……」
レックハルドは、額を抱えながら走った。もっと自分が鈍ければよかったな、と彼はふと苦笑した。この感情が、どういうものかを知らなければ、きっと今まで通りに生きていけた筈なのに。
「……無理だろう。……あの子がオレを見てくれるはずはないじゃないか」
レックハルドはため息をつく。相手は、ヒュルカのお嬢様で、自分はただのケチな盗賊だ。
日陰の商売をしていなくたって高嶺の花な彼女なのだ。心奪われても自分にはどうすることもできない。今だってこうやって、仲間を見捨てて逃げている自分は、どう見積もっても彼女とは釣り合わない。
暗い世界で生きている自分とは、住む世界が違う。あの清らかな目で見つめられるには、自分はあまりにも汚れすぎているのだ。どれだけ隠し通しても、きっと、いつか、自分の本性をさらけだしてしまうに決まっている。
レックハルドは、すぐに諦めようとした。大体、追っ手に追われながら考えることではない。だが、どうやっても瞼の裏には先程の娘の姿がちらついて、離れてくれなかった。
(なんだか失礼な別れ方しちまったなあ)
何故、あの時、ありがとうといえなかったのだろう。
レックハルドは、そんな言葉すら出てこない自分が、何となく切なくなった。
(もう一度、一言だけでいいからまともに話ができたら……)
そう思うレックハルドの心は、妙に熱くなっていた。
正直、今まで、自分はどうなってもいいと思っていた。草原を逃げ出して、そしてヒュルカに入ってから、その気持ちは酷くなった。都会のヒュルカは住みやすかったが、彼の心はますます荒んだ。
そして、このままくだらない盗賊の生活をして、仲間を裏切って、それで報復でもされて、きっと、いつか、街路の隅で一人淋しく死ぬのだろうと思っていた。別にそれでいいと思っていたのだ。自分には、それぐらいの惨めさがいっそのことふさわしいぐらいだと思っていたから。
だから、今まで好き勝手生きてきた。仲間を信用する気になれなかったのも多分それで、仲間を捨てて逃げたのもおそらくそれだ。人間関係を作らなくても、自分は最終的にああなるかもしれないのだから、別に構わないと思ってきた。
だが、あの娘の微笑を見たとき、レックハルドは絶対にこのままで死にたくないと思った。そして、あの娘となにか世間話でもできる仲になれたら、と思うと、生きる希望が初めて彼の心にあふれたような気がした。
別に恋人になれなくても構わない。ただ、彼女と堂々と会えるようになりたい。そうなれるとしたら、どんなに幸せだろう。
(だったら、今の生き方じゃダメだ!)
レックハルドは、ふと目の前に光が見えたような気がした。
(盗賊をやめよう! そうして、カタギになって、何か立派な人間になろう。名誉と地位を手に入れて、それで、彼女に釣り合うぐらい相応しい人間に!)
どうせ、最初から、この生活に嫌気がさしていた。もし、他に方法があるのなら、そうした方がきっといい。どうせ、半分捨てたような人生だったのだから、失うものなどなにもない。
目の前に壁がせまる。息を切らしながら、レックハルドは壁に手をかけた。後ろからわめき声が聞こえるが、もはやそんなものどうだっていい。必死で壁を乗り越え、着地する。それでも飛んでくる矢の中をとにかく死ぬ気でかけぬけた。
釣り合う人間になるなら、自分には何があるだろう。詐欺に盗みはもうだめだ。口が上手い他にあるのは、計算が早いのと、おそらく金銭の感覚が鋭いこと、そして、ピリスで見よう見まねで商売を覚えたことぐらい。
「商人か……。それは、意外といいかもしれない!」
金の力は偉大だ。
レックハルドの目に、わずかに希望が灯った。かつて自分は金で売られた。でも、それでその魔力が人よりわかるようになった。それを利用すれば、きっと金は彼に地位も名誉も運んでくれるに違いない。
