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辺境遊戯・改訂版  作者: 渡来亜輝彦
第十三章:聖域への道
63/98

3.決断


 シレッキの町にほど近い場所まで来て、レックハルドはふいに顔を上げた。その道の並木の辺りに、ダルシュが立っていたのだ。

 少し心配していたのか、その表情はいつも程荒っぽくはない。

「どこ行ってたんだよ? せっかく、お前が街にいるっていうから、マリスさん来てたのに。心配してたぜ」

 ダルシュはそういうが、レックハルドはさして反応しない。だが、近づくとダルシュのほうを見、不意に手を出した。

「お前、油持ってるか?」

「何だよ?」

 レックハルドに唐突に訊かれて、ダルシュは困惑した。

「な、何に使うんだ」

「何でもいい、少しでいいんだ。持ってたらよこせ」

 落ち込んでいるとはいえ、ものすごく横柄な口の利き方だ。しかし、普段なら喧嘩売ってるのかと思うところだが、今の彼と喧嘩する気になれなかった。ダルシュは、むっとしたが、手を出したままの彼に仕方なく持っていた自分の灯り用の油をわけてやった。

 レックハルドは、並木の一つの根元に座った。

 そして、持ってきていた荷物の一角から麻袋と財布を取り出した。何をするのかと黙ってみていた、ダルシュは、そこからレックハルドが金を取り出したのを見て、少しぎょっとする。

 レックハルドは紙幣ばかりをその中から選び取り、道の片隅に積み重ねていった。いくらあるのか、数えているようで、ダルシュは思わずカッとした。

「こんな時まで金の算段かよ!」

 ダルシュは忌々しげに言った。レックハルドは、ひたすら紙幣を束ね、それを積み重ねている。暗い目でダルシュを睨むように見たが、何も言わずに作業に戻る。

「お前の相棒が大変だって時になあ、そんなに金が好きかよ!」

「うるせえ……」

 静かにいい、レックハルドは出来上がった紙幣の山を見た。

 いつの間にそんなにためていたのか、それは相当な量があった。軽くため息をつく。レックハルドは、空ろな目をそれに落とし、懐を探った。

 ダルシュは、イライラしながら仕方なくそこに立っていたが、カチカチという音で驚いて彼のほうを振り返った。

「お、おい! お前なにやってんだ!」

 ダルシュが驚くのも無理はなく、レックハルドは火打石でそれの一枚に火をつけ、ちょうど紙幣にかけようとしていたのであるから。

 ダルシュの声など歯牙にもかけず、レックハルドはそのまま火を紙幣の上にくべた。いつの間にかダルシュが渡した油を撒いていたらしく、紙幣は濡れていた。そのおかげで、紙の金の山に、あっという間に火が行き通った。

「お、お前! おかしくなったのか!」

 ダルシュは思わず、レックハルドの肩をつかんで問い詰めた。先ほどあんなことをいったダルシュだが、それだけにレックハルドの金に対する執着は知っている。そのレックハルドが、惜しげもなく金を燃やすなど、彼にしてみれば有り得ない光景だった。

「なんでこんなことするんだよ!」

「オレの金じゃねえ!」

 レックハルドは叫ぶように言った。

「あれは、あいつのだ」

 ダルシュはハッとして手を離す。レックハルドは、ややふらつくようにして手を広げた。

「あいつの金だ。前に、金は山分けにするって約束していた。一方的にあいつ、契約破棄して死んじまいやがって……! でも……」

 レックハルドは、ちらりと沈んだ目を燃える紙幣に向けた。

「半分以上、あいつの力で稼いだんだ。……この金はオレが受け取るわけにはいかねえ。つき返すだろうが、あいつにくれてやる」

「お前……」

 ダルシュは、静かにレックハルドを見ていた。彼がこんな風に寂しそうな顔をするのを、初めてみたような気がしていた。

 ふっとレックハルドは笑った。

「シェイザスが言ってた意味がようやくわかった」

 ダルシュは、妙な顔をする。 

「オレはオレの運命を切り開くだろうが、その結果がどうなろうが、オレのせいだって……」

 レックハルドは皮肉っぽく笑った。

「ファルケンが死んだのは、オレのせいだってことだ。こうなっても、自分以外の誰も恨むなって事だろうな。その通りだ。オレが、あいつを助けになんか行かなければ…。あの覆面野郎の言葉に従っていればこうならなかった……」