知らず、レックハルドには笑みが浮かんでいた。それは、彼がヒュルカにきてからほとんど浮かべたことのない嬉しそうな笑みだった。
「よし! こんな仕事すぐにやめてやる! 資金さえどうにかすれば、後はどうとにもなるさ!」
レックハルドは、明るく言った。
最初から失うものなどなにもない。だったら、手に入れるために何をしたってかまわない。たとえ命をかけることになったとしても、元からないような命だ。あの人ともう一度話ができるなら、死んだって構わない。なぜなら、今のままの自分は、半分死んでいるも同然だから。
レックハルドは、そう決意すると、森を走り抜けながらやがてヒュルカの市街地を目指していた。
*
そして、ほどなく、彼は旅を始めることになる。
*
ふっと、空の明るさが落ちた。また、日蝕だろうか。
辺境を出て街道筋を、大量の荷物を持ったまま進んでいた二人は、おのおの空を見上げた。
彼らが知り合ってから、もう三日が過ぎていた。この奇妙な二人連れは、結局そのまま、ふらふらと気の赴くまま、行商をしていたのだ。
「おい、見ろよ。まただぜ。お天道様もよくあきねえよなぁ」
レックハルドがおもしろそうに言った。日蝕がどうのこうのということに、レックハルド自身はあまり危機感を持っていないらしい。
迷信深くもなければ、信仰心もない。頼れるのは自分だけ。目で見えない不確かな物は、あまり信じない。
この日蝕にも、なにかしらの理由があるに違いないとは思っていたものの、何か理由があっても自分に害がなければ関係ないのだ、彼には。
「このまんま、日蝕が続けばお日様がなくなっちまって、いつか世界は真っ暗闇になるんだってよ。このまえ、どっかの偉い坊主が言ってやがった。なぁ、どう思う、ファルケン。世界が闇になったら、やっぱり、ランプとかたいまつとかが馬鹿売れするんだろうな? いまから、投資しとくってのも手かもなぁ」
レックハルドは、楽しげに喋り続けていたが、相手が相づちをうつ声すらないので、またどこか行ってしまったのかと思い、不安になってファルケンのいた方に目を向ける。ファルケンは、予告無しにふらっとどこかに消えてしまうので、目をはなすとすぐにはぐれてしまうのだ。
しかし、今回は珍しくファルケンは、先程のいた場所から一歩も動いていなかった。ただ、太陽の方を仰ぎ見て、黙り込んでいるのだ。
「なんだ? いるじゃねえか。返事ぐらいしろよな」
レックハルドは変な顔をして、ファルケンの方に歩み寄った。ファルケンは、まるで取り憑かれたように欠けゆく太陽に見入っていたのであった。どちらかというと、注意力散漫な彼が、何か一つの物をじっと見ている姿をレックハルドは見たことがなかった。
「どうした? まさかとは思うけど、気分とか悪いのか?」
あり得ないことだと思いながら、彼は尋ねた。
「そうじゃないけど……」
ファルケンは、上を見上げたまま、首を横に振った。
「やっぱり、変だ……。辺境で何か……」
「え? 辺境?」
思わぬことをきいて、レックハルドは少しドキリとしたが、ファルケンは、妙に真剣な顔をしていた。
「なんだ? なんか心配事でもあんのか?」
レックハルドは、さすがに少し心配になって尋ねた。真剣な顔のファルケンというのも余り見たことがないのである。
「……まだオレにはわかんないけど……、確実に何か起こってると思うんだ」
「何か?」
ファルケンは、ようやくレックハルドの方に視線を戻して歩き始めた。
「何か起こってるか……。たしかに、ここ最近の天気は異常だと思うけどよ」
レックハルドは、そう話しかけた。
「気にするほどでもねえんじゃないかな? 欠けてもすぐに戻ってくるじゃないか」
「そうだといいけどなぁ」
心配そうなファルケンを見て、レックハルドは明るく言った。
「大丈夫だって! それよりも、今日も売って売って売りまくるんだ! そういうことは、おえらいさんがやってくれるってさ! そのために、王とか貴族を食わしてんだからよ」
王や貴族を普段馬鹿にしているくせに、レックハルドはいざというときはこんなことをぬけぬけという。
「そうかぁ。そう言う人が守ってくれるんだな。じゃ、安心だ」
「まぁな。たっかい税金納めてるのは、いざっつー時の為の保険のようなもんだからよ。そうか、お前、そういうのも知らないんだな。全く、世間知らずだよな」
偉そうに言うが、レックハルドは関所を渡るとき位しか、税金など払ったことがない。その話で、不意に思い出したのか、彼はファルケンの方を向いた。
「そうそう。今日は、クレティアの方に出向いてみようと思うんだぜ? で、お前はどう思う?」
「クレティアって? クレティア大橋のある町のことか?」
「そうだ。あそこにでかい関所があるよなぁ。通行料とられるのは癪だが、あそこは、人がいっぱい集まるし、品物もいろいろ集まるんだってよ。オレは行ったことはないけど、お前は行ったことあるんだろ?」
レックハルドの問いにファルケンは、いつものようににこにこしながらうなずいた。
「あるよ~。何度も」
「で、実際のところ、クレティアはどういう町なんだ? ホントに栄えてんのか?」
行って閑古鳥が鳴いていたら、旅費の無駄だ。とレックハルドは思っている。確かな情報をつかむのも、商売にはとても大切な事なのだ。
「ああ。人がいっぱいいるよ~」
「もっと具体的に教えて欲しいんだがなぁ」
ファルケンの期待外れの返答に、短気なレックハルドはちょっといらだつ。できれば、要所だけを具体的に教えて欲しいのだが、ただでさえ、話し下手なファルケンにそれを望むのは、無理ということもそろそろ悟ってきていた。
「具体的に? そうだな、なんかあるかなあ。あ! そうそう、あそこには、船が着くんだ。大きな川が流れてて、その上に橋が架かってて。川岸には、船がつくし、向かいの町からもたくさんの人がやってきて、物があふれかえってた。うん。そうだったよ」
「なるほどなるほど。きけばきくほど良さそうな町だな。じゃあ、今回はそっちに向かおう。……ちょうど、話してる間にお日様も戻ってきたしな」
レックハルドは、ちらりと上空を見上げた。徐々に明るさが戻ってきている。
「そうだなっ」
ファルケンはそう応じたが、彼の顔に現れたかげりはまだ彼の表情に深く残っていた。前を進もうとしているレックハルドは、まだそれに気づいていないおらず、ファルケン自身もうまく隠したつもりだったのだが……。
それからは街道を歩いて行った。街道を歩くのは少し退屈ではあるが、辺境を歩くと刺激がありすぎて忙しない。
いつ何に襲われるかわからないので気が抜けない。クレティアへの道は、辺境を介さない方がずっと早くつく。ファルケンも、無理に辺境に入ろうとは言わなかった。
退屈しのぎにとレックハルドは、無駄話をファルケンにしてやりながら、ぶらぶらと歩く。荷物の大半をファルケンに持たせてはいるが、持てるだけ持つ主義の彼は、自分もしっかり荷物を背負っている。振り返るのが一苦労だったのでレックハルドは、話をファルケンに振っても滅多に振り返らない。
「で、つまり、こうするとかなりお得なわけよ」
「へえ。すごいな。レックは!」
どうやら、商売のコツを長々と語っていたらしい。商人になって日の浅いレックハルドの生意気な講釈だが、それでもファルケンは、尊敬のまなざしを向ける。
「そーだ。もっと、尊敬しろ」
少し調子に乗って、レックハルドはそう言って笑う。
「お前は、ちょっと要領が悪いんだよな。もっと、要領よくねえと損するぞ。損」
「うん、わかった。なんかすっごい勉強になったような気がする!」
はっはっは。とレックハルドは、調子に乗って上機嫌に笑った。ファルケンもファルケンで、すごく勉強した気分になっており、やはりにこにこしている。