「おい、何もシェイザスはそこまでひどいことを……。大体、お前がいなくても、多分あいつは――」

 レックハルドは、ダルシュの言葉など聞いていないかのように燃え上がる紙の山を見ている。

 ダルシュは、不意に心配になった。いつものように、あの憎たらしいほど自信に満ちた目に、どこか危うい光が灯っていた。

「おい、お前、死ぬ気じゃねえだろうな」

 言われてレックハルドは、目だけをダルシュに向けた。表情はない。

「そりゃ気持ちは分かるが、あいつだってお前がそんな事で……」

「オレにそんな度胸あると思うか?」

 レックハルドは、自嘲的に微笑んだが、それは逆に不安をあおるような笑みだった。

「おい、ホントにやめろよ! お前、そんなことしたら!」

「やらねえといってるだろ。そんな度胸があったら、あの時ファルケンにとどめを刺してたさ。オレは無駄にあいつを苦しめたんだ」

 レックハルドは顔をあげて、青い空の向こう側をすかすように見た。

「オレは結局、あいつを助けてやることができなかったな」

 何をいえばいいのかわからず、彼を見ているダルシュのほうに、一度顔を向ける。

「シェイザスによろしくな」

 そういいおき、レックハルドはふらりと歩き出した。身軽な姿になった彼に、彼には少しだけ大きい魔幻灯が、壊れたままで握られていた。

「どこいくんだよ!」

 ダルシュは問い掛ける。向かう先は、シレッキの町に向かう道だった。

「ちょっと、何か食べてくる。それからのことはそれから決める」

 レックハルドの声だけが聞こえる。

 ダルシュはますます不安になった。今のレックハルドは、本当になにをしでかすやら予想がつかなかった。

「お前、ホントに死ぬとかそういうのやめろよな!」

 ダルシュが叫んだが、今度はレックハルドは答えなかった。ダルシュはその姿を黙って見送っていた。

「彼と、お話はできたようね」

 不意に木の後ろで女の声がした。ダルシュはそちらを振り向き、少しだけ困惑したような視線をさまよわせた。

「なあ、あいつ、お前に言われたこと気にしてたぞ」

「そうかもしれないわね」

 シェイザスはため息をついた。

「お前、こうなることをわかっていったわけじゃないんだろ」

「もちろんよ。……わからなかった。でも、どちらにしても、ファルケンは……」

 ああ、とダルシュは頷いた。

「それにしてもさ」

 ダルシュは髪の毛をばさばさと掻きやった。それから、少し不安そうに彼の去った後を見る。

「あいつがあんなに泣くなんて思わなかった。もっと冷たい奴だと思ってたんだが。あそこまで取り乱すなんて……」

「冷たいでしょうね」

 シェイザスがぽつりと言った。訝しそうにダルシュはシェイザスのほうを見る。

「どういうことだよ?」

「冷たい男だから、余計ああなったんでしょうと、言ったのよ」

 ため息まじりにそういい、シェイザスは美しい顔をあげた。寒気がする様な綺麗な顔に、少しだけ同情のようなものが浮かんでいた。

「あの人は、冷たい人だわ。それは私達が知るとおりよ。だからいつも一人で生きてきたんでしょうね。いえ、一人で生きてきたからああなったの」

 ダルシュは彼女の横顔をじっと眺めていた。

「今まであの人は、他の人間を道具として考えてきたはずよ。誰も信用しない。どうせ人間なんて、いつか裏切る。だから、オレのせいで他人が不幸になろうが、オレは知ったことじゃない。オレが痛いわけじゃない。ただ、裏切られる前に裏切ってやっただけさ。恨むなら、オレをこんな風にした世の中を恨め――。そうやって自分を守るしか、あの人には生きていく方法が無かったの。だから、最初は、あのファルケンにもそのつもりで近づいたんでしょう。利用するだけしようと思っていた。でも、途中で気が変わった。なぜだかわかる?」