「ん?」
前方の遠くに砂煙が経っているように見えた。レックハルドは、目を凝らし、遠くをうかがった。街道の向こうに何かいる。
「おいおい、ファルケン」
ファルケンは、マントを引っ張られて軽くバランスをくずす。
「うわっと、何?」
「お前、目ェよかったよな? あれは何だ?」
「え、えーっとっ」
レックハルドに言われて、ファルケンは遠く前方に目を凝らした。砂っぽい街道の向こうに、確かに何かがいるようだ。しかし、ファルケンでも余り気がつかないぐらい遠いので、それに気がついたレックハルドも相当視力が良かった。ファルケンは、少し尊敬のまなざしをレックハルドに向ける。
「すごいなー。レックってすっごく目がいいんだな。そんなに目のいい奴とは初めてあったな~」
「そんな所に感心はいらねえから。で、あれはなんだ?」
せかされて、ファルケンは伸び上がった。ただでさえ、大きい彼が伸び上がるともっと大きく見えた。
「えーとー、あれは馬と人だよ。人が馬に乗ってるんだ」
「複数か?」
「うん」
「武装はしてるか?」
「うん。鎧着てるよ。剣も槍も持ってるし」
「旗は?」
「ある。紅い旗だな」
話を聞きながら、レックハルドは順々に想像していった。複数の人が馬に乗っている姿が思い起こされ、それが鎧を着て、そして剣と槍をもっている。それでもって紅い旗。
(待てよ待てよ)
レックハルドはあわてる。
これは、普通に兵士の姿だ。レックハルドは、反射的に怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! オレに誘導尋問させてないで、とっとと兵士っていえよ! 見てすぐにそんくらいわかってたんだろがっ!」
「だって、別に危ない事じゃないから、ゆっくりでもいいかなって」
「つ、捕まえにきたらどうするんだよっ!」
レックハルドは、周りを見回し、逃げ場所がないかどうか探している。ファルケンは、ぎょっとしたらしく、少しあわてた口調でレックハルドにたずねた。
「え? オレを捕まえに」
「お前がどうしてつかまるんだよ? ろくに悪い事してないんだろ? 捕まってやばいのは、オレなの!」
借金の利子を力ずくで帳消しにもしたし、おまけに今まで重ねたせこい罪は数知れない。あんなせこい罪で、まさかあんな御大層な兵士に捕まったりしないだろう、とは思うが、ちりも積もれば山となる。万一ということもあるのだ。
「でも、まともな商売してるんだろ?」
「少なくとも、”今は”詐欺はしてねえよ。商売は信用が基本だからな。今はスリもやめたし、なにもしてねえよ。オレは商人なんだから!」
いっぱしの口をききながら、それでもレックハルドは、落ち着かない。
「じゃあ、昔のことでなんか捕まったりすることないだろ?」
「あまい! この世には時効ってのがあるけど、オレは、足洗って、まだ月日が浅いんだ。今なら、昔の罪でも十分すぎるほどしょっぴける!」
とにかく彼には、身に覚えが有りすぎるのだった。
「じゃ、どっか隠れた方がいいのか?」
「そりゃそうだが……。いや、でもここから逃げたら余計怪しまれるしな」
腕組みをして、首をひねって考える。冷静なレックハルドは、顔を伏せてやり過ごそうと思いついた。もし、連中が彼を捕まえに来たのでなかったら、下手に行動を起こすことはやぶ蛇になりかねない。
「静かにして、通り過ぎるのを待つか」
「わかったよう~」
ファルケンは、緊迫感のない声で返事をした。
騎馬兵たちはどんどん近づいてくる。レックハルドは、顔を伏せ気味にして進みながらも、ちゃっかり彼らの様子をうかがっていた。紅い旗にグリフォンの紋章が見えた。
よく見ると、馬に乗っている人間の鎧も剣も槍も、かなり立派なものである。
(ただの兵士じゃねえ。こいつらは、カルヴァネス王国騎士団じゃないか!)
レックハルドは、顔を伏せるのをやめた。まさか、王国騎士団のような連中が、自分を追ってくるわけがない。
「ファルケン、喜べ。オレたちは大丈夫だ」
小声で後ろのファルケンに告げると、ファルケンはにこっとわらった。
「そっか。それはよかった」
馬蹄の音が近づいてくる。
「ほら。何ぼーっとしてんだよ? ひかれるぞ」
レックハルドは、ファルケンの袖を引っ張った。道の隅によけろということだ。ファルケンは、気遣いは無用だと言いたげにこういった。
「オレ、ぼーっとしてないよ。わかってたし」
「そう言ってる間に跳ね飛ばされたりするんだよ」
ざっと騎馬の一団は、やってきた。まるで強い紅い風が吹き抜けるように、それはものすごい速さで目の前を駆け抜けていく。彼らは、当然、道のそばの行商人らしい旅人には目もくれなかった。あっという間に、彼らは去ってしまった。
レックハルドがざっと数えた感じでは、二十騎ほどいた。
クレティアから王都にでも帰るのか、それとも、別の任務にでも就くのだろうか。
そんなふうに、思いを巡らせてはみたものの、合理主義者のレックハルドは直接自分とは関係ないな。とわかると、急に詮索する意欲がなくなってしまった。
ファルケンは、少し驚いたようだったが、にっと笑ってレックハルドの方をむいた。
「へー、すごいな。訓練されてる感じ」
「まぁ、王国騎士団だからな。奴らこそ、このカルヴァネスのエリート達だ。一糸乱れぬ動きってのは、ああいうことを言うんだろうな」
「へぇ」
ファルケンは、そうこたえて続けて何かを言おうとしたが、その顔はすぐに緊張した。レックハルドも、何かの気配に気づき、進行方向を向いた。
馬に乗った騎士が一人、そこに立っていた。先ほどの騎士団の一員らしいが、一人遅れていたらしい。いや、この場合、わざと立ち止まったのかもしれない。
「へぇ、珍しい取り合わせだな」
男は兜の下で、うっすらとわらっているらしかった。
「何の御用ですか? 旦那」
表向き丁寧ながら、いつものようにレックハルドは警戒の目を向けながら言った。
「お仲間さんは、皆行っちゃいましたよ」
「別に。珍しい物をみたんで、ちょっと鑑賞をな?」
レックハルドは、男の態度にむっとしていたが、それでも顔には出さずに、
「珍しい物とは、そりゃあようございましたねえ。わたしたちは先を急ぎますので、失礼ですがこの辺で」
そういって話を切り上げ、レックハルドは前に進もうとして、ファルケンに「行こうぜ」と声をかける。
ファルケンは、なぜか妙に苦々しい顔をしていたが、すぐにいつもの彼の表情に戻り、こくりとうなずいた。
「道、まだ遠いもんな。急がなきゃ」
「そうそう、途中で野宿は嫌だもんなぁ」
レックハルドは少し軽い口調で言ったが、相変わらず警戒の目を向ける。
男の言った珍しい物の意味はよくわからなかったが、いい気分はしない。咎められないよう「失礼しますよ」と一言言い置いて、レックハルドは男の横をすり抜けようとした。
「横につれてる男が化け物だとしってるのか?」
不意に男が言った。
「何だと!?」
レックハルドは反射的に鋭い目を向けた。
「どういう意味だ!? それは!」
つい、丁寧な言葉を忘れてレックハルドはかみついた。相手はうすら笑いを浮かべた。
「知らないのなら別にいいんだが」
ファルケンは、うつむいて何かつらそうな顔をして黙っていたが、レックハルドは、全くそれには気づかず、言い返す。
「知る知らないは関係ねえ! こいつは、オレの相棒だぞ。いきなり化け物扱いするなんて、たとえ、騎士だろうが、お偉方だろうが、あんまり失礼だろ!」
「なら、どうするというんだ?」
騎士は悠然と笑っている。
レックハルドのような庶民、おまけにすねに傷をもつような庶民と、彼らのような騎士には身分の差がかなりある。
気づいて、レックハルドが詰まった。たとえ、武力で勝負したところで、後で厄介は背負い込むし、自分の力ではどうにもならないのだ。
歯がみして、うつむいたレックハルドの上に、ふっと黒い影が落ちた。
「な、何をする!」
先程の騎士が、あわてた声を上げていた。彼の体が、馬から引きずりおろされて、地面にたたきつけられた後、彼の影になって見えなかったもう一人の騎士が現れた。
「一般人相手にちょっかいかけてる暇があるのか?」
もう一人の騎士は、兜を被っていなかった。レックハルドとそう変わらない年齢で、黒髪の短髪、少々鋭い目をしていたが、それなりに二枚目ではあるようだ。