 ダルシュは首を振った。

「いや、オレには……」

「ファルケンが、無条件であの人を信用したからよ」

 シェイザスは髪の毛を払って前に進んだ。木の幹に手をかけながら、レックハルドの去っていった先をまっすぐに見る。

「あの人は信用されないことを前提にして生きているんでしょう。だから、いきなり無条件に信用されて、本当は嬉しかったんじゃないかしらね」

「ああ、それはそうかもしれないな。あいつを信用しようなんてやつ、そうそういないから……」

「だから、あの人にとっては数少ない理解者よ。いなくなれば辛いはずだわ。あの人には、家族も何もいないんだから」

 ダルシュは黙ってシェイザスのほうを見た。シェイザスはわずかに振り返り、少しだけ顔を曇らせる。

「それが、自分のせいで、あんな死に方をしたっていわれれば、ね」

 シェイザスは、もう何も言わなかった。ダルシュは、少しため息をつき、レックハルドの去った方をもう一度見る。あの時の、魂の抜けたようなレックハルドの姿は、これから彼が何かとんでもないことをしでかしそうで、何となく不安に駆られる姿だった。


 

 *


 花を摘み、どこにいくでもなくロゥレンは泉の近くに立っていた。

「ばか」

 ぼそりと呟く。

 この泉は、ファルケンが常用していた泉だ。辺境を旅立ってからの五十年近く、彼は何かと思い出してはここによって水を飲んでいった。それをロゥレンは知っていた。

「なんで、あんなことしたのよ。辺境に戻りたいって言ってたくせに!」

 ロゥレンは、腹立たしげに言って、それから摘んできた花を泉に落とした。ゆっくりと落ちていった花束は、水面に優しく打ち付けられ、それぞればらばらに散らばっていく。透き通った泉に木漏れ日が入って、とても綺麗だった。

「ふふふ、なかなか粋じゃねえか」

 不意に背後から声が聞こえ、ロゥレンは縮み上がった。慌てて振り返る。

「何そんなに驚いてるんだ? あんたの目にも、オレは女衒ぜげんか奴隷商にみえるのかい?」

 元々投げやりな喋り方をしていたのに、投げやりを通り越してやけになったような、そんな印象の口調だった。

 少しふらつきながら、レックハルドは寄りかかっていた木から背を放した。

「マリスさんとすれ違ったよ」

 レックハルドは、わずかに赤くなった顔を引きつらせて笑った。

「お前、さっきまで会ってたんだろ? ファルケンのことは言ってないんだろうな。そんな顔してた」

 はは、と彼は笑った。その視線はどこかとろんとしていて、いつもの鋭さがない。なにやら旅支度をしたようで、荷物を持っていたが、それは行商人の彼が持つべきものではなかった。商品らしいものはない。

「でも、お前がちょっと元気になっててよかったよ。本当、不思議な人だな。でも、オレはさすがにこんな姿は見せられねえから会えねえや」

「あんた、お酒……」

「さすがに何も食べないで飲むと効くな。ははは、オレは結構強いほうだったんだがな」

 自嘲的に笑い飛ばしながら、それを呆然と見ているロゥレンに気づき、彼はふと笑いを止めた。酔っているといいながら、彼の目は普段とあまり変わらない。正気を失いたくて飲んだのに、結局酔えもしなかったのが本当なのかもしれない。

「オレはさ、元々は小心者なんだ……」

 レックハルドは、酒気を帯びた息を吐きながら言った。

「だから、素面じゃ、こんなこと決断できねえんだよ……」

 ロゥレンは、固まったようにたたずんでいた。うっすらと微笑を浮かべ、レックハルドは言う。

「お前、オレが死ねばよかったと思ってるだろ?」

「な、何よ! そ、その言い方!」

 面と向かって言われると、さすがにロゥレンはきつくものが言えなくなる。

「ああ、オレもそう思ってたところなんだぜ」

 レックハルドは、寂しげに笑んだ。ロゥレンは、ぎくりとして、顔をこわばらせた。

「オレなんか生きてても、仕方がねえよな。どうせ、けちな泥棒商人が関の山だ」

「な、何言ってるの! あんたの言っている意味がわからないわよ!」

「つれてきてやろうか」

 一瞬、レックハルドの言っている言葉が本当にわからず、ロゥレンは驚いた。

「ファルケンを、あんたのところに連れてきてやろうか?」

 レックハルドの言葉に、ロゥレンははっと目を丸くした。

「な、なによ。もしかして、あんた、太母マーターの下に行くの?」

 レックハルドが答えないのを肯定としてとり、ロゥレンは首を振った。

「無理よ! 太母マーターは、死の砂漠の向こう側にいるの。森からは入れないように見えない壁が作られてるわ。砂漠を越えていくしかないけれど、あれは一人前の狼人や妖精でも一生に一度の試練としてしか通らないほどの場所だわ! それも、全員が行くわけじゃない! 限られたものだけがなの! それぐらい過酷な場所なのよ!」

「死の砂漠は、ガキの頃に迷い込んだことがある」

 レックハルドは、ふと微笑を浮かべる。死の砂漠は、マジェンダ草原のすぐ北西に広がっている辺境の一部だ。乾燥にはなれたマジェンダの人間でも絶対に近寄らないそこは、迷えば戻れない他、オアシスなども少なく、おまけにそこの熱さが地獄のようだという。それでついたあだ名が”死の砂漠”といった。

「オレはあの土地の生まれだ。あの気候にも、地理にも大体慣れてるはずだ。渡りきってみせるだけの自信はある」

「無理よ! それに、涙の器の話は伝説なのよ! あたしたちですらはっきりとわからない。あいつが生き返る保証なんてないの! やめてよ!」

 レックハルドは、まっすぐにロゥレンを見ていた。ここのところ、死んだようだった彼の目に、いつもの彼のような、いや、それよりも強い光が宿っていた。そして、そんな目をしているときのレックハルドを、止められるはずもないことが、何となくロゥレンにもわかっていた。

「生き返らせられなくてもいい。あいつが二度とあんな辛い思いをしなくてすむようになるんなら、それだけでも。オレは、あいつをあんな目にあわしちまった。オレには、あいつを助けなきゃならねえ義務があるんだ」

 ロゥレンは首を振った。

「無理よ! 人間に死の砂漠は越えられないんだから! あんたまで死んじゃうわ!」

「やってみなきゃわかんねえだろ」

 レックハルドは、強いて口元に不敵な笑みを浮かべた。

「もし、失敗しても、オレがこの世からいなくなるだけのことだ」

 ロゥレンはようやく、先ほど「素面では決断できない」と、レックハルドが言った理由が分かったような気がした。死の砂漠に行くということは、それだけで彼の死を意味している。万一、本当に太母マーターの下に辿りつけたとして、あれを手に入れられたとしても、死の砂漠を越えた彼には戻ってくるだけの体力は残されていないだろう。

 命を捨てに行くような賭けだった。おまけに、失敗すればファルケンどころか、レックハルドまで命を失う。だから、レックハルドは、わざと酒を飲み、酔った上でここを去ろうとしたのかもしれない。

「必ず、成功させてやるよ……。ただ……」

 レックハルドは、酒の勢いを借りて笑おうとしたが、ただ悲愴な表情を作っただけだった。

「もし、オレが戻ってこなくても、マリスさんにオレが死んだなんていうなよ。そうだな、借金の片で異国に売られたとでも言っておいてくれよ」

 あいつに会う前に、そうなっちまえばよかったんだ。とレックハルドが口の中で呟いたのが、ロゥレンにもわかった。

「じゃあな、小娘」

 そういうと、レックハルドはふらりと身を翻した。ロゥレンは何も言えず、ただ黙ってそこに立っていた。

「ああ、そうだ」

 レックハルドは、ふいに思い出したように立ち止まり、にやりとした。

「オレはあんたのこと、嫌いじゃなかったぜ。あんたの、そういう気が強くって、口が悪いところ、なんだか他人に思えなかったしな」

「待って!」

 ロゥレンが堪え切れなくなり、彼を呼び止めた。

「違うのよ。あたし、あんたに言い過ぎたわ。違うの。あんたのせいじゃないわ! あれはファルケンがそうしたかったからしたことなの! あんたのせいじゃないんだから!」

 レックハルドが口許に笑みをのせて振り返った。

「だからやめて!」

 ロゥレンは、泣きそうな顔をしていた。そんな顔をする義理はないだろうと、思いながらレックハルドは言った。

「はは、わかってるって。あんたはオレと似てるっていったろ。……どうせ、オレにあんなこと言ったの、気にしてるって思ってた。それこそ、お前のせいじゃねえよ」

 にっと彼は笑った。

「だから、ファルケンが戻ってきたら伝えておいてくれや。今度は、無理ばっかりするのはやめろって。もっと気楽にいけってさ」

 ハッとロゥレンは立ちすくんだ。レックハルドの寂しそうな微笑に、決意を帯びた瞳が、それを止めることができないといっているようだった。

「無事で……」

 ロゥレンは、うつむいてそれだけ呟いた。

「無事で戻ってきて。もし、蘇ってもあんたがいないと、あいつは一人じゃダメなの」

 レックハルドは答えず、そのまま歩いて去っていった。マリスの後を追いかけることになる。

 きっと、彼はマリスと会うつもりなのだろうと、ロゥレンは見当がついていた。

 