だが、どことなく、騎士というような高貴そうな印象のない男だ。傭兵でもしていそうな、どちらかというと少し無骨な、ちょっと不良っぽい感じがした。
「ダ、ダルシュ」
ダルシュと呼ばれた男は、冷たい視線を浴びせた。
「帰ってこのことを報告したら、あんた、ただじゃすまないぜ。それでなくっても、アンタが騎士の身分かさにきて、いろいろとやってるのを、オレは知ってるんだがな」
騎士はうなると立ち上がって、ダルシュの方を一度にらんだ。
「ちっ。隊長のお気に入りだと思って、偉そうにしやがって!」
「別にお気に入りってわけじゃないぜ。あんたの素行が悪いだけだろ?」
ダルシュと呼ばれた騎士は、冷たくそう言った。騎士が慌てて馬に乗る。
「覚えてろ、ダルシュ!」
「覚えるわけねーだろ」
騎士は、捨てぜりふをはいていったが、すでに負け犬の遠吠えにすぎなかった。
道に砂煙を上げて慌てて立ち去って行く騎士を見送ってから、ダルシュは、レックハルドとファルケンの方をむいた。
「悪かったな。王国騎士団が全員あんなのだと思わないでくれよ」
「謝ってくれるならいいけど」
レックハルドは、まだ機嫌が直っていないようだったが、ここで騎士団の団員相手に喧嘩をふっかける気もない。一応納得する。
「それじゃあ、俺も急ぎなんで失礼するぜ」
ダルシュという騎士は、あまり丁寧でもない口調でそう言うと手綱を引いて駆け出した。ざっと砂煙があがり、彼の姿は先に行った騎士達の方へと向かってどんどん小さくなっていく。
「ちぇっ。あの野郎、なーんとなくいけすかねえな」
助けてはもらったものの、どうもああいう自信満々な男嫌いだ。
レックハルドはぶつくさと文句をひとしきり言ったあと、それから、思い出したようにファルケンの方を向いた。ファルケンはうろたえた様子だったが、レックハルドは、さっぱりとした顔をして言った。
「とんだ、災難だったな。さ、行こうぜ! 急がないと、今日も日が暮れちまう。一日は二十四時間しかないんだ。時は金なりっていうだろ?」
そういって、道を急ぐ。
「なぁ、レック」
ファルケンは、珍しく自信のない顔で悄然ときいた。
「オレ、レックにいろいろ話してない事があるんだ。何も話してないのに、一緒に行っていいのかな?」
へん、とレックハルドは鼻先で笑った。
「お前、だったら、オレを食う人食い鬼だったりするか?」
ファルケンはあわてて首を振った。
「ぜ、絶対違う!」
「だろ。だったら、どうでもいいや。お前がオレに害がなければな」
レックハルドはそう言ってすでに歩き出した。
「誰にでもきかれたくねえことはあるだろ。オレだって、自慢できた身の上でもねえし。話聞いて金儲けになんだったら別だが、そういう金目の話じゃなさそうだし」
レックハルドは肩をすくめる。
「で、今のところ、お前はオレの味方だし、まぁ、悪い奴じゃないみたいだしな。オレは、オレに危害を加えないんだったら、べっつにお前が警官でも化け物でも気にしねえよ。今のとこ、お前がいないと、いつ借金取りに追われてもおかしくないしな」
素っ気なくいいながら、レックハルドはすでにファルケンの五メートルほど先を歩いている。
「ホントにいいのか?」
ファルケンがあわてて走って追いついた。
「初対面で、変な奴なのはわかってたしな~。嫌だったら、最初っから逃げてたぜ」
レックハルドは、やはり淡白に応える。
それがあまりにもいつも通りで、ファルケンは、安心したような微笑みを浮かべた。
「そうか。やっぱり、レックはいい奴なんだな」
レックハルドは、振り返ってムッとする。
「こらこら、そのくらいでいい奴とかいってたら、お前一生騙され続けるぞ。しっかたねえなぁ、お前は。お前には、オレが世の効果的な渡り方について、今から講義してやろう。しっかりきいとくんだぞ」
「わかった!! しっかり勉強する!」
実際、まだレックハルドは、後ろをちょこちょこついてくる、相棒の正体すら知らない。
だが、そのときのレックハルドは、日蝕の秘密同様、それを知る必要のないことだと思っていた。
彼がどうあろうが、自分には関係のないことだ。
自分に害がないのなら、それは関係がないことだ。要らぬことを追及するのは、レックハルドの主義にあわない。時間がもったいなあ。
後ろにいるのが何であれ、自分の味方である限り。気にすることではないはずだった。
まだ、日は高い。偉そうなレックハルドと、その後ろに続く大柄のファルケンの不思議な道連れは、そのままクレティアに向けて歩き出した。
このまま歩いていけば、クレティアには、明日ぐらいにはつけそうだ。