  * 

 

「旅に出るんですか?」

 マリスが、少し寂しそうに訊いた。

 辺境の入り口近くの街道で、レックハルドはマリスにとうとう追いついていた。再会を喜んだマリスに対して、レックハルドは突然長旅に出ることを告げたのだった。

「折角仲良くなれたのに」

「ええ、本当に。……実は、もうファルケンが待ってるんでいかなくちゃならねえんですが。あいつ、別れるのが辛いからって、こっち出てこないんですよ」

 レックハルドは、笑いながら嘘をついた。

 髪の毛が濡れていて、今日はいつものターバンを取って手に持っていた。それも濡れているらしく、時々手で絞るようにしている。それが、酔いを醒ますために、レックハルドが、彼女に会う直前に水筒の水を頭からかぶったのだということはマリスは気づいていない。

「そうなんですか、でも、ファルケンさん、大丈夫だったんですね。よかったわ」

 マリスの純粋そうな微笑が、今のレックハルドにはとてもつらかった。彼女の顔を見れば、本当にファルケンが死んだことになりそうで、堪え切れなくなりそうだ。ロゥレンも彼のことをマリスに黙っていた。マリスには、今は彼が生きていると思っていてほしかった。

「え、ええ。あの馬鹿、あれでてんでダメなことろがあって、マリスさんと別れる時になんていったらいいかわからないって。失礼な奴ですよね」

「そんなことないですよ。あたしも何だかわかります。寂しくなりますし」

 少しうつむくマリスに、レックハルドは優しい笑みを浮かべた。

「またすぐに戻ってきますよ」

 それは嘘だ。

「そうしたら、また遊びに行きましょう」

 それも嘘だ。おそらく、もう、これでマリスに会うこともない。

 ふと、彼はあることを思い出し、荷物袋から小さな袋を差し出した。

「そうだ、マリスさん」

 レックハルドは、袋から髪飾りを取り出した。それは、あの日、日蝕が起こった日、ファルケンからあの金貨で買い取った綺麗な髪飾りだ。

「お気に召すかどうかわかりませんが、これ……」

「え、あたしにですか?」

「ええ。ファルケンが作ったんですよ。つけてやってください」

 ――そうすれば、ファルケンも本望だろうから。

 彼の形見になったその髪飾りを、マリスのしろい手のひらに置く。マリスはじっくりとそれを眺めて微笑んだ。ファルケンはこういうものを作らせると、普段の姿からは見当がつかないほど、綺麗なものをつくった。

「ファルケンさんは、ホントに器用なんですね。ありがとうございます。ファルケンさんにも伝えてくださいね」

 マリスは微笑んだ。

「それから、マリスさんにお願いがあるんです。実は、一つ預かってもらえないですか?」

 そういって、レックハルドはその袋から、そうっと手に一枚の金貨を差し出した。それには女神と鳥がそれぞれ表裏に描かれている。

「これ、ですか? 綺麗な金貨ですね」

 その反応から見るに、マリスは、おそらくその風習を知らない。

「ええ。それを預かってもらえませんか? オレがもっているとなくしそうで。……もし、オレが戻ってきたら、その時に返してください」

 レックハルドは笑いながら言った。

「そうですか。旅先だと不安ですものね。じゃあ、私が預かります。この髪飾りのお礼をかねて」

「ありがとうございます」

(これでいい)

 レックハルドは思う。マリスはあの風習を知らない。

 知ったところで、彼がその意味をこめて渡したなど思いもしないだろう。マリスは、素直な娘だし、レックハルドの言葉ですら疑おうとしない。その可能性について、おそらく考えもしないに違いない。ただ、レックハルドから物を預かったことだけを覚えているだろう。

(……これでいい。もし、オレが死んでも、これでこの子はオレのことを覚えていてくれる。それだけでいい)

 レックハルドは、心の中の決意とは裏腹に明るい顔をした。

「それじゃ、オレはもう行かなければ、あいつに随分待たせてますし」

「大切に預かっておきますね。ファルケンさんによろしく伝えてください」

 ええ、とレックハルドは答えた。そうして、迷わないように一気にきびすを返した。そのまま、早足で歩き始める。迷えば、きっとためらう。だから、迷ってはいけなかった。

「どうかお元気で!」

 マリスの声が後ろから追ってきた。レックハルドは手をあげて、そのまま歩き続ける。やがて、彼の背は小さくなり、黄色の砂埃が上がる道の果てへと向かっていく。マリスはその姿が見えなくなるまで、ただその背を無邪気に見送っていた。

 

 


 ***

 

 筆頭司祭ディルイー・スーシャー酔葉すいようのツァイザーは、森の中でなにやら瞑想しているようだった。

 森の中は暗く、獣たちでも何も見えなくなるほどだった。空では太陽が周囲の環だけを妖しく輝かせているだけだ。

「ツァイザー。また日蝕が起こっているわ」

「ああ。そのようだな」

 ツァイザーは声をかけられても、背後を振り向かなかった。暁のロゥザリエは、そんな彼の態度に多少苛ついた様子を見せたが、呆れたように首を振る。

「私に相談があるって呼びだしたのは、あなたでしょう? 相変わらずのんきね」

「いや、ちょうどお前が来たころに日蝕になったからな。観察していた。」

「観察はいいけど、どうするつもり? 二番目(あの子)に逃げられた。多分、彼女は今でも好き勝手行動するわ」

「会ったところでどうなる?」

 ツァイザーは、片頬杖をつきながらぼんやりと言った。

「二番目の司祭スーシャーは、お前ほどには強くない。妖魔ヤールンマールが干渉しているせいで、彼女は以前より強いかもしれんが、多分私やお前が本気で彼女と戦えば、彼女を殺すことはわけがない」

「ええ。そうでしょうね。この間も、あなたに止められてなければ、私が彼女を殺していた」

 ロゥザリエは素直に認める。

「しかし、殺すことはよくないことだ。……特にお前は、彼女に手を下してはいけない。多分後悔することになる」

 ツァイザーは例の気のない声だが、そこには気遣いが感じられる。それは珍しいと思った。

「殺せなければどうするというの? 放置しておくつもり?」

「それだ……」

 ツァイザーは、空をにらむように見上げつつ言った。

「彼女は、お前が思っているより深く妖魔に蝕まれている。あの状態で、妖魔だけを切り離すことは我々にはできない。しかし、それができるものもいないわけではないのだ。それが、十三番目の司祭スーシャー……、つまり辺境の守護者シールコルスチェーン……」

守護者シールコルスチェーン

 ロゥザリエは反芻し、目を開いた。

「ツァイザー、けれど、当代には守護者シールコルスチェーンはいないと聞いているわ。彼らは太母マーターの管理する時間の流れの乱れや裂け目を見ることができるから、いつぞやの守護者シールコルスチェーンが紛れ込むことはあるかもしれないけれど……」

「そう、当代はいない。しばらくの間、この世界は平穏だった。平穏な世に守護者シールコルスチェーンは必要がなかった。それゆえに廃れていた」

 ツァイザーは立ち上がって、振り返る。暗い世界の中、微かに彼が笑うのを見た。その笑みはかつてないほど悪戯っぽい笑みだ。

「それなら、私が守護者シールコルスチェーンになる。……なれるかどうかはわからないが、接触してみようと思う。先代の守護者シールコルスチェーンに」

「あなたが?」

 ロゥザリエは驚いた。

「そんなことができるの?」

「さて、どうかな。ものはやってみなければ、わからないものだ」

 酔葉のツァイザーは、ため息をついた。そうしていると、いつもの気のないくせに好奇心だけは旺盛な、変わり者のの狼人の彼のままだ。

「私はしばらくの間いなくなるかもしれないが、その間、お前に守っていてほしいのだ。この森を……」

「私にそんな頼みをしてもいいの? 期待に添えられるかしらねえ」

 ロゥザリエが戸惑い半分に苦笑気味なると、ツァイザーは頷いた。

「さて、私の知る暁のロゥザリエは、もっと自信に満ちた女王のような妖精だったがね」

「そんなこと言うと、あとで後悔するわよ」

「それは怖いな」

 ロゥザリエににらまれても、ツァイザーはいつものツァイザーのままだった。

 ちょうど日蝕が終わるころ。世界にまた光が満ちる。視界が明らかになるころには、ロゥザリエの目の前からツァイザーの姿は消えていた。


  ***



 その日の空は青く澄み切っていた。

 その青い空の下、突然の怒号が、辺境の森の奥に響き渡っていた。

 森の奥、サライはその日もそこにいた。

「どうして教えたんだ!」

 サライは、目の前にいる男を冷静に見ていた。その目に憤りと焦りが見えた。おそらく普段は大人しい男なのだろう。滅多にない感情の発露に、彼自身が戸惑っているようだった。

 布で丁寧に覆面をし、大きな体にマントをかぶせている。そこにいるのは、間違いなく、この前に現れたイェーム=ロン=ヨルジュと名乗る狼人だった。

 イェームはサライに食って掛かった。掴みかかりはしなかったが、その口調はかなり強かった。

「あんた、全部知ってたんだろ! なんで教えたんだ!」

「それを望んだのは、レックハルド自身だ。お前も良く知っているはずだ。あの性格からして、なにも教えなくても、どこかで必ず無茶をやる。だったら可能性の高い無茶のほうがよいだろう」

 サライは悪びれもせずに応える。

「だからって! なんでそんなこと!」

「それに、このままではおぬしのほうもおさまるまい。違うか」

 言われて、イェームはぐっと詰まった。サライから目をそらし、イェームはため息をつく。

「レックハルドは、死の砂漠に向かったのかい?」

「そうだ。それを越えて、おそらくは聖域を目指しているはず…」

 イェームは、ばっとマントを翻した。

「…追うのか? ただ失踪しただけかもしれぬぞ」

 彼を試すように、サライは少し意地悪につけくわえる。

「もし、逃げたのだとしたら?」

「あいつはそんな人間じゃない! 時々、無謀な賭けに出る奴なんだ! そうなったら、絶対に自分の決定を貫き通す! たとえ、死ぬかもしれなくても!」

 イェームは振り返って叫んだ。

「あんたのせいだぞ! あいつが死んだら!」

 サライは薄く笑っているだけである。

「あの男は死ぬまい」

 小声でサライはささやいた。

「お前が助ければよいだけの話だ」

「オレが間に合わなかったら?」

「そのときは、自分の運命だといって笑って死ぬかもしれん。あの男はそういう男だ。お前も良く知っているはずだが?」

 イェームが睨んだのがわかり、サライはふと微笑む。

「今すぐ追えば、おそらく間に合う。アレの足は速いが、お前は狼人だろう。間に合わぬわけがない」

 黙ってイェームはサライを睨んだ後、わずかにため息をついた。

「そうだな、あんたを恨んだところで何も解決しない。それに恨みもつらみも、もうたくさんだ」

 そういいながら足を踏み出す。マントの端から、色あせた外套の裾がちらついた。

「サライ殿、何かあったかな?」

 不意にサライの背後から声が聞こえた。

 イェームはどきりとした。こんなところにいるということは、狼人に違いない。もし、司祭スーシャーやそれに連なるものであれば、今の彼には面倒な相手となる。

「はは、心配することはない」

 サライは言った。

「あの声の男は、”銀輪冠ぎんりんかん”。当代の守護者シールコルスチェーン、ハラール=ロン=イリーカスだ。お前にとってシーティアンマでありこそすれ、敵ではない。そうだろう?」

 がさがさと狼人が茂みからでてきた。長い髪をしていて、顔の作りも繊細で優し気だ。頬につける紋様メルヤーも、他の狼人に比べて随分と細くこまやかである。目は閉じられ、目の前にいる自分を見ていないようだった。視力が弱いのか、それとも失っているのかもしれない。

 額には、銀でできた額冠がはめられていた。その額冠を狼人の中では”輪冠 (リーカス)”と呼び、シェンタールのひとつである。

「シ、お師匠様シーティアンマ……」

 思わずイェームが呟いたのを聞き取ったのか、彼はきょとんとした。

「おや、そなたはどなただね?」

 イェームははっとした。

「なんだか、会ったことがあるような気がするのだが、思い出せないのだ。どこで会った方かな?」

 イェームは、ふと安堵したようにため息をついた。

「では、私の人違いでしょう。失礼」

 そういって、イェーム=ロン=ヨルジュは頭を下げた。

「そうだろうな。会った感じがするだろう?」

 サライはその様子を見ながら、意地悪く笑って言う。 

 彼らの会話を聞きながら、イェームは二人に背を向けその場から足早に立ち去って行った。

 レックハルドの行先がわかったのだ。一刻も早く死の砂漠に向かわなければならない。

 死の砂漠は、マジェンダ草原側にある。

 普段は歩きだろうが、レックハルドも元々は遊牧民だ。馬術には自信があるといっていたので、もし彼が馬にのって道中をしているなら、いくら狼人のイェームでも簡単には追いつかない。

 どうしたものかと考えながら進んでいくうちに、彼はふとあるところで立ち止まった。何かの気配がする。思わず、背負った剣に手をかけて、彼はゆっくりと周囲を歩いて行った。辺境を捨てている彼には、森の中で敵が多い。相手が普通の狼人だったとしても、シェンタールも持たない彼が縄張りを横断するだけで、喧嘩を売りながら歩いているようなものだ。時に争いに巻き込まれないとも限らなかった。

 がさがさと何者かが動く気配がした。

「えっと、どうしよう。あたしじゃこれ、取れないし……。ちょっと癪だけど、あのコ呼んで取ってもらおうかしら……」

 どうやら女の声だ。イェームはやや警戒を解いたが、そうこうしているうちに相手の方が自分に気づいたらしい。

 妖精らしい人影が立ち上がって、短く悲鳴を上げた。

「だ、誰!?」

 そこに、見覚えのある妖精がたたずんでいた。まだ妖精としても若く、あどけない。

「ロゥレン」

 ふとイェームはその名をつぶやいていた。

「こんなところで何をしているんだ?」

「あ、あなた、この間の……」

 ロゥレンはイェームを見て目をしばたかせた。ロゥレンは、彼の覆面の下の顔を知っている。それだけに、こんな場所であったことに何かを感じているようだった。

「あなたこそ、どうして……?」

「オレはレックハルドの後を追いかけるのに、どこに向かったか聞いてきた帰り道だ。今から死の砂漠に行く」

「あなたも?」

「そういうお前こそ、何をしているんだ?」

「何って、……落とし物を見つけたのよ」

 ロゥレンは、そういって視線を向けた。草の中に何か光るものがある。

「ファルケンが、このあたりで何か探してたんだって、他の妖精に聞いたの。でも、何探してるかわかんなくて……。でも、コレ金属でしょ? こんなの落とすのアイツしかいないと思うんだけど。でも、あたしじゃ、手にするのがどうも苦手だから……」

「何だって?」

 イェームは、慌ててロゥレンの傍まで近づいた。目を草むらの中に向け、イェームはしゃがみ込んで光るものを手に取った。それは小さな金貨だ。

「これ……」

 イェームはその硬貨をじっと見極めた。金貨の表裏に狼と剣が描かれている。それの意味することを、イェームは確か知っていた。

「これは、たしか『三枚目』の……」

「やっぱり、それ、レックハルドの持ち物じゃないの? マリスも同じようなもの持っていたの」

「ああ、そうだ。これはレックハルドのものだよ」

 イェームは、それを色あせた上着の袖でぬぐう。ロゥレンが安堵したように微笑んだ。

「良かった。アイツ、これを探してたんでしょう。見つかってよかった」

 ロゥレンは嬉しそうに言い、彼の顔を覗き込む。

「あなた、アイツの後を追いかけるんでしょう? 届けてあげて……。そうすればあいつだってそんな無茶なことしないと思うの!」

「ああ。わかってるよ」

 イェームは金貨を丁重に袋に包んで懐に収め、ふとロゥレンの肩に手をやった。その視線は何故か優しかった。

「わざわざ探してくれてたんだな、ありがとう」

「うん……」

 ロゥレンは、思わず視線をそらして照れた様子になった。少し頬を染めながら、ロゥレンは顔を上げた。

「あなたがいれば、あいつだって大丈夫だと思うの。助けてあげてくれる?」

「ああ、もちろんだ。オレはそのためにここに来たんだから」

 イェームはかすかに笑ったようだった。

「それじゃあな」

 イェームはそういうと、ロゥレンに背を向けて駆け出した。

 その背中が誰かに似ていて、ロゥレンは不思議な気持ちになっていた。

 


 ――イェーム=ロン=ヨルジュが、辺境の森を抜けて死の砂漠に向かったのは、レックハルドが姿を消して二日後のことだった。


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